2012年7月14日土曜日

博物館建設における行政の役割


 地域の公立博物館が建設されるとき、関係者とは誰を指すのだろうか。公立だから当然、設置者である地方自治体であるし、公の施設として利用する市民であるし、研究機関としての側面を考えれば研究者でもある。したがって、大きく分けて三者といったところだろう。

 建設にあたっては、委員会やプロジェクトチームが地元住民や有識者で構成され、事務局として行政がそこに関わるというのが、よく見られる形式である。問題なのは、あくまで「形式的」である点だ。ステークホルダー間での調整のうえで、博物館の構想や計画が策定されているようで、実際には、行政が用意した結論を導き出すために、市民や有識者(研究者)の選定が行政によって行われ、議論が進んでいく。

 たしかに、この方が効率的で、計画的に仕事が進みやすい。行政側としては、予算計上や議会対応など、関連するスケジュールとの兼ね合いを考えれば、議論は円滑に進んでほしいし、結論は当初の予定通りであってほしいというのが本音だ。この背景には、“結果的に”行政のプロとしての判断が、地域社会にとってプラスになるという行政職員の信念が存在することも少なくない(反対に行政職員のモチベーションが低く、仕事を早くすませたいというパターンもあるが)。


 その上であえて、これで良いのか?と疑問を自身としては投げかけたいと思う。このことを一つの事例を通して考えてみたい。
 
 1960年代から現在まで、長野県信濃町の野尻湖とその周辺で、研究者や会社員、主婦、学生といった多様な人々(野尻湖発掘調査団)が発掘調査し、ナウマンゾウ化石や旧石器などの資料が獲得され、人類史や古環境の復元のための研究活動が続けられている。



 1984年に開館した野尻湖博物館(現野尻湖ナウマンゾウ博物館)は、この発掘調査で得られた成果を収蔵・展示し、地域文化の拠点となっている。特筆すべきなのは、1960年代の初期段階から博物館整備が、野尻湖発掘調査団や地元住民、行政の間で議論されてきたことだ。調査団は「地元主義」を標榜し、地域社会と発掘調査の成果との関わり方を重視してきた。地元住民や行政がこれに理解を示して、互いに協力関係を築いてきた。その流れの一部として、博物館建設がステークホルダーによって構想されてきた。

 ところが、1970年代に入ると、徐々に各々の博物館に対する立場の違いが明確化する。調査団は「研究の拠点」、地元住民は「観光中心」であり、行政は「建設費用の捻出方法」が課題となっていた。このため、一時的に建設計画はこう着状態になった。

 博物館計画が具体化するのは、1980年以降である。その背景には、研究や文化の拠点としての博物館が、結果的に地域の主要産業である観光面にもプラスに働くという論理を町長が打ち出したことだ。もちろん、調査団によって博物館の意義が根気強く地元住民や行政に説かれてきたし、より良い博物館を地元に建てたいという地元住民の意思が存在した。その上で、行政サイドがステークホルダー間の調整役として機能したという点が重要なのだと思う。

 建設委員会で誰も積極的に発言しなかったから、行政が旗振り役にならざるを得ないケースは多い。行政による結論ありきの議論になりがちなのも、こうした原因があるのには違いない。それでもやはり、野尻湖博物館建設のように、関連する人々や団体の間を一歩引いた立場で調整するのが行政のあり方なのではないだろうか。そのためには、博物館とは何か、地域に必要な博物館はどうあるべきかをステークホルダー間で問い続けることが必要である。野尻湖博物館の建設過程がそうであったように、この調整の歴史こそが、地域の文化的活動そのものであったりするわけだから。

(ま)

2 件のコメント:

  1. とても興味深く拝読しました。建設過程が波乱に満ちていただけに、開館後の同博物館の歩みが気になるところです。機会がありましたら、そのあたりのことも教えてください。
    (peaceful_hill)

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  2. ありがとうございます。その後についてもそのうちアップしたいと思います。観光客数の減少の一方で、野尻湖=ナウマンゾウというコンセプトでまちづくりが現在進行中で、そこに博物館がどのような役割を背負っているのか、個人的にも関心をもっています。(ま)

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