2015年11月24日火曜日

大町市のおおまぴょん:祝ゆるキャラグランプリ100位

ゆるキャラグランプリ2015の結果発表が昨日ありました。
長野県大町市のおおまぴょんは、なんとジャスト100位でした!♪

昨年は300位台だったことを考えると驚異的大躍進です。
幽霊選対本部員の私には、いろんな方に呼びかけるくらいしか出来ませんでしたが…
最後の1週間は順位と票数が表示されなくなりましたが、気が狂いそうでした(笑)
愛は盲目とは、このことですね。

こうなると来年は50位以内が目標でしょうか。
来年はもっとまともにお力になりたいと思います。

(risaia)

2015年10月16日金曜日

はじめまして

小林ゼミに所属して半年が経った今、やっとブログを書きます(遅くなってすみません)。
文化経営学M1のamです。
昨年度から学部の方の小林ゼミに参加していて、修士でも院のゼミに所属しています。
物心ついた時から絵を描くのが好きで、高校で美術部に入ってからは芸術作品を見る楽しさに気づき、大学入試の翌日に森美術館で開催されていた「医学と芸術」展(2009-2010)を観に行ってからミュージアムという場所が持つ”人の思考を変える力”のようなものの虜になっています。
その時の入試は落ちましたが、東京に行けばあんなすごいものがたくさん見られるんだ!という希望がもう1年頑張るモチベーションになっていた気がします。
これはこれで地方格差の問題が絡んできそうですが、ここでは一旦置いておくことにします。
卒論ではアール・ブリュットの日本での受容について書き、今は芸術的価値がないとされていたものに価値を見出し美術館で展示するという試みを巡る問題に関心があります。
が、最近ミュージアムのソーシャル・インクルージョン活動にも興味が出てきたので、軸足をどこに置こうか迷っているところです。

ブログを書こうと思い立った理由ですが、今日から新しくとあるミュージアムでアルバイトを始めることなり、一緒に仕事をしていた文化政策を専攻しているスタッフさんと盛り上がったのがうれしかったためです。
平たく言えばテンションが上がったので、ということです。
オススメの美術館やオリンピックの文化プログラムの話、アートプロジェクトと地域の話、現代アートの授業ってなかなか開講されなくて学びにくいですよねという話など、普段所属しているコミュニティの人たちとはまた違う視点を持った方と意見交換したり情報共有したりしました。
首都圏近郊のアール・ブリュット系の展覧会情報は網羅しているつもりだったのですが、思わぬところで開催されていたのを教えていただいてちょっと悔しい気持ちになったり…
思えばインターゼミでも大町でもアール・ブリュットに関わっている方々に出会って、アール・ブリュットのことを面白くてもっと深められるべきものだと考えているのが自分だけではないということが分かって安心し、それ以上に勇気が出たのを思い出しました。

来月にはアール・ブリュットの作品を収集する方針を決定した滋賀県立近代美術館を偵察(?)してくる予定なので、そのあとにまた何か書きたいです。
(個人的には滋賀県の文化政策の動向は要チェックだと思っています。)

(am)

2015年10月15日木曜日

2015年度大町冬期芸術大学受講生募集中です。

みなさま、長らくお待たせしました。
今年も大町冬期芸術大学を開催します。すでに大町市内では配布されていますが、広く募集をしていますので、こちらにも掲載します。
2年目ですが、新しく参加してくださる方も大歓迎です。
とくに企画プロデュース講座については、現在文化活動をされている方、また新たに始めたい方に対しての課題解決をテーマに掲げています。皆様のご参加をお待ちしております。



(小林真理)

2015年10月8日木曜日

おおまぴょんを応援しましょう

ゆるキャラグランプリ2015に長野県大町市の「おおまぴょん」が出場しています。
これまで80位台をキープしていたのですが、後半戦に入って93位、95位と順位を落としています。
幽霊選挙対策本部員として(笑)、こちらのブログでも応援を呼びかけたいと思います。

残念なことにブログになぜか最近画像を入れられません。
が、おおまぴょんは、イラストでも着ぐるみでも可愛いという類稀なるキャラクターです。
大町市のカモシカをモチーフに、北アルプスや綺麗な水をイメージしています。

たかがゆるキャラ、されどゆるキャラ。
このグランプリという機会は、大町市の全国的認知度アップにとって重要だと思っています。
私自身、過去のグランプリを通して新しいまちをたくさん知ることができたからです。
まちの名前だけでなく、併せて「何がウリなのか」もアピールできるのがゆるキャラだと思います。

何よりまずきっかけを作りたい。
そういう思いでしつこくFacebookで騒いでいます。

投票は11月16日(月)まで。
1日1票投票できます。

可愛いおおまぴょん、どうか応援よろしくお願いします!

(risaia)

2015年9月27日日曜日

映画「だれも知らない建築のはなし」

建築とまちづくりの関係が気になるrisaiaです。
渋谷のシアター・イメージフォーラムで今朝映画鑑賞しました。

題名は「だれも知らない建築のはなし」。

安藤忠雄、磯崎新、伊東豊雄、R. コールハース、C. ジェンクス、P. アイゼンマン。
6名の世界的建築家たちのインタビューで構成されるドキュメンタリーです。
http://ia-document.com/

研究の関係で磯崎さんの人物像を知りたくて、見に行きました。
建築に詳しくないので、70年代以降の日本と世界の建築の流れや、
日本の安藤、磯崎、伊東がその中にどう位置づけられるのかということ、
なるほどなぁと見てまいりました。

建築物をつくりまちの風景をつくる彼ら建築家は、
絶えず「公共」という問題に直面していると思います。
その中でその問題との彼らなりの付き合い方を揉んできたのだと思います。
それでもなお、公共建築をつくる際に地元とうまく折り合いがつかなかったりする。

そういうことがなんだか悲しいなぁというのが、
建築家の問題に限らず、私の研究全般のモチベーションだと思います。

常に単純な投稿ですが、気づきです。

(risaia)

2015年9月16日水曜日

スペインにいってきました

初めてブログを更新します、M1のgataです。所属はこの研究室ではなく、駒場の地域文化研究専攻というところですが、パフォーミングアーツと、自分自身がいかに文化的で充実した生活を送れるかに関心があり(笑)、学部4年生のころから、小林先生のゼミに参加しています。
目標はおばあさんになってもフラメンコを踊り続けることだったりします。

所属を越えた知的交流の場を追い求めて(?)駒場を飛び出しているわたしは、今年から東京大学i.schoolの通年生となっています。
9月6日-13日には、i.school内での選抜に通り、スペイン・スタディーツアーに参加して参りました!

スタディーツアーでは様々な施設、機関等を訪問しましたが、なかでも印象的だったのはLa Liga Labでした。La Ligaというのは、英語に訳すと The League という意味で、スペインのサッカーナショナルリーグのことです。La Liga は、さらに観衆を増やすことを目指して、このLabで様々な研究を進めています。

La Ligaは現在、「TV観戦から、インターネットの活用」という方向に活路を見いだし、選手の動きを分析するシステムや、それをファンに届けるためのアプリ開発を行っているそうです。

わたしからすれば、オリンピックもW杯も多くの聴衆を獲得していて、これ以上ファンの開拓の余地なんてないんじゃないか…と思うのですが、今後はアジア展開も考えているとか。うーん、大人の話だ…。

さらに感心してしまったのが、レアル・マドリードのスタジアムに附属している小さなミュージアム。ここではレアルの歴史が紹介されているのですが、センスの高さに脱帽です。スペイン語がわからなくても、サッカーがわからなくても、直感的に「これはすごい」と感じられる展示でした。タッチパネルなどのデジタル技術が効果的に利用されていたのも良かったと思います。

