2014年9月29日月曜日

台北は今韓流ブームの真っ最中?

去る夏のゼミ合宿は、台湾(その中でも台北)だった。
とても暑かった思い出が、ほぼ一か月過ぎているいまだにも肌が覚えている。

初訪問の台北で私が感じたのは、暑い思い出以外に韓流ブーム。
食堂や喫茶店、街中で、自然に流れてくるのが韓国のアイドルの歌、
それから、繁華街に(台湾国立大学前にも)韓国の化粧品が、普通に並んでいた。

日本と同様、台湾でも何年か前から韓国ドラマ、歌、化粧品などの人気により、
韓流ブームになっていると知り合いから言われたことがある。
それを証明でもしているように、街中は韓国のものでいっぱい。

日本は韓国との政治的関係などにより、以前と比べると韓流ブームという雰囲気はかなり減っているが、台湾は相変わらずのような気がした。

この韓流ブームについては、ここ何年間、韓国文化政策学界において非常にホットなテーマでもある。
今までは日本における韓流ブームに関する研究が多く行われていったが、最近は中国、台湾、シンガポールなどのアジア圏を含め、全世界における韓流ブームに関する研究がおこなわれている。

台湾での韓流ブーム場合は、何より韓国ドラマに関する爆発的な人気から、韓国を新しく認識するきっかけとなったと言える。
というのも、韓国と台湾の関係は、1992年の韓・中修交による断交と、2002年アジアンゲーム誘致の競争などにより、韓国に対する否定的な感情が存在していたからである。

これらの韓流ブームは、最初の段階では民間(特にドラマ産業)で動いたものだが、政府の支援が後からついてくることにより、より大きい政策として変換していく流れを持つ。

このような話はまたの機会を通じてブログに書きたいと思う。
今日はその韓流ブームを実際に台北で感じることができたということと、
一つ不思議だったことについて書きながら終わりにする。

それは他ではなく、台北の各標識板にhあ韓国語(ハングル)がまったくなかったことである。
台湾語、英語、日本語の案内はあったが、日本でも最近はどこでも案内されている韓国語がまったくないことに、少し驚いたのである。

(bangulより)

初めて大町に行ってきました+α

夏休み中に、初めて大町市に行ってきましたharukoです。実はMengfeiさんと一緒に行ってきました。まだ町から受けた印象が断片的でつなぎあわせられていないのですが、現段階のものを共有したいと思います。

特に今回の訪問は、水に圧倒されたものになりました。まず信濃大町駅では我々はバケツをひっくり返したような大雨に迎えられ、丸福パンへ退避。東京や静岡から集まってきたメンバーには、今日はここで一日過ごすのかな、それも悪くないねという諦めにも似た雰囲気が漂っていました。雨が弱まると、ようやく町中にでて男水・女水の存在に気づくことができました。

もうひとつは、黒部ダムに初めて行ったことです。黒部ダムは、戦後の電力不足解消のために当時の技術を集結させて建設されたダムで小説や映画にもなっていますが、これほどの迫力とは知りませんでした。ダム湖から打ち付けられた水はもはや、液体?個体?気体?建設会社は、我々が通り抜けた関電トンネルのところが熊谷組、ダムアーチ部のところが間組と書いてあります。
殉職者の碑をみて、当時が工事に安全確保がなされなかった時代だったということを改めて思い知らされました。そういえば、先日機会があって葛飾区亀有の郷土資料館に行きましたが、そこでは有志の方による、まちなかアーカイブ展示がくまれており、町の景観のなじみ深いものとしての「煙突」がフィーチャーされていました。日本の発展の象徴としての煙突という、歌も一緒に展示してありました(ところで煙突といえば、足立区立郷土資料館で、来月5日まで「おばけ煙突」の展示をやっているみたいです。)おそらく自分たちの世代には、ダムや煙突=日本の発展・成長の象徴、さらには町のシンボルとはすぐには変換されないのではないかなと思いました。どちらかというと公害・破壊というイメージがつきまとうような。
そのため今回、エネルギー博物館に行けなかったことはちょっと悔やまれます。どのような手法で、どんな内容の展示がなされていたんでしょうか?

最後に、町中で感動したのが、商店街の街角図書館(もはや水、関係ありませんが…。写真は後ほどアップします)。商店街に置かれた段ボールに本を置いてあって、読んだら返してねというもの。このような仕組みが成り立つ人間関係がここにはあるのかなと感じました。
実際に、博物館やタクシーなど、大町のことについて、「探検家がこの付近の蝶を採取した」とか「お願いティーチャーのロケ地である」とか、詳しく話してくださる方が多かった気がします。
商店街は6割くらい開いていたように感じます。しかも、日曜には、日本酒祭りが開かれていてたくさんの人が集まっていました。

書き散らかしてしまいましたが、総じて、大町市では歴史的なものと現代的なものの両方を感じたという印象です。黒部ダムにしても、塩の道博物館にしても、日本史上ここをぬきには語れないというような歴史を感じました。そして、芸術祭やコンテンツツーリズムという新しさも同時に感じました。(haruko)


夏の大町はゲンキだった

長野県大町市にはこの間8月の訪問で、5回か6回目の訪問となった。
初めての訪問が2012年だったことを思い出すと、この3年間、平均年に2回は訪問したこととなる。
これから来年3月までには、より頻繁に訪問することになるだろう。

偶然だろうか、いつも大町市へ行くのは秋~春の間だったが、今回は8月という真夏の時期の訪問。
いつもと違う大町に出会ったような気がした。

こんなに、子供がいったんだ大町に~と思うほど、子供と若い人が大町にはいた。
ちょうど、訪問した日が「やまびこ祭り」の日で、家族や親友、同僚とともに、祭りを楽しむ姿を経験できた。

今まで見えてこなかった環境を目の前にし、その楽しさが経験できたおかげかもしれないが、こんなにゲンキな姿を見せいている大町はきっと「文化で豊かになるだろう」と、ワクワクしてきた。
それに、毎年少しずつ熱情を持ってやる気をみせる行政側の若い職員たちに出会うことも嬉しいことである。

今回の訪問で出会った乃至すれ違った人たちが「大町に住んでよかった」と思えるものは一体なんだろうか。と深く思うようになった。
それについては一率的には答えられないが、今回の訪問で自分が感じたものは(いや、毎回の訪問で感じたと思うが)非日常的な楽しさを経験することではないかと思う。
大町で非常に多く行っているスポーツ活動の良いんだが、芝居を観る、映画を見るなどといった芸術を楽しむ行為から実際に自分たちが芸術の主体側となり経験することへと持っていく仕組みが必要ではないかと確信を持つようになった。
それは、祭りを楽しんでいる彼らの顔から強く感じれたものである。

そのためにも、大町市に住む芸術家の現状について目に見える形にする必要があり、今までのキーパーソンと言われいている人ら以外にも他はいないか調べる必要がある。
以上のようなことを念頭におきながら、今後の作業を進めようと思う。

*大町市の山岳博物館前の公園
この公園には多くの櫻の木が植えられている。
春はその櫻のおかげでとてもきれいだった。
今回の公式日程が終わったあと、知り合いの大町市在住のアーティスト(在日朝鮮人)と一緒にこの公園をたずねた。
何度も来ているが、この公園について「桜がきれいなところ」ぐらいしか言われてないが、はじめて彼女からこの公園について聞くことができた。
この公園は、大町に住んでいた在日朝鮮人らが国(北朝鮮)へ帰国する前(1960年代)、その寂しさを桜の木を植えることと詩を書いた碑石を残すことにしたとのこと。
桜の木は毎年春になると綺麗に咲くが、碑石は歳月とともに古くなっている姿に、胸を痛めた。