あやうくレアルのファンになりかけてしまうところでしたが、わたしはバルサ推しでいこうと思います。
バルサ推し、とは言ったものの、バルセロナで残念だった出来事としては、同行者のiphoneがすられてしまったことでした。カサ・ミラの前の屋外席で食事をしていたところ、なにか文字が書いてある白い紙をもっておじさんが近づいてきました。物乞いだろうと判断して、気にせず会話を続けていたのですが、白い紙をテーブルに差し出している間に、白い紙で手元を隠しつつ、テーブルにあったiphoneを盗んでいったのでした…。
しかも、iphoneはちょうど使用した直後でしたから、まだ画面にロックがかかっておらず…。盗まれたことに気づいたのは、その場を後にするときでしたが、そこからが大変でした。携帯の契約を止めたり、googleのパスワードを変えたり…あらゆる対策を講じなくてはなりませんでした。

みなさまもバルセロナにいかれる際には、くれぐれもスリにはご注意ください。

以上、初めてのブログ更新でした。(まだ時差ボケ気味です。)


2015年8月6日木曜日

Bayreuthにいってきました

こんにちは、お久しぶりです。Raeです。
先日ドイツ・バイロイトで行われた音楽祭に行ってきました。
音楽に関しては特に言えることがなく、ただただオケの響き、歌手の声の強さと演技力に圧倒されてきたのですがカストロフ演出リング4部作について、少し。

初演から数年経っているこのリングは読み替え演出です。ホテルやら、アレキサンダープラッツやら油田やら巨大な山やら…が登場して、テレビカメラとスクリーンがふんだんに使われている兎に角ダイナミックな舞台。しかし、読み替え演出賛成派の私でも3作目のジークフリートを観た日には、最後に森の小鳥とブリュンヒルデとジークフリートが三角関係になってしまうという謎の場面があり途端に陳腐なやり方に見えてしまったので、こんな演出酷い!と憤りさえ感じてしまいました。
ところが、次の「神々の黄昏」のラストシーンでチョロチョロした火の登場とラインの乙女たちが映し出される映像を観ていると、何かが腑に落ちたような気がしました。さらに、終演後に出てきたカストロフら演出陣がブーイングを平然と浴びても、平然とした顔で肩をすくめ、胸に手を当てて深々とお辞儀をしたのには思わず大笑いし「負けた!」とすら思ってしまいました。何度も観ない限り演出分析は難しいことですが、「分からないところや混乱することがあっても、この演出でそれを一々分解して取り上げ、見ていくことには意味がない!」と言っているような気がしたのです(最近の映画や演劇にもそういう手法がありますね)。それにしても、このような劇場に来ると日本のオペラ公演で足を踏み鳴らす大喝采やブーイングがないのは味気なく感じてしまいます。

ところで、初めてのバイロイトだったので色々と驚くことは多かれど、休憩中どこでもジークフリートかヴァルハラのライトモティーフ(※)を口ずさむ人がいたことには独特の雰囲気を感じました(かくいう私も一緒にいた友人にライトモティーフを気付かぬうちに熱く語っている自分がいて、友人もそれを歌うようになり、で。ワグネリアンでもないのにワグネリアンの気持ちを少しは理解できたような気がしたのですが…)。

この時期はさすがに町中どこでもワーグナー一色で、普段の街の様子はどうなっているのだろうと少し気になりつつバイロイトを後に…

(※)ライトモティーフ:わかりやすく言えば、映画のサントラの愛のテーマ、⚪︎⚪︎の登場のテーマのような、キャラクターや心情、情景を表すメロディー

2015年7月19日日曜日

2年前の鶴岡合宿! 加茂水族館、その後

クラゲ水族館といえば…
 文化施設運営…常に小林ゼミで話題とされ、全国の施設事例を参照し、その可能性を探っている課題ではありますが、今回は2年前の山形県鶴岡市の小林ゼミ合宿で訪問した加茂水族館の近況をお伝えいたします。
 今回の情報源は「THE BIG ISSUE」という雑誌で、「ホームレスの仕事をつくり自立を支援する」ことを目指した雑誌記事からです。私は出来るだけこの雑誌を買っているのですが(本郷三丁目かねやす前の交差点で販売員さんが販売しています)、実はゼミに関連する記事掲載も多く、自分はほかには定期的に雑誌を買ったりはしないのですが、これは毎号逃さず買っています。そして267号に加茂水族館の話題が掲載されていて、とてもいい記事だったので紹介したいと思います。何といっても2年前の合宿で、みんなが夢中になったクラゲ水族館のことですし!

民間スタートの加茂水族館 その困難なる歩み 
 全国的にも有名ですが、加茂水族館は1930年に地元有志によってスタートした民間水族館でしたが、1944年には県に譲渡、戦時中は海軍新兵の訓練場や水産学校の仮校舎として使用され、55年には鶴岡市立となり、1964年には建て替えられて新たなスタートを切ったそうです。小林ゼミの合宿で訪問した、あのレトロな施設はこの1964年の建物だったのですよね。とにかくレトロでした…。
 訪問時の館長だった村上龍男氏は1966年に館長に就任、その年に水族館は第3セクターの「庄内観光セクター」に売却されてしまったものの、近隣に新潟市水族館や秋田県立男鹿水族館ができ、入館者は減少、1971年には運営会社が事実上倒産し、職員は全員解雇を言い渡されたそうです。改修費もないほどみすぼらしい水族館は企画展をしても人が集まらず、流行に乗ってアライグマやナマズやラッコを導入してもどうにもならず、1997年に入館者は最低の9万人に落ち込み閉館を覚悟しました。
 
かなり偶然なクラゲとの出会い
 しかし、「生きたサンゴと珊瑚礁の魚展」の際に、展示中見たこともない生物が湧いて出て、それを飼育したところ、それがサカサクラゲでお客さんに大いに受けたことからクラゲの飼育が始まったそうです。クラゲの飼育は容易ではなかったものの、2000年には15種類のクラゲを展示し、「日本一」を記録、入館者も10万人を越え、水族館は再び鶴岡市に買い戻されました。2005年には展示種数「世界一」を記録し、2012年にはギネスに認定されました。そんな状況で人気も上昇し、水族館再建のためのクラゲドリーム債も大当たりし、立て替え工事が進行中だった時期の加茂水族館に小林ゼミ合宿での訪問は行われたわけですが、当時、素朴な施設ながらスタッフさんの熱意やクラゲの美しさに感動して、訪問時間が足りなかったくらいに充実した見学だったことが思いだされます。クラゲは本当にきれいでした。クラゲによるクラゲの捕食ショーとか、クラゲラーメン・クラゲアイスの販売など、どことなくシュールでユーモアのある展示が印象的でした。
 
2014年待望のリニューアルとその活況
 20146月にはいよいよリニューアルし、今や世界の各地から視察もあり、20154月からクラゲの飼育に尽力してきた奥泉和也氏が新館長に就任し、開館からの1年間に83万人の入館者を数えたとのことです。水族館の水槽はすべてクラゲの生態に合わせて奥泉館長が設計したそうで、再建時から話題となっていた5メートルの水槽によるクラゲの展示は圧巻の美しさだそうです。全国各地からの来館者はもとより、水族館をサポートするボランティアの方々の参画もさかんな様子です。
 昨年度の文化施設経営論(実践編)でも大いに話題となり議論された加茂水族館ですが、今回の記事を読んで、過去に一発で「クラゲ」のアイディアに行き着いたのではなく、ラスカルブームのアライグマやラッコの導入とその失敗があったことが印象的でした。その試行錯誤にはどれだけの苦労と迷走があったことでしょう。水族館がどんどん廃れていくなかで、必死に館の運営に尽力された前館長の村上氏の足跡は『クラゲに取り憑かれた水族館15年の取り組み』(加茂水族館刊)などに詳しいですが、あのすさまじいレトロな水族館であった時点での加茂水族館が見られたことが、その再生がいかに大変なものであったかを知るよすがとなり、鶴岡合宿で行っておいてよかったなと今改めて思う次第です。
 ハコモノのハコモノ的なリニューアルより先に、自分たちの運営実態を見つめ直し、そこに従うかたちでハコモノの再建が導かれた加茂水族館の足跡は、永く文化施設を語る際の事例として取り上げられていくのだろうと思います。

何が加茂水族館のいいところなのだろう?
 そのキモは、現館長の言葉、「前館長がどんなことも楽しみながら『これでいこう』という方針を決めてくれたから」「だから私もスタッフの提案にはできるだけNOと言わず、楽しいことは必ず乗るようにしています」にあるのだと思います。単純なようですが、なかなかできないことを、やってしまっている加茂水族館。是非、再訪したい文化施設です。

Mube

2015年7月5日日曜日

五輪文化プログラムに関するシンポジウム

昨日、文化経済学会のシンポジウムに参加してきましたrisaiaです。
「五輪文化プログラムの社会的意義と役割―ロンドン2012の実績と東京2020への展望」
シンポジウム後、大町市を特集したテレビ番組に帰宅が間に合わずショックで、
当日中にブログを書くつもりだったのを放棄しておりました。

アルバイトで近いことをやっていたので文化プログラムには関心を持っていました。
打ち上げ花火で終わらない文化プラグラムの実現は大前提の共通認識になっていますが、
ロンドンの残したレガシーの検証も時期尚早な感があり、そもそも評価の尺度も不明確な中で、
効果的なプログラムを構築していくということは、かなりの困難を伴うだろうと思います。

ロンドンの成功や失敗に学ぶのはまだ難しいとすると、
過去より未来を思考のベースに置いて考えていく必要があると改めて思いました。
ロンドン・キングスカレッジの文化部門ディレクターDeborah Bull氏がおっしゃったように
「どういう変化を起こしたいか」が重要で、丁寧に検討されていくべきだと思います。
起こしたい変化、未来の日本の姿を描き、そこから具体的プログラムが導かれるのがベストではないでしょうか。

抽象的な段階で、私が持てる意見にしてもそう大したことは言えません。
東京藝術大学教授でアーティストの日比野克彦氏がこのようにおっしゃいました。
「いろんなものがあるなかで、多様性の価値を一番許容しているのが芸術。
 それが社会の基盤にあってもいいくらいだと思う。2020がそのきっかけになればいい」
非常に漠然とした話ですが、なんとなくいいなと、少しわくわくしました。

なんだかもやっとします。
でもこれ以上書いても同じことを繰り返すように思うので、
とりあえず潔く、今日はここまでにします。

(risaia)

2015年6月25日木曜日

東京オリンピックの文化プログラムの行方

2020年の東京オリンピックにおいて全国的に開催する文化プログラムについて、今後どうなっていくのか。文化政策の研究者としては気になるところです。ただのソフトの公共事業に終わらないことを願っています。今、この問題であちらこちらで議論が行われています。そのうちの一つ、来週、文化経済学会<日本>の年次大会が開催されます。シンポジウムの方は、会員でなくても参加できます。申し込み制ですので、締め切り等ご注意を。(小林真理)

以下情報。

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文化経済学会〈日本〉では、この度、、アーツカウンシル東京、ブリティッシュ・カウンシルとの共催で、2015年度研究大会シンポジウム「五輪文化プログラムの社会的な意義と役割――ロンドン2012の実績と東京2020への展望」を開催いたします。皆様の
ご参加をお待ちしています。

シンポジウム:五輪文化プログラムの社会的な意義と役割――ロンドン2012の実績と東京2020への展望
日時:201574日(土) 15:1517:30
会場:駒澤大学 駒沢キャンパス 1号館 1301教室(受付は1号館2階)

2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を5年後に控え、文化プログラムへの期待が高まっています。
しかし、一過性の文化イベントを開催するだけでは意味がありません。文化プログラムを通じて何を達成し、どのような成果を残すのかを明確にすることが求められています。2012 年ロンドン大会の文化プログラムは、かつてないスケールと内容を伴うものでした。それは、英国社会にどのようなインパクトをもたらしたのでしょうか。 
シンポジウムでは、ロンドン、キングズカレッジの文化部門ディレクター、デボラ・ブル氏をお迎えし、ロンドン大会の文化プログラムの社会的インパクトやレガシーに関する基調講演を頂いた後、五輪文化プログラムの社会的な意義と役割について、文化政策やアーティストの創造活動への影響、地域活性化、社会包摂、教育、観光、産業、経済等への波及効果など、幅広い視点から検証し、2020 年東京大会における文化プログラムの目指すべき方向や課題を展望する予定です。

基調講演:2012年ロンドン五輪 文化プログラムの社会的インパクトとレガシー[仮題]
デボラ・ブル ロンドン・キングズカレッジ 文化部門ディレクター

パネル・ ディスカッション:2020年東京五輪文化プログラムへの期待と展望
パネリスト
真田久 筑波大学体育専門学群学群長/東京のオリパラ教育を考える有識者会議委員長
日比野克彦 アーティスト/東京芸術文化評議会評議員
毛利嘉孝 東京藝術大学准教授
デボラ・ブル
モデレーター
吉本光宏 ニッセイ基礎研究所研究理事/東京芸術文化評議会評議員

日英同時通訳/参加無料・要申込み/定員400
申込み締切:629日(月)

お申し込みは http://www.jace.gr.jp/taikai/2015JACE_sympo_flyer.pdf から「シンポジウム案内・申込用紙」をダウンロードして必要事項を記入の上、ファックスでお送りいただくか、下記アドレスに、件名「シンポジウム参加申込み」と記載いただき、お名前(ふりがな)、ご所属、日中連絡の取れる電話番号、メールアドレスをメール本文でお送りください。

*文化経済学会<日本>会員の方は学会HPより大会参加登録を行ってください。
*シンポジウムとは別に研究大会では特別セッション、分科会、エクスカーションも開催されます。そちらも申し込まれる方は学会HPでご確認の上、申込みをお願いします。分科会、エクスカーションへの参加は有料となっています。
*参加確認のご連絡・登録証の発送等はしておりません。ご了承ください。
*頂いたお名前、ご連絡先等個人情報は、本大会の申込に係る連絡以外の目的には使用せず、大会終了後、当学会事務局の責任において直ちに抹消させていただきます。

お問い合わせ先:
文化経済学会〈日本〉事務局
(株)ガリレオ学会業務情報化センター内
TEL03-5981-9824
*事務局は7/4より現場作業に入っているため、参加申込に関する直前のご連絡等、確認することができませんので、予めご了承ください。

ここにはドラキュラ以外に何があるか?

先日九日間のルーマニア旅行より帰ってきました。主な目的はヨーロッパ三大演劇祭の一つであるシビウ国際演劇祭で、こちらでは七日間に16公演というお祭り騒ぎを満喫したのでいいのですが、今日は首都ブカレストについて書きます。
元々この街はシビウ(首都よりバスで四時間半)に行くための中継地としてしか考えておらず、特に見学したい場所もありませんでした。というより、知り合いの東欧研究者が「私にとってもルーマニアとブルガリアは東欧の秘境」と言っていたのと似て、この地に関して何も知らなかったからだと思います。
唯一『世界の美しい書店』という本で紹介されていた本屋が旧市街にあるらしいので行ってみようとそこへ足を運んだ際、本屋近くのギャラリーでこの街が2021年度の欧州文化首都選定を目指していることを知りました。ギャラリーには昔の都市生活を伝える白黒写真や部屋いっぱいに広げられた航空写真があり、色とりどりのシールを張り付けてありました。シールは色別に学校や教会、公園の位置を示し、さらには”best buildings” “worst buildings” “buildings with unused potential”の項目もありました。住民自らが街の長所短所を掘り起こす作業といえます。
そのギャラリーにて、明日から関連イベントが開催されると聞いたのでシビウへの移動前に行ってみたところ、朝10時だったためにブース(ルーマニアのデザイナーによるTシャツ販売や地球温暖化対策の紹介)のほとんどは開店前の状態でした。その代わり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した建築家であるIon Mncuの邸宅の内部紹介をやっているから来てみませんかとボランティアらしき人に誘われ中へ。長らく放置されていた建物を2003-12年の間に修復し、一般公開を始めたとのこと。今でこそ壁画と対になった天井画や当時の重厚感ある家具が印象的な落ち着いた空間でしたが、修復前の荒れ果てた様子も写真で紹介され、天井の一部をあえて塗装し直さずに、修復前後の状態を見比べられるようにしている箇所もありました。ボランティアの方は英語で説明してくださったものの、展示説明やチラシは全てルーマニア語のみだったので、これはかつてブカレストにはこんなに美しい場所があった、と地元の方にまず知ってもらうための活動だと判断しました。
 