(bangulより)

大町市訪問について

ブログへのアップがかなり遅くなりましたが
長野県大町市訪問の報告を書きます。

私はゼミ生での大町訪問にはタイミングが合わず参加できず
同じように参加が難しかったクラスメートとの少人数での大町市訪問となりました。
そういった意味では
直接行政の方とお話しをするような機会はなかったのですが
フットワークが軽い分
「自分たちの力で大町市を盛り立てていこう」という気持ちの強い方と
時間を気にすることなく、一個人としてゆっくりお話しを伺うことができました。
本当に飛び込みで伺ったにもかかわらず
お話を聞いた方はみなさん暖かく迎えてくださり、
「大町市の今」を教えてくださいました。
それまでは授業のスライドやプリント、先生や先輩方からの話を聞くだけだった大町市が
「実際に生きている街」として実感することができました。
とても充実した大町市滞在となり、
お話を聞かせてくださったみなさまには、改めてこの場を借りて感謝申し上げます。

それまでは
「これから何ができるのか」を主体に考えていることばかりでした。
それは大町市の文化政策プランを考えることが役目だと思っていたからです。
でも大町市でみなさんとお話しをしているうちに、
実際に大町市に住んでいて、
行動をおこして、変化をきちんと重ねている市民の方がいて、
行動をおこしてはいなくても、想いをもって住んでいる方もいて、
個々の意識がとてもしっかりとしていることを感じました。
これからの大町の文化政策に必要なのは
外からの空気や変化を無作法に流し込むことではなくて
今までの積み重ねをどうやってつないでいくかなのではないかと感じました。
(とても抽象的な表現ですみません)

「これから何を一緒にしていくことができるのか」
こういった意識に変わることができたのも
大町市を訪問した大きな収穫だと思っています。
今回経験したこういった気持ちをこれからに生かしたいと思います。

余談ですが
大町で飲んだ牛乳がとてもおいしかったです!そしてこの力強いキャッチフレーズ!
「そうだよなぁ」とものすごく説得されてしまいました。
(nobu)

2014年9月27日土曜日

8月の大町訪問感想

遅くなったが8月の大町訪問の感想を共有したいと思う。

今回の大町訪問は意義深い出来事だった。大町を訪ねるのは3回目になり、見たことがない大町の様子を体験して改めて考えさせられることが多かった。
まずいくつかの文化施設を見学してすぐ分かったことは各施設の間には連携が殆どないことである。連携がなくて当然と思っている職員がいたことに、驚いた。
私自身は以前博物館に所属した時には全く逆の考え方で、博物館と博物館および文化施設の間に連携があることは当然だと思っていた。協働作業で人材教育するという側面は特に重要だと思い、連携があってこそ、考えたことがないまた無理と思ったイベントおよびプロジェクトが充分に出来るようになり、さらに職員として協働仕事に参加している間は他の施設はどのように働いているかが理解でき、自分が所属しているところの独自性をよりよく考えさせられる場合もあった。また自分のところで抱えている問題の解決はとなりの施設で発見するということもあり、協働作業を通じて学ぶことが多い。
もちろん公共施設は法律に従う必要があるため、他の施設と協力することは複雑である面が必ずあるが、その障害を乗り越える対策を考える作業は職員の一つの役割だと思う。さらに民間文化団体と協力する時には数も多いことから、最初から「無理です」という考え方は市民が文化行政に協力する権利に障害を設けることになる。

私が研究しているブラジルの文化政策の「Cultura Vivaプログラム」の一つの目的は積極的に社会にある複数の文化団体の間の連携、およびさらにその複数の文化に取り込んでいる社会の一員と公共施設との協力を作ることである。ブラジルにおいてもこの作業はすぐには、簡単に出来あがっていないが壁にぶつかりつつ進んでいる。最初に行政においても、市民においても知らない点は多いが協力しながら両方とも成長する。しかしそのためにはどちら側にしても高いレベルのコミットは必要だと思われる。
コミットといえば今回の訪問には非常に気になったところがあった。そこは民間の施設であったが、そこの職員は「もう行政には期待していない」と語ったことだった。大町市とこの団体は連携してなにかをすることは非常に難しいと思っているようだ。理由は複数だと思われるがこの全国的にも有名な団体は、大町市が特別な待遇をしてくれることを期待しているようで、かえって協力が難しくなっているように思った。
私がM2だった時は一度授業で文化ホールについて話題になった点がある。そもそも日本では劇場ということ、またいわゆる西洋からの演劇は昔からあったわけではなかったにも関わらず1980年代以降全国に文化ホールが作られ、そこで地域の住民の生活とあまり関わってない文化に日常的に重要性を与える一方で、その地域にもともとあった伝統文化は重視されない側面があり、それは人々が文化ホールに行かない理由の一つになるのではないかという議論が授業で起きた。従って大町にいくら有名な団体があって最初から「有名な団体」という扱いを受けようとしても大町の人々の文化には全く接触していないのであれば特別な関係は生まれないと思う。そもそもある団体がただ大町に拠点があるだけと考えるのならば、大町の人から東京の人と同じようにその団体の活動を称賛されることはなかなか難しいと思われる。そういうスタンスは市民としてコミットすることとは違うと考えた方がよいだろう。

最後に大町に住んでいるブラジル人についてすこし書きたい。私が知っている日本人は殆どだれも大町の存在をしらない(もちろんゼミの仲間は大町について詳しいが)。しかし日本にいるブラジル人の間では大町のこと知っている、また住んだことがある人がいる。その中には黒部ダムに行ったことがある人もいれば、大町の工場で働いた人がいる。それを頭に置いて、外国人の出稼ぎ者も大町の一員になっていることを思いながら長野県に行った。公民館を訪問した時に職員の方にどれぐらい外国人が利用するかを聞いたところ、殆ど公民館を使わない「興味がない」という答えもあった。確かに興味がない人もいると思うがそこには一つ理由が存在すると思う、例えばブラジル人には「公民館」という存在はとても分かりにくい、「自由に使える」と言われても分からない部分がある。なぜかというとブラジルではそもそもその公共スペースはそんなに提供されていないため公民館の存在が分からないと思う。多分適切な説明が必要だろう。ブラジル人の私には大町だけではなく日本の複数の地域に住んでいるブラジル人が多くの文化施設を使って、いつか帰国したらブラジル社会の一員として向こうでのその場所の必要性を社会に活かすことを願っている。

今回の3日間の大町訪問で改めてなぜ大町は元気な町になれるかと思った理由は、やはり出会った二人の元気な職員の方と二人に生きづいている文化。あの人たちは大町を今後担う力の一部になる可能性がある、また同じように大町のために頑張ろうとしている人は多くあるかもしれない。
(MP)

2014年9月24日水曜日

台湾合宿!