演劇祭を後にして、再びブカレストにやってきた旅行最終日。この街で一番の観光名所はチャウシェスク政権時代に着工が開始した国民の館(現国会議事堂)、ペンタゴンに次ぐ世界第二の大きさを誇る巨大建築物です。社会主義国にこのような権威主義むき出しの建築物が建つこと自体はさほど珍しくもありませんが、着工時期は1980年代だと知ってびっくり。他の国では社会主義というシステム自体がぐらつき始めていたというのに、ルーマニア政府にはこれだけの物を建てる力があった、というよりそれだけ強い権力者がいたということ。

とにかくその大きさを体感してみようと敷地周辺をひたすら歩き始めたところ、国立現代美術館のポスターを発見。こうした建物には部屋が何千とあるでしょうから、その一部を政治以外の目的に使っているようです。ルーマニアの芸術と聞いて何一つ思いつかなかったこともあり、10時の開館を待って入ってみることにしました。門から約500m進んで見えてきた美術館は、広大な建物の中でそこだけかなり印象が違いました(右写真)
 
5階建ての施設では各階に別々の展覧会があり、国立芸術大学創立150周年記念展や、国外に移住したアーティストの作品展など色々興味深く拝見しましたが、ここでは一番印象に残ったLet's Play Architecture展について書きます。学校と連動して、建築家たちが子供たちに街について考えてもらう授業を行い、その成果が展示されていました。レゴブロックや色紙などで作られたカラフルな街の模型がいくつも並べられていたほか、他の都市について調べた班もいたようで、ニューヨークやベルリンに混じって東京も紹介されていました。ここで中世都市として“調査対象”に選ばれるあたりはさすがシビウ。言ってみれば小学校の図画工作を展示しているだけなのですが、それがこの街では大きな意味を持ちます。子供たちに「どんな街になったら楽しい?」という問いを考える機会を設けることが重要になるほどに、ブカレストは暮らしていくのがとてもしんどい街に思えたのです。
多くの国が比較的穏健に体制転換を成し遂げた東欧革命の中にあって、ルーマニアは唯一、反体制側にも多大な犠牲を出しつつ、最終的には元大統領夫妻の公開処刑という暴力的手段をもって民主主義化しました。そんな歴史を持つ国がわずか20数年程度で上手く軌道に乗ることは難しいだろう、と旅行前から漠然と思っていたことではありました。実際にブカレスト中心部を歩いて、ここは都市計画からして何かが上手く行かなかった印象を持ちました。歩きたい(あるいは私の場合、走りたい)という気持ちが起きにくいのです。公園でも木が密集していて広場らしきものはなく、開けた空間というものが見当たりません。唯一の例外が皮肉にも国民の館付近で、ここだけはその巨大な建物が遠くからでも見えるように、周囲の視界を遮るものがありませんでした。どの旅行案内書にもある通り、道を平然と野良犬がうろついていることも街に繰り出したくなくなる一因(ただし犬はシビウにもいて、両都市ともに彼らは犬というよりは野良猫のように「可愛がられて」いました)。
 
たとえ街に見るべき場所があるにしても圧倒的に紹介が足りない。あんなに充実した美術館も偶然発見したのであって、どの案内にも書いてありませんでした。普通の観光客なら国民の館ツアーに参加しただけで帰ってしまうでしょう。
 
姉妹都市であるルクセンブルクとともに2007年の時点で欧州文化首都に選定された実績を持つシビウと、これから選定を目指しているブカレストとでは大きな差を感じました。かたや中世からの建築物が残る小都市、かたや近代的で国内で最も多くの人口を抱える首都なので単純な比較は難しいですが、どちらの都市にいた方が楽しいかと聞かれれば多くの人が前者を選ぶでしょう。もはやシビウは文化首都に頼らずとも、毎年各国から人が集まる演劇祭で盛り上がるだけの力があり、その期間外であってもスポーツや文化事業が充実している。むしろ文化首都選定が大きな意味を持つことをシビウの例から知っているからこそ、ブカレストも本腰を入れ始めたのでしょう。ただ、現状からして選定への道のりはかなり厳しいと思われます。
 
わずか数日の滞在で一都市の良し悪しを判断するのは不可能です。日本人の間ではショパンのイメージが強い(というかそれしかない)ワルシャワが、それこそ多くのpotentialを秘めた場所であると気付くのに私自身一年かかりました。
どの都市でもそれぞれの状況下で模索を続ける人がいる。そしてそれはブカレストでも同じだった。月並みですが、これを一応の結論として報告を終わります。
(N.N.)

2015年6月24日水曜日

当たり前のことですが、資料整理は一日にしてならず

この春より元職場だったところの某私学の史料室でお手伝いをしているMubeです。

元職場といっても史料室にいたわけではないので、こんなにどっぷりと原資料たちに取り囲まれるのは初めてです。戦災を受けなかったその資料群は「宝の山」ですが、多くの私学の史・資料室同様、そこには目録もなく、日々各部からやってくる事務資料、さまざまな寄贈資料が山積していく状況は、山を崩せども崩せども積みあがっていく、なかなかな状況です。

「百年史」事業後が肝心…
おおよその私学の史・資料室の成り立ちは「百周年」あたりで、「記念史を作らねば!」ということで、いそいで資料が集められ、編纂委員会が組織され「百年史」が刊行され、その記念事業後に残った資料群をもとに「なんとなく」史・資料室ができる…といったパターンが多そうです。私のいるところもそんな感じです。そしてご存知のようにアーキビストの国家資格制度も整っていない我が国ですので、その史料室の資料整理の歴史は図書室旧教諭による図書館的整理方法の時代、デジタル化以前のアナログな整理方法の時代、史料室を同窓生情報交換室と見立て整理カードを破棄しようとした形成がある謎の時代…など振れ幅も大きく、非常に興味深い様相を呈しています。
 
ザ・「窓際部署」
そして多くの私学同様、そこは「窓際部署」とされているので、学校事務にとって「存在価値がわからない」ものとされがちです。私の勤務先でもはっきりと元上司に「あんな部署は若いもんの行くところではない」と言われました。その発言に思うところがあり、私は文化資源を目指したのですが…。

意外な外部での認知度アップ 
ところが、そんな史料室にやってきたのが「朝ドラ大騒動」でした。卒業生の執筆した作品をもとにしたNHKの朝ドラが大ヒットして、史料室は超多忙の部署となりました。私はその時期に勤務していなかったので伝え聞きですが、連日問い合わせと取材依頼がやまず、数年前から地道に整備されていた所蔵写真データベースが大活躍し史料室は迅速な資料提供を行い、入試志願者も倍増、学校は大いに恩恵を受けたようです。資料整理は一日にしてならず、で、先人たちの見えない地道な努力があってこそ、資料提供が可能だったわけです。
 
文化資源の金言、「資源ごみ」のたとえのごとく
しかしこんなブームがあっても、画期的に史料室の学内認知度が上がるわけではありません。資料が資料として存在するには、価値の体系化、効率的な配架、利用のための媒体変換、物理的な資料保存管理などの行程が必要ですが、どうもそういうものが見えづらいらしく、ただ資料は資料として置いてあるだけ、と思われがちなようです。価値を付加しなければ資料は資料たりえず、ただのごみなのですが…先日は、文化資源の大先輩が来室してくださり、資料目録構築にあたってたくさんのアドバイスをくださいました。手探りの私学の史・資料室の整備には他機関や他校の情報が欠かせません。

賢い私学の学校経営戦略
しかしながら、賢い私学はもう気づいているらしく、入試広報の上手な学校は一方で史・資料室の整備を進めており、自分の学校の「伝統化」を意図的に進め、自校史教育などを推進しています。史・資料室を「昔が好きな好事家の部署」ではなくて、「現在の学校経営につなげていく部署」として位置付けているわけで、文化経営的にも注目していきたい動向です。

このような環境下で、今週もいくつ山が崩せるか…と思いつつ、面白い資料をついつい読んでしまい、「整頓に集中しましょう」とにこやかに注意されるこの頃であります。                 
                                   (Mube

2015年6月22日月曜日

社会と芸術フォーラムに参加して


去る21日(日)、社会と芸術フォーラムの第1回に参加しました、risaiaです。
テーマは 「公共性(Public Sphere):『社会的なもの』と公共性の微妙な関係」 。

アートだからこそできること、アートにしかできないことは、ない。

参加者から口々にそうした言葉が出ました。
「アートの力」を盲目的に期待するのではない。
アートはあくまで数ある機能的に等価な代替案の1つ。
経験や事象の観察から見えるアートの立ち位置を冷静に捉え、
その認識を共有してスタートラインに立ったことは意義深いと感じました。

フォーラムでは「アート」という言葉そのものにも疑問が呈示されたので、
あまりアートアートと書くのもどうかと思いつつ、やはり便利ではあります。

今日は何となく、これくらいに。お粗末でした。

(risaia)

2015年6月17日水曜日

アートによる前進!被災地「千人仏プロジェクト」ついに都美での展示へ

相変わらずの不眠症risaiaです。
さらに肩も凝ってしまっていけません。

昨年夏、私も同行させていただいた「千人仏プロジェクト」。
6月21日(日)から27日(土)まで都美での展示が行われます。

このプロジェクトは、東日本大震災の被災地のサポートセンターなどをめぐり
近隣に住む方々に集まっていただいて仏の木炭画を描いてもらうというもの。
1000枚の絵をつなげて1つの作品にすることを目指し、現在730枚。
今回の展示では、途中経過ということでうち311枚をお披露目します。

プロジェクトの中心になっているのは、東京で絵画教室を開く画家三杉レンジさん。
大手コンサルの復興支援室とタッグを組み、3年前から被災地に何度も足を運んでいます。
震災の記憶を後世に伝える「ドキュメンタリー絵画」を作り上げることだけでなく、
仏の木炭画を描くことにより安らぎを感じてもらうというセラピー効果や、
近所の人が集まる場をつくることによる孤立の防止も意図されています。

先日のツアーにはNHKの取材が入るなど、徐々に注目されているように思います。
関わらせていただいている者としてとても嬉しいことです。

ただ懸念していることもあって、1000枚集まったらどうなってしまうのだろうということです。
全作品をつないで巨大絵画を完成させ、東京や被災地で展示していくということなのですが、
「心の復興」のお役に立つという側面が一気にフェードアウトしてしまうように思います。

数の目標を設けてしまったこのプロジェクトが今後どこへ向かうのか。
震災という重い記憶を抱えながら、そのことすらアーティストの「作品」であるということ。
アートが社会と関わる難しさをこのプロジェクトも例にもれず背負っています。

素人が行くと逆に足手まといかもしれませんが、展示準備のお手伝いをすることになりました。
ツアーでお世話になったアーティストの方々とは久しぶりにお会いすることになります。
ボランティアは実質ツアー参加でしか関われないという現状は少し残念です。
ともかく、久しぶりの再会を楽しみにしています。

(risaia)

2015年6月10日水曜日

上野動物園のリアルな展示

最近若干生気を取り戻したrisaiaです。

本日突然の用事で、上野動物園に行ってきました。
そこでプチ衝撃に出遭いました。

※ややグロテスク、ショッキングな表現がありますのでご注意ください。

まず、可愛いペンギンたちの足元の水槽に、かなりの量の魚が沈んでいました。
それはまだいいとして、フクロウに始まるひと並びの展示では、皮のはげた鶏ふうの頭部だけが、直立したり、複数転がっていたり、それを雀が啄んでいたり。

上野動物園の意図はわかりませんが、「生」の真摯な展示はこうなるのだろうかと思いつつ。

こんな動物園展示はこれまで見たことがありません。
子供の時に見ていたら、かなりトラウマになったろうと思います。
園内の子供たちを見ながら、勝手に心配してみたり。
子供たちの目にも、花形の展示動物の足元は映るのでしょうか。

ホルバインの「大使たち」が、なんとなく脳裏に浮かびます。
「生」の展示が、本来すれすれの問題をはらんでいるということを、改めて思い起こさせられました。

(risaia)

2015年6月8日月曜日

歴史の街から思い出の街へ-韓国九龍浦(クリョンポ)

もう、東京は梅雨に入ったのでしょうか。
天気が不安定になっているようですね。

皆さん、こんにちは。久しぶりに投稿するbanulです。
今日はこの間NHKでも紹介(http://www6.nhk.or.jp/kokusaihoudou/lounge/index.html?i=150501)されていた、韓国南部のポハン市にある、九龍浦(クリョンポ)地区について紹介したいと思います。

ポハン市は釜山から、車で2時間程度北東側に向かった走れば出てくるところで、東海(日本海)と接しています。ここには韓国の大手企業POSCOの本社と工場があることから、経済的に豊かな地方都市でもあります。

このポハン市の一角に九龍浦という町があります。
最近、この町に観光客が次から次へと足を運んでいるようです。
そもそもポハンのホミコッというところは、お正月(その以外の時期でも)に日の出を見に来る場所として韓国全国の中でも最も有名な場所でありますが、九龍浦とうい地域はさほど外部の人には知られていない地域でした。
この町がホミコッと合わせて観光の町になったきっかけは、ポハン市が「近代文化歴史街復元事業」の一つとして「九龍浦近代文化歴史路助成事業」をおこないいます。その中で、「九龍浦近代歴史館」を開館(2012年7月31日)することによって、その周辺の街も整備されました。(復元のため、ポハン市は2010年~2013年、事業費85億ウォン投入)

(九龍浦近代歴史館(ポハン市ホームページより)

九龍浦がどのような近代文化歴史を持っている町なのか。

今から100余年前、誰も住んでいなかったここに日本人の手によって町が形成されます。
1906年、日本香川県出身の橋本善吉と、岡山県の出身の十河弥三郎が代表となって、多くの日本の漁師たちと800余隻の船を率いて、東海(日本海)の豊かな魚資源を探しに、黄金の地エルドラドを夢見ながら定着したのが、ここ九龍浦であります。
彼らは、この九龍浦を基点として本格的に事業(鮮魚運搬業等)を行い、大成功となります。
1930年初からは、ここ九龍浦は最高の全盛期となります。その盛り上がりは、犬までが札を口で噛み付いているほどであったと言われています。そのぐらいにここ九龍浦の漁獲高は凄かったでしょうね。当時、ここに住所を持っていた日本人が1,000人を超えていたと言われています。
植民地時代に日本人により漁業、船舶業、缶詰加工工場等を通じた経済活動を行ないながら、日本人集団居住地を形成したのが、ここ九龍浦であります。
九龍浦は、1930年代劇場、病院、デパート等、近代式機能をもつ都市として発展して、とても賑やかなところでした。

以上のような歴史を持っている九龍浦は、ポハン市により再び賑やかな町へと変わっていく。
ポハン市は九龍浦近代歴史館を中心に、九龍浦近代文化歴史路助成事業を通じて、九龍浦の新しい活力を探し、国内・外の新しい観光名所として変態するきっかけとなることを期待していると言っています。
九龍浦漁業組合長であった橋本善吉の家だった建物を、2010年ポハン市が買い入れ、復元作業を通し、九龍浦近代歴史館として開館するなど、日本の家屋を30棟復元して、九龍浦近代文化歴史路を作り上げ、日本人街を再び誕生させました。