遅ればせながらようやく帰国したM1のRaeです。
以前のブログで予告した内容とは違いますが、先に先月末にゼミ合宿で行った台湾について書こうと思います。
私が台湾で最も印象に残ったのは宝蔵巌、これより前のブログで写真を上げていらっしゃる方たちがいらっしゃるのでそちらもご覧ください。
去年行った韓国のガムチョン文化村とようすは似ていると思いながら、山(?)の中の細い道を辿って行くとアートスペース、演劇空間があります。宝蔵巌には家がいくつもあり、そこには普通の人が住んでいたりカフェがあったり、選抜された芸術家や芸術団体が3ヶ月間住んで(作品製作の義務はない)ゆっくり過ごすためのスペースが提供されたりしています。
私達は台北のみに滞在しましたが、そこでは日本統治時代の建物や、廃墟を再利用して…というのが多かったです。帰国後ガイドブックを見てみても、そのようなところを資源として、少なくとも台北は大分「観光地」化されていると感じました。

実は、欲を言えば先住民の文化の現状を垣間見ることができれば…と思っていたのですが、そんな中昨日の朝日新聞(23日朝刊)で「台湾先住民 観光化の苦悩」という記事を見つけました。
日本でも同じことでしょうが、先住民の宗教儀式であった祭りが観光に使われ本来の意味が薄れてしまっているそうです。それだけではなく、観光で得られた利益が先住民に還元されず環境破壊も進んでいるとか。先住民はオセアニア系で今は山の方に住んでいることが多いそうですが(『図説 台湾の歴史』)、最近ではその半分は都市に出ているそうです。
つまり、あとの半分の先住民の伝統、生活は中々外部の目に触れることが難しい。

当たり前といえば当たり前なのですが、来訪者(旅行者に限らず)である私達の目に触れるところは観光地化された所になってしまうことが意外と多いですね。初めての訪台であった私にとってはそれでも良いというか、むしろ台北の概要を掴めて楽だったのですが…時間がゆるすならば中山堂以外でも「内側」の人の話をもう少し聞けたら面白かったな(宝蔵巌で活躍する芸術団体等)とも、今更ながら思っています。

※中山堂でも、いずれ小規模なオペラをやりたいと言うことでした。台中にできるというオペラハウスといい、台湾のオペラ界はこれからが楽しみですね。

ダンケっていうと、ビッテって言う。

疾風怒濤のドイツ遠征から帰ってきてやっとUPします、Pugrinです。

ベルリン→ゲルリッツ→エアランゲン→ニュルンベルク→ヒルデスハイム
と北方ドイツを小さく一周しましたが、身近な都市で例えるなら

新宿(都心)→町田(県境)→自由が丘(住みたい街)
→浅草(観光地)→川崎(郊外の都市)

といった感じ。

短期間でいろんな都市を巡って思ったことは
「人が集まったり、住みたいと思うようなところは、
日本のそういうところとどことなく似ている」ということです。

エアランゲンが自由が丘に似ていると思ったのは
背の低い戸建ての商店が並び、石畳の道や緑道や広場。

たくさんの人がぶらぶら横目で店を冷やかしながら歩いているところ。
「これを買うためにここに来た」とか、
「お店に入ったからには買わなくてはいけない」という雰囲気ではなく
歩いているだけでも十分楽しめる、そんな余地のあるところでしょうか。


個人的には、カッチョいいライブハウスがあるのが大ヒット!


元発電所を改装したというところがエレキテルな感じでシビれますね。
稲妻ロゴマークはもともとあるというから適材適所。

ライブハウスがあるということは、つまりバンドとか音楽をやって良いってことで、
ということはそういう格好とか生き方をしているひとも居て良いってことで、
それが品行方正で無菌な田舎の新興住宅街的イメージとは一線を画しているのではないでしょうか。
しかもその目の前にあるのは住民による街角図書ケース。
エアランゲンのロッカーは本番前でも紙の古い本をちゃんと読むんだぜ!ってなとこかしら。

市街地では刺青ピアスだらけのおニーちゃんおネーちゃんが
白髪のおじいちゃんに交じってデッカいパフェに舌鼓を打ってたのを目撃したりもしたし、
派手な洋服ばかりのパンクショップも発見したので
ここは人間の多様性を認める町と認定(私の基準で)。

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さて、話題は本懐たる国際文化政策学会での学びについてに変わりますが、
とっても心に響いた発表があったので共有いたします。

”Once Upon an Arts Policy”
コロラド州大学のConstance DeVereaux教授の発表です。
主な主張は
「もし『物語』が世界を理解し世界とかかわろうとするにあたり重要な方法なのであれば、
文化政策への記述的・物語的な分析アプローチだって、優れた洞察の源となる」です。

だいたいこれと同じ見方でもって小説に描かれた世界の文化のあり方を
現実世界に照らし合わせて4つに分類したのがワーウィック大学のJeremy Ahearne教授の
”CULTURAL POLICY THROUGH THE PRISM OF FICTION (MICHEL HOUELLEBECQ)”
でした。

自分の研究テーマをほかの人に話すとき、
「ウルトラマン」だけが目立ってしまって、
なんだか怪獣博士みたいでいつももやもやしていたのですが、
こうした研究がいくつも存在していることを知り、
自分のやりたい研究の方向性が見えたような気がしました!

むしろ修士論文ではそこまで書ききれないことの塊だと思うので、
今後はきちんと英語論文を紐解きつつそちらにシフトしていけたらな・・・と
今は遠いような近いような野望にわくわくしています。


そしてゼミ代表の皆さんの日本を飛び出ての発表には胸を打たれました!
「日本一民主的な」という表現、グッときました。
お疲れ様でした!

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いずれにせよ痛感したのは、語学力の無さ。
ドイツ語どころか英語もたどたどしく、一番使ったのは「トイレどこですか?」だった私は
落ち着き次第語学にもっともっと力をいれたい次第です。

ただ、一生使わないだろうと思っていた第二外国語のドイツ語を2週間浴びせられ、
ちょっとは辞書なしでも意味がわかったり、
ダンケって言ってビッテって返してもらったりしたのは感動でした。
心を入れ替えて勉強して、きっとまたドイツ行きます!(今度はゆっくりスケジュールで・・・)


[おまけ]
ついに秘境アマゾンの文化政策研究に進出した小林ゼミ。

嘘。エアランゲンの植物園での一コマです。
でも生まれて初めてドイツまで行ったからには
そのくらいもしかして実現しかねない・・・なんてね。

2014年9月21日日曜日

ドイツ訪問 ハードでしたが生還しました

M2 Mubeです。92日より14日まで、ベルリン、ゲルリッツ、エアランゲン、ニュルンベルク、ヒルデスハイムと駆け抜けました。濃密な2週間!!印象的だったことをいくつか書きます。

日独文化セミナーはこんな感じでした。発表者のみなさま、おつかれさまでした!
文化」という定義 

risaiaさんが書いているように、言葉の定義の違いがセミナーではもどかしくもあり、また、これを経験すべく来たなとも思いました。何より「文化」という言葉の定義について考えさせられました。

休憩時間にお茶をしている時、ドイツのご婦人が日本のアートプロジェクトを「とてもextraordinary! 」と評していましたが、アートプロジェクト⇒地域おこし、みたいな図式はドイツでは当然のことではないわけです。

 
ヒルデスハイムでの学会発表を受けて、日本に帰ってから『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』という、哲学者ハーバーマスと元ローマ教皇ベネディクト16世との講演録を読みましたが、その本の三島憲一氏による訳者解説がドイツをさらに知るうえで興味深かったです。ビスマルクの文化闘争の話や、戦中のカトリック教会とナチスとの協約、1960年代以降の教会権力の変化など、ドイツにおける文化と教会の強い関係性を知りました。どこに行ってもまちの中心に据えられた教会のことを知らずして、ドイツの「文化」というものは語れないようです。


「クオリティシティー」エアランゲンとは? 