九龍浦近代文化歴史路は歴史の場所から、思い出の場所へと変化していくところです。
昔の人には(その時代を経験した人や記憶している人)この場所が苦しみであり、歴史の場所でありますが、現在の人には思い出の場所であり、観光地であります。
このように、九龍浦の近代文化歴史路助成事業によって、この場所はまた別の場所性を持つこととなります。

九龍浦を訪問して何を学んで何を校訓にするかは、ずるいかもしれませんが人それぞれに任せることにします。

(bangulより)



 


 
 

 





 




2015年5月28日木曜日

姫路で見つけたもったいない文化施設

先週末ふらっと姫路に家族旅行してきたrisaiaです。

姫路城はこのほど6年にわたった改修工事を終えました。
そういうわけで今ちょっぴりホットな観光地となっています。

勉強してから行こうと、姫路市埋蔵文化財センターも訪れました。
名前の通り、埋蔵文化財を調査研究、展示する施設です。
「姫路城ー保存修理の歩みー」という展示が行われていたのです。

姫路市埋蔵文化財センター外観(姫路市HPより)

そしてこれが、タイトルの文化施設です。

中心地である姫路駅とお隣りの御着駅の間に位置します。
車で訪れましたが、カーナビも若干戸惑い気味の立地。
畑とわずかの住宅のなかに、立派な建物が突如現れました。
地元の人にどう思われているのか、なんとなく考えてしまいます。

そして第2の戸惑いは、がら空きの駐車場。
休館日でもないし、日曜日なのに、まさかのrisaia家貸切状態。
直前に姫路城を通りすがったとき、原宿並みにごった返していました。
その姫路城について展示しているのだからこちらも…と予想していたのです。

展示の内容はというと、足を延ばした価値はありました。
特別展示は小さい1室で行われているのみでしたが、
昭和の大修理(1956~1964年)の写真や工具など面白く見ました。

常設展示は、施設に隣接する宮山古墳などの出土品。
ほかに、講座が開かれる研修室や、広めの研究スペースと思しきものがありました。

しかしとにもかくにも、それなりに面白い展示をやっているのに
滞在中にほかの来館者がひとりも現れなかったことはショックでした。

ツアー旅行のルートに入ってこないのはなんとなく分かります。
しかしさらに、個人旅行者の目にも留まりにくい施設なのだと思います。

というのは、普通に姫路での訪問先を調べているぶんにはなかなかヒットしないのです。
私は姫路市観光情報HPから51件の訪問先を洗い出し、逐一検討していました。
このやり方でなければ、姫路市文化財センターに行き当たらなかったように思います。
さらに、姫路城にちなんだ展示を開催していることも掲載されていませんでした。
施設の存在を知り、個別に検索してみて初めて分かったのです。
若干のアクセスしづらさはありますが、広報の問題が大きく思いました。

貸切状態は快適でしたが、もったいないなと感じた施設でした。

(risaia)

2015年5月26日火曜日

神田祭 附け祭 むかしむかし浦島は

今回の付け祭 初の試み 「魚のつくりもの」

 なんだか怒涛の春でした…ブログも書けずにおりました。そのなかrisaiaさんのブログにありましたように、神田祭附け祭に私も参加いたしました。
 今回は3Dプリンターで魚の鋳型をつくり、幾度かのワークショップを経て各人が魚のつくりものを完成させ、お祭りに着用して参加!という新たな「浦島太郎班」の試みがありました。私は地元というご縁もあって、昨年夏より準備に少しずつ参加してきましたが、江戸時代の町人気分の手作業の時間は、頭を空にできるよい時間でありました…。
 
 

 
祭は変わる 伝統とともに死ぬか?変わるか?

 文化資源に所属していてよかったなーと思うのは「伝統を疑え」みたいな発想です。日本三大祭を標榜する神田祭にそんな疑いの余地をはさむ隙もなさそうなのですが、祭は世につれ…というわけで、祭というものも有機体であり、時代との摩擦に常にさらされているものであることを忘れてはいけないなと思うのです。

 江戸時代、山車の祭だった神田祭が明治期以降、お神輿の祭へと変化していった過程を木下直之先生が再三レクチャーしてくださっていますが、祭を支えるまちのコミュニティーの変遷も大きいです。かつて神田は商業がさかんで、「旦那衆」と言われるような富裕層が多大な寄付をおこなうことで祭は成り立っていました。しかしもはや昔の商売が立ち行かなくなっていく時代のなかで、町会の寄付集めは年々きつくなり、担ぎ手も地元の人では足りない、複雑な神輿の運行を仕切る人材の不足、町会役員の高齢化など、運営が厳しい現状があります。一度、我が家で青年部員同士が「どんなにきつくても伝統を守る派」と、もっと「現実に即して祭は変わるべき派」と熱く口論していました。「いつかお神輿が上がらない日が来る」という危機感が二人に共通だったかと思います。

 
附け祭(文化資源の出し物は脱力系であるが…)何ものかではある

そこで、附け祭の存在が浮上してくるのかなと思います。お神輿の運行を町会メンバーで固めている、ある種の排他性とは対極の「ゆるい参加形態」、「低予算」(お神輿は製作もメンテナンスも高い)、「老若男女が制作・練り歩きに参加できる」(お神輿は体力ないと担げません…)など、もしもお神輿が上がらなくなった時にはこれだなーと思いつつ参加していました。神田神社が附け祭に関心が高いのも、次世代の祭への模索が少しあるのではないかなと思っています。

 お神輿の雄姿はやはり美しいものです。お神輿は明治期以降に主流になったとはいえ、すでに100年ほどの時を経て、それは立派に「伝統」になっています。しかしその「伝統」にとらわれるのか、「伝統」自体を見つめなおすのか、文化のさまざまな局面で繰り返されてきた普遍的な問いが問われているなあと思う神田祭の日々でした。                     
                                    (Mube

2015年5月15日金曜日

神田祭附け祭に侍女

M2に進級しました不眠症のrisaiaです。
5月9日(土)神田祭附け祭に侍女役で初参加させていただきました。
準備などまったくお手伝いできなかったのに綺麗な衣裳を着せてもらい恐縮です。

今年神田神社の遷座400年を祝った神田祭。
文化資源学研究室は2007年「神田祭附祭復元プロジェクト」を発足。
附け祭というのはお祭りのパレードのようなもの。
カラフルで張りぼてで賑やかでした。

文化資源学研究室に入って早1年が経ちました。
私の中でひとつ大きく変わったなと思うことがあります。
張りぼての「つくりもの」が容認できるようになったことです。

つくりものは悪いもの、ほんものが良いもの。
ほんものなんて分からないのに、そう囚われていたと思います。
文化はいつもつくっていくもの。書いてみれば当たり前のようです。
しかし、それを本当に受け入れられたのはここに来てからに思われます。

本当に、面白くて変な研究室です。
これまでの1年を振り返って、改めて、好きですね。
これからの1年もどうぞ宜しくお願いします。

早朝から「囚」という漢字にときめくrisaiaでした。

(risaia)

2015年5月6日水曜日

初夏到来。20時くらいにならないとネオンは夜に映えません

先日ネオン博物館に行ってきました。
第二次世界大戦で壊滅したワルシャワでは、戦後に復興と称して多くの社会主義的な建築が建てられました。一般的に高官向け施設は豪華絢爛で権威主義的、労働者向けの団地はひたすら真四角で素っ気ないです。今でも厳めしい労働者の石像やレリーフなどを見つけることができます。現在ではそれがお洒落なミニシアターやカフェバーに改装されていたり、レリーフの真下にケンタッキーフライドチキンがあったり、団地を地域コミュニティーとして見直したりとそれはそれで興味深いのですが、今日は別の話です。 
 