『ドイツの地方都市はなぜ元気なのか』の著者、高松平藏さんに一日じっくりと講義も交えてまちを案内していただきましたが、ただインフラの話ではなく、そこのまちで能動的な活動が生まれる歴史的要因、ご自身で住んで感じている自治のサイズ感、教会コミュニティーが協会(フェライン)に移行していっても、社会が高い自治意識を保ち続けていること、そして日本ではあまり理解されないことかもしれませんが、アーカイブがまちにとってなぜ重要なのか、それに連なる者としてのご自身のジャーナリストとしての職業意識など、すべてが非常に濃密なプレゼンで、私たちのゼミにとって参考になること大だったと思います。背景の違いは大いにあるけれども大町市と比較してみてもよいのではないかと思いました。にぎやかな一団を快く迎えてくださった高松さんに感謝です。

 
 
 
 
 

壁はまちをアイデンティファイするものでした…右がエアランゲン在住のジャーナリストの高松平藏さん。
 


橋一本の距離 ゲルリッツとズゴジェレツ

ポーランドに隣接する元東ドイツの地域で、東西統合後、ナイゼ川を隔ててドイツ側がゲルリッツ、ポーランド側がズゴジェレツとなりました。この橋一本の違いによる町の雰囲気の差異に、参加したゼミ生一同驚いたことと思います。今回の旅は電車移動も旧東ドイツの地域をめぐることが多く、特にこの夏からポーランドに留学したゼミのNさんが一緒にいてくれたことで、ドイツの中の東西感覚、ズゴジェレツの奥に広がるポーランド、そして日本の地方都市と大都市との関係のように優秀な頭脳が西に流れっていってしまう東の状況について知ることができました。あえて「中欧」と表するところに東へのマイナスイメージがあるとの、Nさんの指摘も印象的でした。

スコットランドの独立投票のように、豊かな「地域」がヨーロッパの中で独立したいという動きもドイツ旅行中に同時に進行しており、EU統合の中でおこる小独立という一見矛盾しているような現象がなぜ発生するのか、少し理解できた気がします。先生方とも話していましたが、いわば「勝ち組」のようなかたちで、エアランゲンのような「地域」には優秀な頭脳が流入していきますが、流出を見守るばかりで取り残されていってしまう「地域」もあるわけです。そこで(「市場主義」であると今回の日独セミナーで評された)創造都市論などが提案されてくるわけですが、ズゴジェレツの若い市長さんの「経済発展なしには文化どころではない」という切羽詰まったコメントは、日本の地方自治体でもよく聞かれるものではないでしょうか。中央集権体制や統制経済に慣らされてしまったマインドみたいなものがまちの方向付けをしているのかもしれません。


川のこちら側では夜まできれいなカフェでお茶したりできます
川のあちら側の文化施設。社会主義時代にもぎ取られた英雄たちの銅像跡が生々しかったです。
 


破壊と復元

ニュルンベルクのまちは90パーセントが第二次大戦で破壊されたけれども「昔どおりの姿」に復元されており、ヒルデスハイムの世界遺産の教会もやはり大戦の破壊から復元、破壊された当時の教会の映像や模型が展示されていました。よく日本の文化財保存で問題にされる「真正性」ということからすると「コンテクストを残す」という感覚なのでしょうか。

ニュルンベルクのナチスの党大会を行ったドク・ツエントルムの巨大建築についても、建築に詳しいTさんが「壊さないで残しているところがすごい、けれどもショッピングセンターにする計画などもあったらしいですね」と教えてくれたことが印象に残っています。こういったドイツの歴史的資源の保存・活用方針、つまるところどう歴史を残すかという感覚についてはもっと知りたいところです。
教会の床にはめ込まれた破壊当時の映像。これと照合すると現在の修復部分が分かります。
 

おいしいビールがまた飲みたいですし、ドイツ再訪したいなと思う旅でした。小林先生、見事な学生発表・学会発表を成し遂げ、ハードでありつつも楽しい道中を共にしてくれたゼミの参加者全員に感謝しています。

                                                    (Mube

 

 

2014年9月18日木曜日

知的生産と公共選定


9月9日〜12日までドイツ、ヒルデスハイムで行われたInternational Conference of Cultural Policy Researchに参加し、帰国後には日本アートマネジメント学会での研究会で「アートマネジメント大学院がめざすもの」について考え、さらに昨日16日は日本学術会議の学術フォーラム「我が国の知的生産者選定に係わる公共調達システムの創造性を喚起する施策に向けてー会計法・地方自治法の改正を問うー」を聴講してきました。この1週間大変知的刺激を受けたということを書きたいのですが、ここでは一番記憶が新しい三番目の問題について少し書きたいと思います。

もともとこの講演に参加しようと思ったのは、最近自治体の入札が不成立に終わっているという状況と、近年(といってもすでに10年以上を経過しているわけですが)の指定管理者選定をめぐる問題において、そもそも文化施設の運営に必要な専門性とは何かという問題を考えているからにほかなりません。それは(高度に)専門的な知的作業なのか、それは求められているのかという点です(批判的に書いているわけではありません)。

昨日の会議においては、日本学術会議の「デザイン等の創造性を喚起する社会システム検討分科会」委員長の仙田満東京工業大学名誉教授からその趣旨が述べられました。一部引用をしますと、「設計、デザイン、芸術的創作等は文化的な生活そのものを豊かにするのみならず、それが環境や製品の付加価値として観光や商業的、あるいは産業的な競争力に寄与している。グルーバル化した現代において、その設計、デザイン、芸術的創作等創造性を問われる領域は経済的にも極めて重要になりつつある」ということで、これらは文化政策研究者の間でも共有されている問題かと思います。ただ、そうであるのに、いわゆる公共調達システムにおいて(おもに地方自治体が発注する建設工事等になりますが「高度な技術を要する知的生産、知的サービス」)、入札による価格方式が原則として貫かれているがために、これらの領域が参入しにくくなっていることから、その元凶でもある会計法や地方自治法において、「知的創造行為を価格のみで選ぶのは無理であり、一定の予算制約で品質評価するのが妥当であり、高い参入障害を排除する法的措置も必要」ということをを明示した福井秀夫制作研究大学院大学教授の方向性を視野にいれて改正していく必要があるのではないかというのが今回の提案でした(福井氏の主張については日本経済新聞2014年8月1日の「経済教室」を参照のこと)。これまでに建築学会等が、この問題に長らく取り組んできているようでした。つまりは、芸術的、デザイン的な付加価値が公共入札の場合は、認められにくい状況にあることを法律的、行政的、あるいは市民の受容側からの観点から問題視しています。

基本的に賛成で、私自身考えさせられたのは以下のことです。私が係わってきている領域は、設計者選定等のハード面ではありませんが、法律的に「原則」なのであるから、法律の「運用」において例外を追求していけばよいのではないかというように考え、それを一つ一つの自治体に地道に価値を理解してもらっていく必要があると考えてきた私にとっては(だからこそ一つ一つの地方自治体とみっちりつきあうということを実践してきたつもりなのですが)、会計法や地方自治法の「運用」で解決していこうとするのは難しく(それは現場を知らない人の言うことであり)、「行政官は基本、原則に則り」、自ら説明責任をあえてとろうとしない事なかれ主義が基本であるからには、「知的創造行為については、価格方式はとってはならない」という禁止規定こそが必要であり、原則と例外を転換させる必要があるのではないかと発言されました(検討委員会の提案においては、この問題だけではなく、広くそれらを支えるシステム全体からの考察がなされておりとても重要な論点があるのですが、それらはここでは割愛します)。いずれにしても、福井氏の発言に、納得し、賛同する部分もあるのですが、そうはいってもやはりまんじりとしない気分にもさせられたということなのです。

そのまんじりとしない部分の方を見つめてみると、いくつかの問題要因があるのでここでは書ききれないので、一つだけ一番気になっている本質論的なことだけを書きます。そもそも同様の俎上に載せてよいかという問題はありますが、公立の文化施設運営に関する指定管理者の選定も公共サービスの管理運営代行者を選ぶという意味では公共調達になるかと思うのですが、企画方式のプロポーザルが採用されているところもあるわけですが、現実には価格方式が優先されている現状がないというわけではありません。企画方式が隠れ蓑的になっているところもないわけではありません。企画方式は採用しないまでも、文化施設の専門性を考え、既存の財団の特命指定もあります。さて、そのときに文化施設の運営は、「高度な技術を要する知的生産、知的サービス」ということで、建築や設計プロポーザルと同様に価格方式ではだめなのだというほどの専門性を考えることができるかどうかという問題です。建築や設計のプロポーザルの問題も専門的に基礎的な図面が描けるかというところ以上の、創造性や芸術性の部分が問われているということになるかと思うのですが、文化施設「運営」の基礎部分と「創造性や芸術性」の部分の関わり方はどのように考えればいいのか、ということです。ある意味でいわゆる劇場法もその問題を取り扱ってきたということがいえると思います。実際、行政の一般職員や施設の現場職員においてすらも、文化に関する専門性がないことを理由に文化施設の活性化に積極的にならないということがよく見受けられます。ではそこに必要とされている専門性とは何なのかということです。

これは、前日に行われた日本アートマネジメント学会の「アートマネジメント大学院が目指すもの」を考えるの際に、文化施設に限らないことではありますが、芸術文化を扱う非営利の組織のマネジメントは、一般的な経営学とは異なることから、専門的領域だということになるわけです。その専門性を言うときに、資金調達ができるとか、公共的文化政策を理解しているとかが(そもそも直営でやってきた公立文化施設などは、この問題を考えることはなかったということはあると思います)、特殊性であり、専門性としての共通認識はあったのですが、いつもこの問題を論じるときにオブラートに包まれてしまう(あるいは暗黙の了解事項で不問に付される)「芸術への愛」とか「芸術への理解」という部分が残ってしまうような気がします。これを必死で数値化しようとする試みもあるのですが、それが適切とも思えない。16日の会議でもそのような発言が委員長からありました。詳しくは省きますが16日は、それを判断する方法として、外部の専門性ある人材の登用や、外部コンサルタントの導入ということがありました(そういう意味ではとくに新しい提案というのではなかったように思えます)。文化政策や文化施設運営の評価等で、やはり私は文化「政策」やアートマネジメントの専門家こそが、より積極的に関わっていく必要があると考えていますが、まだまだその領域を担える人は全国的にみたときに少ないとも思ったわけです。行政の施策に結びついているがゆえにコトを判断しようとしますが、そもそも判断しにくい部分の芸術は海外ではヒトで判断するようにできています。それがそもそも芸術監督という仕組みがあるゆえんだと思っています。大きな仕組みをどうするかという問題と、現実具体的な実務の部分で関わっていける人材と、建設関係とは規模が異なりますが、同じような問題が解決していないなというのを実感しました。

(小林 真理)



ドイツ~日独文化政策セミナー&ICCPR

9月2日にベルリンに到着し、日独文化政策セミナーとInternational Conference of Cultural Policy Research2014に参加してきました。
ICCPRの資料

軽い気持ちで(?)参加を決めてしまって以降、こんな大事になるとは思ってもみませんでした。
皆さまのおかげで、大町市の原始感覚美術祭についても拙いながら発表することができました。
学部生時代から発表モノはなにかと避けてきた私。
思えばこれが、人生初の発表モノだったかも。

今回のドイツ行きで学んだことは、大きく3点。
①常識だと思っていることを問う姿勢
②ビールが美味しい
③ドイツ人は思いのほか優しい

①今回学んだなかで一番大きかったのは、私が常識だと思っていることに常に疑問符を付けなければならないということでした。
普段東大の文化資源学研究室のなかにいて、当たり前だと思っていることが実はそうではないという、それこそ当たり前のことを実感しました。
日本の学生と交流したり発表をしあったりするだけでは、さほど違いは明確に出てきませんが、海外との交流を通じて、より目に見えやすい形でその違いが感じられ、基本的な用語をきちんと定義することの大切さ、あって当たり前だと思っている概念の不確かさに気づきました。
たとえば私が関心を持っているアートプロジェクトにしても、そもそもアートが社会において見せる様相やその位置づけも異なるなかで、すべての国で一様に定義できるわけがないのです。
これから自分の研究を進めていくにあたって、留意していかなければならないと思います。

②バイエルン州・エアランゲンで飲んだビールが美味しかったです。
Steinbach Brauにて。手前左は高松平蔵さん。

実はビールが苦手な私ですが、こんなに美味しいビールがあるのかと感動すら覚えました。
嫌な苦みがなく、フルーティで甘さがあり、軽い飲み口なので、うっかりすると飲みすぎそうでした。
エアランゲンはまさに「魅力的」という形容がぴったりくる、そんな街でした。
レクチャーと市内歩きの案内をしてくださった現地の日本人ジャーナリスト・高松平蔵さんは、エアランゲンの魅力を「なんでもある」と力説されていました。
ある程度コンパクトなまちの中に、生活に必要なものから生活を豊かにするものまで、詰め込みすぎるわけでもなく、ちょうどよく存在していたように感じます。
なんとなく町の雰囲気も明るく、ほかの都市と比べて治安もよいように思いました。
あえて東京でたとえるならば、杉並区のような印象です。実際土地もお高めなようです。
高松さんにお話しを聞き、街歩きをしているうちに、エアランゲンに住みたくなってしまいました。
様々な手配・案内をしてくださった高松さんには心から感謝いたします。

それから今回ドイツの人に謝らないといけないのは、ステレオタイプを持っていたことです。
知り合いにいなかったからというのもありますが、ドイツ人というと、堅い→他人行儀→冷たい、というイメージを勝手に持っていた節があり、その点は今回特に反省しております。
道を聞けばしつこいほど教えてくれるし(しかし多くが誤りだった)、多くの人に親切にしていただきました。
そういった点で、自分の中にまだまだ未熟な部分が多いなと感じたのも、今回の旅の収穫です。

そして12日、みなさんと同じ便が取れなかった関係で、私は1日早く発ちました。
ガイドブックもなくネットもつながらないので、最終日はベルリンを適当に歩いていました。
適当に歩いていたら現代美術館に行き当たり、現代美術好きな私は吸い込まれていきました。
Hamburger Bahnhof Museum
ベルリン中央駅で地図を見たときにHamburger Bahnhof Museumと載っていたので、
てっきりハンバーガーの歴史を展示した博物館かなにかだと思っていました。
そういうのもあっても面白いと思うのですが。ないんですかねハンバーガー博物館。

それはともかくとして、私が魅力を感じたのは、そのゆったりとした空間の使い方でした。
特にギャラリーは、大きな倉庫らしい空間にかなり贅沢に作品が配置されていて、
空間の文脈との関係を大事にする現代アート作品にとって、いい舞台なのではないかなと思いました。
巻きで見ても3時間はかかるので、体力的にはかなり消耗しましたが、最終日ですしちょうどよかったです。
特に気に入った作品

最近言語の分かる国ばかり旅していたので、今回ドイツ語の分からなさに終始もやもやして過ごしました。
次に訪問する機会があれば、ある程度ドイツ語を勉強して(せめてメニューを読めるようにして)行きたいです。
risaia