1956年のスターリン批判以降、ポーランドでも当局の締め付けが若干緩み、労働を讃美する怖い石像の代わりに資本主義に繋がる広告を設置してもいいだろうと判断されました。その結果、196070年代には社会主義国ながら広告の黄金時代が到来するというやや矛盾した現象が起こります。ネオンはその流れで重要な役割を担い、右の化粧品広告のように今も現役というものも結構あります。
問題は時代の変化に伴い、時代遅れや不要と判断されたネオンをどうするかです。かつては公共建築ではなかったからこそ栄えたネオンが、今度は公共建築ではないからこそ広告としての価値を失えばそのまま撤去や処分の道を辿ることになりました。そこにIlona Karwińskaという写真家が登場します。彼女は2005年よりポーランド中の面白いネオンを写真に収めるプロジェクトを始め、その多くが存続の危機にあることを知ります。そこで彼女はDavid Hill とともに2012年に本施設を開館しました。 
 

 
博物館はまさしく倉庫といった感じで、入館者が来る度に係員が主電源を入れる省エネ運営。ブーンという音を聞きながらネオンに添えられた説明を読むと、その多くが2000年代に元の場所から撤去されて本施設に寄贈されていました。閉店や経営難によりここにやってきた“作品”が多かったのですが、面白いところでは2012年に行われたワルシャワ中央駅の大規模改装に伴っていらなくなった古い電光掲示板などもありました。それでも寄贈品の全てに電気を通して壁に掛けるだけの場所はなく、床にもネオンの山。それでもデザイン性の高さを見るには十分で、運営側がこれを後世に残すべきだと判断した気持ちはよく分かります。元々の役割を失った物を一種の美術品として保存・活用しようという意味でも、ここは正統派の博物館といえるでしょう。
その設立経緯もあり、本施設はあくまで私営博物館として機能しています。それでも本館が街に残るネオンの整備を担当したり、新たにパブリックアート(≠広告)としてのネオンが登場したりと古い時代の物を見直す動きはネオンにおいても広まっている模様です。
(N.N.)
 

2015年3月22日日曜日

M2から見た風景 大町プロジェクトを振り返って

 M2Mubeです。今年度最後の大町市訪問、315日~17日におじゃまして、市庁舎ロビーでの展示設営、大町市文化資源活用ビジョン策定委員会、市民文化会議特別編に参加させていただきました。今回の滞在でも大町市役所生涯学習課のみなさまには大変お世話になりました。ありがとうございました。

 ゼミメンバーは年度ごとに変わるので、それぞれの学年がそれぞれのアプローチをし、それぞれの感慨を大町市に抱いていることになります。M2はこれまで大町市には2年間関わってきましたが、1年目は同じ長野県の高山村のプロジェクト活動も同時進行だったため、大町市のことばかりに取り組んできたわけではありませんでした。しかし、なんといっても20143月の大町市へのプレゼンを前にした時の緊迫感が一番印象に残っています。

 私の日記によると20131224日に小林ゼミでクリスマス会を開催、楽しい会の最後に、大町で過去に模索されていた「野外博物館」構想の100号以上にわたる冊子の記録を読み解くという大きな課題が出ました。せっかく冬休みなのに、みんな「がーん!!」といった感じでしたが、小林先生は「私、大町のこと本気だから。ここが変わらないと日本は変わらないくらいに思っている」と言い、この時期から急速に大町プロジェクトが加速していきました。

 その時期、地域創造の地域文化コーディネーターとして小林先生が派遣されていた大町市での事業が、大町市とゼミがかみ合わないうちに2年目が終わろうとし、3年目は継続されるか、されないかという瀬戸際に立っていました。20141月以降は「もし終わるのであれば、大町市に言いたいことをしっかり言おう」ということで、プレゼン準備が進み、小林先生、博士課程のダブルN先輩たちとの最長は8時間にわたるミーティングなど、熱烈な議論とプレゼン準備が行われました。

 正直、うちの学年は最初小林先生に反発していましたし、私自身もゼミが何をやっているのかわからないまま1年が過ぎようとしていましたが、この時期の大町ミーティングでおぼろげながら「文化政策」について理解できるようになった気がします。現場を経験していたことで、本を読むだけではスルーしてしまうようなことが身に染みて感じられました。頭でっかちではわからない小林ゼミの「知」の在り方を偉大な先輩たちから学んだ機会でした。

 20143月のプレゼン内容については、「大町市ではこんなドラスティックな変化は起こらないだろうな…」と思いつつも、もう嫌われてもいいやといった心意気で、たくさんの提案を思いっきり行いました。そして1年経った20153月、ありえないと思われた文化振興係の首長部局での設置ということが実現するなど、1年前のあの決死のプレゼンからは考えられないようなことが起こりました。

 今回、私は大町プロジェクトの事業報告書の編集を担当しましたが、その作業を通じて改めて1つ上の先輩たちがまだ見ぬ大町市に対し、精緻なリサーチを行い導き出した分析結果と大町市の状況との合致に驚きましたし、1つ下の学年がいきなり「大町冬期芸術大学」開催や「大町市文化資源活用ビジョン」策定の実働に突入した劇的なこの1年の変化に応じてきた姿にも感動しました。そして編集作業を通じて、この難航ともいえる事業の統轄を行ってきた小林先生の全体構想についても(自分では充分理解できていないかもしれませんが)初めて知ることができました。それぞれの学年が見た大町市のプロジェクトの風景は違いますが、ひとつのまとめが報告書作成によって行われたと思います。

 しかし、大町市の変革はまだ始まったばかりで、この3年の変化は行政と小林ゼミとの間におこった局所的なものに過ぎません。成果発表パフォーマンス参加者の感想とは正反対だった現地マスコミの反応など、まだまだたくさんの課題があります。「大町市が文化振興をする」のではなく「文化で地域を振興する」という発想の転換の実感と共有までにはまだまだ時間がかかるのでしょう。つい私たちゼミ生は拙速に成果を求めてしまいがちですが、「創造的な環境を整えるのには時間がかかる」と去年のプレゼンで小林ゼミから提示した命題を忘れてはいけないのでしょう。効率や数値では語り切れない難しさに向かっているからこそ、文化政策の研究は奥深いのだなあと、月並みな感想をいだいて2年目を終えます。
 
 大町市のみなさま、ご一緒したゼミ生のみなさま、同期、そして小林先生、本当にありがとうございました。   

ワルシャワから片道600円、2時間で行ける街です


先日、12月に一度訪れたウッチに再び行ってきました。一番の目的は世界的に知られるスコリモフスキ監督の絵画展を見るためでしたが、前回の訪問ではあまり良くなったこの街の印象も、もっと暖かく明るい季節に行けば変わるのではと思っていました。12月には不自然なほどにガラガラだったPiotrkowska通りも、今回は春の陽気に誘われて多くの歩行者がいました。
 
この一日で訪問したギャラリーは四つ、それに街中に点在するウォールアートを見て回りました。どの展覧会も規模は小さいながら質が高く、特に20世紀初頭に建てられたアールヌーヴォー式建築を利用したギャラリーと、ウッチ美術館一号館のNEOPLASTIC ROOMは必見です。また前回の記事で「今度は行きたい」と書いた、元々古い工場跡地だったOff Piotrkowskaにも行ってきました。レンガ造りの建物はカフェバーにポーランドデザインの衣料・日用品が揃った店、料理教室にギャラリーと様々に利用されていました。一回目には気付かなかった街の一面が見られて良かったです。

ただ、この街は徒歩で回るには向いていないと感じました。実は今回の訪問でも街の根本的な印象が変わったわけではありません。むしろ前回感じた「中心部がない」ことの問題点がより具体的に見えてきた気がします。Piotrkowska通りは全長4キロですが、当然ながら店や人々で賑わうところもありますが、距離の面でいえば工事中であったり、周辺に崩れかかった建物以外何もない場所の方が多いです。メインストリートであることは間違いないけれど、長すぎて「中心という場所」にはなっていない。人はいつもどこかへ向かう途中で、道の脇なり広場なりに留まって何かをするということがない。意外なことにそれはOff Piotrkowskaであっても同じで、建物内部に店舗はあってもバザールで購入したランチを食べるようなオープンスペースはありませんでした。むしろその役目を果たしそうな場所は駐車場(洗車場すらありました)になっていました。「店で何かを買ったり食べたりする予定はないけれど、ふらっとやって来たい人」が想定されていないのではないかと。北国なのでそのような場所を室外に作ることはしないのかもしれませんが、室内でその役目を果たすような場所もこれといってありませんでした。

車社会であるこの街には必要とする人が少ないのか歩道に案内図がなく、ギャラリーを巡っていて少し迷いました。とあるギャラリーでウッチの全体地図を見た際”Nowe Centrum Łodzi (w budowie)” (New Center of Łódź, now in construction)と書かれた比較的大きなスペースがあり、中心とパブリックスペースに欠けたこの街を端的に表していました。

 
(N.N.)