 


2014年9月16日火曜日

中東欧途中下車の旅(主にバス)


ドイツへ行かれた皆さまが続々と帰国されるなか、いまだ寮にすら帰っておりません。

先週末はプラハにて、ムハにカフカ、人形劇にボヘミアングラスと典型的な観光スポットをひたすらまわってチェコビールも飲むという二泊三日を過ごし、中世に栄華を極めた都の力をこれでもかと見せつけられました(あいにくの雨で走れなかったのが残念です)。明日からは最も行きたかったクラコフへ。

本日の話題はヴロツワフについてです。プラハ‐クラコフは十時間かかるため、まさしく途中下車のつもりで立ち寄りました。結果、来て正解でした。
 
ズゴジェレッツへ行かれた方は、町の若者が目指す街の一つとしてヴロツワフが挙げられていたのを覚えていらっしゃるかもしれません(町のパンフレットにもこの街への距離が記載されています)。以前からシロンスク地方の中心として栄えていた場所ですが、2016年の欧州文化首都に選出されたことでさらに注目を浴びています。駅前のビルから路面電車、ビールの広告も選出をアピールしていました。

最初に訪れたのはラツワヴィツェの戦い(1794年、コシューシコ率いるジャコバン派と農民軍がロシア軍を破った)を描いたパノラマ館。ポーランド史は蜂起に事欠きませんが勝利に終わったものは少なく、この作品が観衆を鼓舞したことは容易に想像がつきます。戦場を題材にすることの多いパノラマが、観る者に戦争の臨場感や(自国が勝っている)高揚感を与えるための装置だということがよく分かる施設でした。外国語のオーディオガイドも種類豊富。

カフェやレコード店、レストランをまわれば、どの店にもイベントの告知が見つかります。ポーランド映画研究会(英語字幕付き)や20世紀の住宅建築(ひたすら四角い)をめぐる地図など。 
 
              
最も印象的だったのがKino Nowe Horyzonty、シネマコンプレックスでは見られない作品専門の映画館です。文化首都事業の一環として昨年元々あった映画館を改装したとのこと。往年の名作や実験映画、舞台録画(演劇・バレエ・コンサート)など、古今東西の作品を揃え、何より施設そのものが「通いたい」と思わせるものでした。ポスター美術はポーランドの十八番ですが、その流れは健在だと安心させてくれる売店もありました。
 
一観光客が早歩きで見て回ったに過ぎませんが、ズゴジェレッツの若者がここへ来たがるのも分かる気がしました。街の中心部は大きくも小さくもなく、生活を楽しむ要素が揃っている印象です。逆に小さいからこそある種の統一感が保たれるのかもしれません。大学があることも大きいでしょう。もちろん中心部を外れると古めかしい建物が立ち並びますが、寂れているというよりはこれも街の一面として面白がりました。
 
ちなみにここは街中に小人の像が点在していることでも知られているのですが、本日は彼らに脇目も振らずに歩きました。世界遺産である百年記念ホールへは明朝行く予定です。
 
(N.N.)
 
 
 

2014年9月8日月曜日

おおまち行ってきました。おおまぴょんが大好きになりました。

8月初頭、都合が付かず、ゼミのみなさんと一緒に大町での調査が叶いませんでしたが、先週の週末やっと友人と一泊二日の見学ができました。初めての大町はすごくよかったです。
ゼミでいろいろと話が聞きましたが、消化できていない情報がかなりあって、また、自分の目で見て、確認だけではなく、サプライズもたくさんありました。

まず、「大町にはなにもないということ」はぜったいないです。
限られている時間と体力で、塩の道ちょうじゃ、西丸震哉記念館、黒部ダム、原始感覚美術祭木崎湖の周囲の作品、麻倉、大町名店街を回りました。

稲生駅の近くからみえた景色は最高でした。
西丸震哉記念館から見える木崎湖




















雪がかかっている山、日本と思えないぐらいの景色でした。
湖も本当に奇麗です。このあいだ、水戸で滞在して、千波湖もきれいですが、木崎湖のほうはなんかヨーロッパの感じがして、また別の味でした。
観光地としての価値十分あると思いますが。
信濃大町から大糸線なんと12:00から15:00まで、走っていなく、景色がきれいわりに、交通の不便さを感じました。
事前の調べと認識不足のわれわれ、見事に電車を逃しました。
大糸線を逃してしまいました
















黒部ダムまでの交通費はまた高かったです。人造景観はここまで迫力があるとは思いもしませんでした。
中国の三峡ダムまだ見ていなく、どこが違うか気になります。

また、大町のひとびとと触れ合うことができて、よかったです。
西丸記念館の職員さんが親切に原始感覚美術祭の周り方や交通の手段など教えてくださいました。館内の展示、頭蓋骨や蝶々の由来も説明してくださいました。窓にかかっているアイヌの衣装も試着できました。
西丸震哉記念館の中のアイヌ衣装















原始感覚美術祭の作品を回っているとき、佐藤啓というArtistさんとバッタリ会いました。
彼が作ったお面、不気味で面白かったです。作品の作りについての話して、また演出もしてくれました。
佐藤さんからのお面の演出





















タクシードライバーもたくさんお話ししていました。木崎湖は『お願いティーチャー』というアニメのロケ地で、その作品のファンが熱狂に巡礼に来ているとか。

おおまぴょんも大好きになりました。
東京に戻るまえに、ピンバッジを購入。
ホテルがくれたシールと買ったピンバッジ
















芸術祭と呑み歩きのイベント終わっても、登山者やダムの見学者大町寄って、楽しんでもらえて、ず〜と賑わってほしいですね。
また別の機会で、観光客としてではなく、調査なども関われたらいいなと思います。
(Mengfei)

2014年9月3日水曜日

千人仏プロジェクト@陸前高田・大船渡

829日~31日に『千人仏プロジェクト』に参加してきました。
http://senninbutsu.com/
 
このプロジェクトは、東日本大震災の被災地で2年前から開催されているアートプロジェクトで、写仏を通して皆さんに癒しを感じていただき、楽しい時間を過ごしてもらおうというものです。最終的には1000枚の仏様の絵を集め、ひとつの作品として美術館などでの展示を計画しています。仏様の絵は、印象派が多く用いたという木炭画で描きます。輪郭などの雛形があるところに顔のパーツを描いていくだけなので簡単で、しかしやり始めると深みにはまって楽しくなっていく、そんな体験をさせてくれます。

このプロジェクトは、珍しくNET-TAMを見ていたときに偶然見つけました。
東北地方には震災以前も以降もお邪魔したことはありませんでした。被害を受けた地域の現状を自分の目で見て、現地の方々に直接会いしてお話を聞いてもいないのに、分かったようなことを言っているのが、すごく無責任で申し訳ないことだと思っていました。実質2日間の行程ですからもちろん現状のすべてを見ることはできませんが、少しでも何かを感じてこなければいけないと感じてきました。
そんな折このプロジェクトに出会い、ちょうどスケジュール帳もその日程の部分がぽっかり空いておりまして、これは行かねば!と、詳細を読むより先に(!)申し込んでいました。