2015年3月21日土曜日

大町市と小林ゼミと、修士の毎日と。

先日、大町市役所での展示オープンと市民文化会議特別版を見守ってまいりました。
Pugrinです。

『県庁おもてなし課』(有川浩、2011、角川書店)てご存知でしょうか。
高知県庁に出来た観光部「おもてなし課」の四苦八苦が描かれた物語です。
小説はあんまり、という方には映画化もされてDVDがレンタルできます。
映画では関ジャニ8の錦戸くんと、掘北真紀ちゃんがメーンです。
超、遅ればせながら、わたくし先ほどこれを読み終わりました。

そこには、まったく大町市でやってきたこととおんなじ葛藤があり、そして達成感がありました。
つまり、そのくらいドラマティックなことが起きた3年間のゼミの関わりだった、ということです。
そのくらいというのは、物語になり映画として商業的に成功するくらい、という意味です。

よく指摘されるのですが、文化政策と観光は同じではありません。
ただ、根を同じくするところは多くあるし、大切な部分でもあります。
だからこの小説では、今まで従来のあり方で動けなくなっていた自治体行政が、
政策のために一皮向けようとする過程において、
共通する苦労や喜びが、そしてそこに関わる人のドラマが、よく書かれていたなあと思います。
是非そのドラマと同時に、実際の自治体行政の現状と理想がうまく咀嚼されて描かれていたのを
読んでいただきたいので強くお勧めしたいなと思います。

一方、大町市と小林ゼミの物語では少し状況が異なり、
「文化」に関して、「市民」や「ゼミ」とどうか関わっていくかが中心になっていきました。
(だから錦戸くんと掘北ちゃんの恋愛ではなく例えば片桐はいりがスパイをしたりします)

外の人が来るようにするためにおもてなしをするだけではなく、
中の人も住み続けたくなるように行政側も市民側も一緒に、必要なサポート体制を考え直す。
表面を取り繕うに留まらない難しい理想の壁がそこには立ちはだかっていたと思います。

2013年にわたしたち(今のM2)が初めて訪問したとき、
大町市は(何度も書くけど)「へえだめせ」と言われていました。
2014年はそれはあまり聞きませんでした。(聞かないような場にだけいたかも知れませんが)
しかし、2015年には「こうしていきたい」という具体的な言葉になって返ってくるようになりました。
特にここ数回のの訪問で、大小の「夢」やあてどもない「希望」を語るようになった市長・教育長・教育次長の姿は目からウロコでした。

個人的には、大町が好きになった、という修辞句よりも
そこにいる人の顔や声やしぐさが具体的に思い浮かべられるようになった、
というほうが嘘くさくなく伝わるような気がします。
小説にあるようなことが「ありもしない作り事」ではなく
「生きている人間が作った現実」として起こったのだと思うと、
高速バスで旅ガラスだった日々もすわりが良くなってきたようにも思えてきました。

軸足は文化政策の追求に置きながらこれからも生きていきつつ
現役ゼミ生としてのブログはこれで最後になります。
本当にありがとうございました。

長くなりますが最後に。
ゼミの中でブログを書くという課題は、なかなか大変なことかもしれません。
でももし少しでも文章を書くことがある人生を選ぶならば、
小林ゼミではないがしろにして欲しくないことの一つです。
習慣のように、また思うことがあれば気軽にここで書き散らしたいなー、と思っています。
2番煎じで大町の小説でも書こうかな?
とにかく、現役生のほうがたくさん更新してくれますよう!(笑)

2015年3月20日金曜日

お日様がぽかぽかで散歩に最適な季節となりました。

以前紹介した「ポーランド・ユダヤ人歴史博物館」の常設展にようやく行ってきました。


知り合いから「展示技術はほとんど外国からの輸入で、ポーランドが関わっている面は見た目より少ない」といった指摘を聞き、ポーランド研究者による本館とホロコースト表象の関係については事前に読んでいました(リンク。多少読みづらいので注意!)

解説ツアーに参加すると二時間はかかる規模、その展示のほとんどはマルチメディア形式による文字資料です(オーディオガイドもあります)。中世に関する紹介は古文書からの引用、20世紀に関する紹介は物質としての資料が戦災で失われているので、自然とこういう形になります。展示のほかにも児童・学生・一般向けワークショップや、無料レクチャー(波・英語。今月の話題はヘイトスピーチや民族主義)も開催されています。

本館の目的を端的に言えば、ポーランド‐ユダヤ関係史と聞くと世界中が「ホロコースト」や「アウシュビッツ」を思い浮かべる現状を変えるための施設といえるでしょう。結果的に展示は中世から現代までを扱う長いものになり、ホロコーストはその中の重要な、それでも全体の中の一部として扱われています。その展示も収容所よりはワルシャワゲットー内の生活や蜂起の内容に焦点が当てられています。(国内には収容所跡という“実物”があるため)。

本館全体の感想ですが、それはこの博物館の外、つまり現代ワルシャワの街並みと合わせて考えなければなりません。先ほどゲットーに触れましたが、今実際にそれがあった場所に行って何かがあるかといえば何もありません。戦後の社会主義時代は基本的にユダヤ人にまつわる公的発言はタブーとされ、建て直された首都に移り住んだ人々は体制転換までそこにゲットーがあったことすら知らなかったというのが実情のようです。もちろん西ドイツのブラント首相がその前に跪いたことで有名な「ワルシャワゲットーの英雄碑」は1948年からありましたが、むしろそれしかない。博物館から歩いて数分の場所にはUmschiagplatzがありますが、そこには「この場所より約30万人のユダヤ人がナチスのガス室に送られた」とあり、ゲットー内で亡くなった人々の記述はありません。そこからまた数分歩けば大量の十字架が乗せられた荷車の碑、これは東方(ソ連)に送還されたポーランド人を偲ぶものです。さらには現在、戦時中にユダヤ人を救ったポーランド人を顕彰する碑をこの地域に建てる計画が進行中です(記事)。要するにポーランドの20世紀史とは「どの国籍」「どの宗教」「どの言語」の視点で語るかによって様相を変え、しかもその多くが戦後約半世紀もの間、語ること自体禁じられていた、混沌としてグロテスクなものです。この時代の芸術は一般的にグロテスクな作品が多いのですが、はっきり言ってしまえば現実のそれとは比べ物になりません。むしろ現実に対するカタルシスとして機能している気さえします。

それはさておき、これが博物館の外で起こっている現状だとすれば、本館内部はポーランド‐ユダヤ関係のあらゆる面に何とかして焦点を当てようとしている印象があります。古今の反ユダヤ主義に両者の政治・経済・文化的協力関係、各時代の生活風習…。情報過剰ともいえる展示は、本館ができる前に社会が目を向けてこなかったものがあまりに多すぎることへの裏返しです。それでもすべてを網羅できているわけではなく、一般的に現代ポーランド社会のユダヤに対する関心は(確実に広がりつつも)まだまだ低いと言わざるを得ないでしょう。その点からしても、この博物館はどこまでも「現在進行形」であることを宿命づけられていると思います。

最後に現代クレズマー音楽から一曲。



(N.N.)