先ほど、被災した地域の現状を見なければという思いがあったことを書きましたが、このプロジェクトに参加してみようと思った理由は、もうひとつありました。それは「アートに何ができるんだ?」という少しひねくれた問題意識でした。私は自分で音楽を聴いたり演奏したり、絵を見たり描いたりするのは、大好きです。しかし、音楽や美術を通して、深く傷ついた人の心に働きかけようという行為に意義があるのか、そもそも苦しみの体験を共有していない者がそんなことをするのは烏滸がましいことなのではないか、というふうに思っていたのです。自分自身は芸術大好きですが、傷ついた人に芸術で何かしようということについて、懐疑的だったのです。だから、機会があれば芸術と癒しという現場に自分自身の身を置き、どういうことなのか体感してみたかったのです。そもそも、芸術によるセラピーの知識がない人間がこのようなことを書くのも愚なことかもしれず、すでに音楽療法などの分野では科学的に説明がついているのかもしれませんけれど。

 さて、その問題意識についてですが、私が今回のプロジェクト参加で出した答えは、YESでもNOでもありませんでした。

参加してくださったのはお年寄りが主で、私以外のチームでは子供も参加してくれたようです。どのような告知で集まってくださったのか謎だったのですが、「私は絵さ下手だ。絵なんか描けねぇ」と言いながら、しぶしぶ木炭を手に取る方もしばしばいらっしゃいました。多くの方は、はじめは少し躊躇いながら、でも慣れてくると楽しそうにお喋りしながら思い思いの仏様を描いていきました。訪問先によってかなり雰囲気は違いましたが、絵を描きに来たというよりも、いつもの友達とお喋りをしに来た、といった印象を持ちました。私たちの持ってきた木炭画はあくまで、手すさびのようになっているセンターもありましたが、それはそれで、いつもの仲間とたわいもない世間話(とはいっても、やはりどの話題にも何かしらの形で震災が関わっていたように思います)をできる場と時間を提供できたという意味で有意義だったと思います。

それから、不思議なことには、作家の先生によると、描いているうちに、仏様の顔が自分や、自分のよく見ている人、見ていた人に、似てくるというんですね。実際、「その顔あなたに似てるねぇ」「この顔、母親に似てる気がするのよ」という声も参加者の中から聞かれました。

芸術の中でも絵画というものは特に正直で、それゆえに残酷なこともあるように思います。もしかしたら、自分の描いた仏様の目元や口元が、震災で失った家族を映し出しているということもあったかもしれません。無意識に苦しんでいることが形になることで、苦しみの正体が見えてきて、多少なりとも気持ちの整理がつくということがあります。そういう作用はいくらか期待できるのかもしれないと思いました。しかし震災の場合、亡くした人のことで辛い思いをしているのはご本人にとっても明らかなことであり、改めて目に見える形にすることは、癒しよりも痛みを与えることのようにも思われます。そういう意味で、このような効果を期待することができるかという点では、賛同しかねるのです。

期待される効果として作家の先生がおっしゃっていたのは、仏様の絵を描くことで心が穏やかになるということです。私自身も3枚ほど描かせていただきましたが、それは一理あると感じました。まず、仏様なので雑には描けませんよね(笑)無意識に丁寧に描こうとします。さらに描きながら仏様の表情を自分の中で思い浮かべ、紙に落としていくので、なんだか自分自身もやさしく穏やかな気持ちになるのです。この点で、仏様という題材を選んだ作家の先生方のセンスに感服しました。

陸前高田のとある自治会の会長さんが、どうしても絵を描こうとなさらないので、描きましょうよーと声をかけました。そうすると、これから車で30分走ったところにある病院に行かなければいけないというのです。震災後アルコール中毒になり、身寄りもない知人の見舞いに行くとのことでした。「あれも、震災の被害者の一人だねぇ」とおっしゃるのを聞き、震災は本当にまだまだ続いているんだということを、今更ながら思い知らされました。苦しみを身をもって分かち合うことのできない私に、できることがあるかは分かりません。でも少しでも、彼らの苦しみに寄り添うことができればと、無力にもそう思ったのでした。

思ったことをつらつらと書いて、読みにくい随想的な文章になってしまったことお詫びします。
今後もこのプロジェクトに関わっていこうと思っています。アートは被災地に何ができるのか、もっと考えていきたいです。

以上、ドーハからベルリンへの空の道より。
英語もドイツ語も分かりませんが、ドイツ頑張ってきまーす。

risaia

2014年9月1日月曜日

インプロビゼーションのまち 台北

  M2 Muhiです。台湾合宿、無事終了で何よりでした。企画・運営担当のM1の方々、おつかれさまでした。特にすばらしいアテンド、通訳をしてくださったAさん、Sさん、本当にありがとうございました。

今回の合宿で考えたことは以下のようなことでした。このブログより前に投稿してくださった方々と対象が重なってしまうのですが、あと数時間後にドイツ出発を控えているため(汗)、そのまま掲載です。ご容赦を。

 ◆違法建築と老人とアート 宝蔵巌国際芸術村
超絶技法の数々。過去の地震にも全壊はしなかったそうですが、修復は加えているとのこと。
 

刺激的な文化政策を展開している台湾なので、今回もたくさんの試みを見学することができましたが、「宝蔵巌国際芸術村」が印象的でした。水源地帯、お寺、台北からあふれた労働者のたまり場、日本軍の軍事倉庫、違法建築…という根源と辺境が交錯する場所に対し、新たな芸術エリアとして再生を図ったことは、歴史の必然性さえ感じさせてくれました。

アート作品もですが、それ以前の違法建築の技法に目が行ってしまいました。アシンメトリーに交錯する建造物の作りだす空間は圧巻です。なんでこんな難しそうな傾斜地の地形に建築物が次々と建てられたのか?究極のDIY空間だ!と騒いでいると、「ガテン系の住民が現場で習得した技術を駆使したんですかね?」とOさんが推測してくれれば、建築に詳しいTさんは「鉄筋も無く、レンガを積み上げコンクリで固める技はありえない!!」と感嘆しています。よく見れば石垣の石組みも場所によって同一パターンではありません。規格外意匠、超絶技法に目が釘づけです。

 そして案内してくださった張玉漢さんの説明を聞くとき、われわれはアートエリアとは区別されたレジデンスエリアの広場に集まったのですが、ちょうど横では住民である老人の方々が三々五々に集まり、週末の夕食の準備を野外キッチンで始めていました。ちらちらと見ると、単一の老人カップルだけではなく、男女入り混じった方々がテーブル周りに集まってきます(「あれぐらいになると男女の恋愛のごちゃごちゃもないだろうね」とはIさんの談ですが、そればかりはわかりません)。
こちらは芸術村について質疑応答を交わしていますが、異邦人たちのやりとりを面白そうに老人たちも見ています。この老人たちがあの違法建築をつくったのかな?と思うと断然興味がわきます。お酒を飲み始めるおじいさんもいれば、調理に専念する少し若手の男子老人もあり、大量のニンニクを刻むおばあさんもあり、着々と食事の準備は整っていきます。老人たちだけで自活しているらしい様子がうかがえました。

名所における「住民と観光客被害」という永遠のテーマはここでも同じようにありつつも、エリアを区別することで対処していると台湾藝術大学の大学院生も教えてくれました。しかし観光客がうるさい以上に、もしかしたらここの地域的、歴史的に孤立した地区の老人にとって、アート目指して有象無象の人々(若いカップルが多い)がやってくることはちょっとした楽しみでもあり、ああ、そんな老後も面白かろうと、拝見していました。

すでに各地開催のアートプロジェクトやアートイベントで、同様の効果は語られているとは思いますが、マージナルなものづくめのこの地区にこういったプロジェクトを立ち上げた方の慧眼ぶりはやはりすごいと思いました。もともと地区にあった生活全般にわたるDIY精神(それは必死なDIYであったかと思うのですが)がアートプロジェクトと合致した印象を受けました。

 
◆自立する犬たち

台北では飼い犬は紐もつけられず町を歩いています。かといって吠えたりもせず、人にかみついたりもせず、対面の人間と目を合わせながら自分の進路をしっかり進んでいきます。Iさんは犬が「どうぞお構いなく。私はしっかり歩いていますから」って思っているみたいと評していましたが、言い得て妙だなと思いました。

昨年のゼミではジェイン・ジェイコブズの『発展する地域 衰退する地域』を講読しましたが、ここ台北は「発展する地域」として、外来の技術を輸入するだけでなく、輸入置換して、インプロビゼーションし、イノベーションを絶えず起こし続けていく特性が指摘されていました。ゼミではもう30年前の著作でもあり、経済学者でもないジェイコブズが言うことが今さらどうなのかといった一部批判もありましたが、改めて今回の訪問は、台北のインプロビゼーションの数々を目の当たりにした気がしました。

文化政策においても、日本をはじめとした海外の文化政策を取り入れつつ、前例の失敗を分析し、さらなる進歩に向けて取捨選択を行っています。容積率の規制と緩和など、日本が失敗し歴史的建造物の保全に至らず開発主眼となった歴史とは対照的に、段階を踏んで開発と保全の調和を探っていたことはまさにインプロビゼーションだなと思いました。ただの追従でなく、よりよき方向に向かう姿勢はどこから生まれて来るものなのでしょうか?

日本に帰ると、訓練されて吠えることをしない盲導犬の着衣の下を数カ所にわたり傷つけ、目の見えない飼い主にも犯行がわからなかったというひどいニュースを聞きました。放し飼いにされた犬が他人に咬みつき裁判になったり、咬みつかれた人を飼い主が放置して死なせてしまった事件なども日本にはありました。犬は人間社会に密着して生きている動物です。単純な比較はいけないですが、犬にまつわることは人間社会のある種の反映でもあるように思え、かつてジェイコブズによってインプロビゼーションが起こっている地域として取りあげられた台湾と日本、マインドの点において、今はどうなのかなと思うところがありました。

「海外に行くということは日本人を知ること」と言われたりしますが、台北において文脈を違えながらも日本と同じような政策が導入され具現化した事例から、逆照射される要素を知ることで、私たちが学ぶことは多かったです。この合宿の経験が冬学期のゼミ活動に活かされるといいなと思っています。

 


SARS治療の様子がモチーフに。伝道は現在につながっています。
追記:個人的には偶然にもキリスト教長老派マッケイ児童医院(細川たかしの広告が大きく出ていたCDショップの斜め向かいにありました)のモザイク壁画が見られてよかったです。帰って自分の研究の資料を読んでいると、マッケイはカナダの宣教師で、日本への宣教に先駆けて台北に渡り伝道に従事したという記述に出会いました。近年のSARS治療のモチーフなどをふくめながら過去から現代に至る台湾での宣教の足跡をモザイク壁画は語っていました。                                          
 
                                                  (Muhi

 

 

今夜ドイツへ発つ前に。

昔、ポルトガル人が台湾を見つけた時、
その美しさに「フォルモサ(麗しの島)」と言ったという・・・
そんな真夏の台湾に行ってまいりました。pugrinです。

わたしにとっては28年間生きてて初めての海外旅行、
「出国」と押されたパスポートに緊張しつつ機内に乗り込みました。

松山空港に降り立った瞬間「これが日本以外の国・・・!」とかなり興奮状態でしたが、
市街地へ出ればそこは大都会。
日本統治下にあった影響もあり、
なんだか名古屋や福岡といった都市の延長線上に来た感覚で、
4日間のうちにすっかり慣れ親しんでしまいました。



写真は市街地から少し離れた宝蔵巌国際芸術村。
70年代に、過去軍事施設だった場所を不法占拠して始まった住居群ですが、
今ではアーティストが移り住んで制作・公開をしています。


薄暗いですが、一角にあった東屋的スペースです。
この日はここで住人のおじいちゃんおばあちゃんたちが一緒に煮炊きをしていました。
暑い台湾、野外で扇風機をまわしながらのんべんだらりと過ごしていたのは
そこはかとなくユートピア感。

われわれがマネージャーさんの説明を聞くためにずかずかと上り込んでも
大事な扇風機をこちらに向けてくれたりして、さりげないやさしさに感激しました。

「アーティストがプロジェクトを地方に持って行って、
最初は嫌がられていたがだんだん住民たちも楽しみ始めた」
というのはアーティスト・イン・レジデンスでよく話される美談ですが、
ここのおじいちゃんたちは不法占拠しはじめるくらいのアナーキーぶりなので、
アーティストたちが何やら持ち込んで作るのもむしろ
娯楽として参加したりしていたのかなーと想像してしまいました。
 
というのも、台湾では若者たちが本当に大活躍していたことにカルチャー・ショックだったのです。
直接話した台湾芸術大学の若者たちにやる気や希望があるのはもちろん、
若者に対する支援(政策としても、日常的な態度としても)
が活発だということを方々でご説明いただき、日本との違いに愕然としました。

特に夜の街なんかキラキラして若者たちはみんな楽しそうで、
バブルってこんなんだったのかな、とぼんやり思いました。

最後に台湾グルメの話。
ちょっとした町の定食屋さんも道端の屋台も台湾大学の学食も、
みーんな、お い し か っ た です!

台湾大学では女学生が食べていた巨大から揚げを見て
「それが食べたい」と伝えると、売り場に連れて行ってくれて、
買うところまで一部始終見届けてくれたり。
定食屋も「これはなんだ」とか「わからん」と伝えると
できるだけ説明しようとしてくれたり。

味だけじゃなくてそういうコミュニケーションもおなかいっぱいになりました^^

そして一番印象に残ったのは中国貴州料理のこれ。

8時間トリと薬膳だけを煮込んだ、1000年前に諸葛孔明がつくったものの再現料理、
と店主がドヤ顔で説明してくれた名物スープ(本当か?笑)。
トサカまでばっちり残って安らかにお眠りになっていらっしゃるダシは最高でした。
梅ジュース(酸梅湯)と合わせて漢方の力でゼミ生のテンションはMAXに。

4日間の台湾に、多謝!!!
そして今夜からドイツ、いってきまーーーーす!!

台湾合宿のレポート~都市再生よる街づくり~

気が付けばもう今日から9月になりました。
気温もぐっと下がって過ごしやすくなりましたが
こうなると8月の真夏日も恋しくなります。
「これは記憶も新しいうちに!」と思い、台湾合宿のレポートです。

今回の台湾合宿は
ゼミ生の中でもM1生が中心になって組み立てたものですが
その中でも現地でずっと合宿メンバーをひっぱってくれたクラスメートには
とても感謝しています。
きっとそういった力があったからこそ、一般的な観光にとどまらない小林ゼミらしい文化やアートに触れることができる台湾合宿になったのだと思います。

私が興味深かったのは台北市都市更新処の「都市再生前進基地計画 Urban Regeneration Station(URS)」による街づくりです。

中でも迪化街のプロジェクトは文化遺産保護や建築物の管理経営なども行いながら
ともとのコミュニティーとの関わりを目指しており
既存のものと新しいものがどのように共に歩んでいくかがわかり
問屋街を歩くもの楽しい時間になりました。
建物一つみても、日本統治時代に建てられたゴシック様式など、さまざまな様式が入り混じっていて、その土地が歩んだ歴史を感じることができました。



逆に東京で考えると、古い街並みを生かすよりも、最新の建築を増やしていくことに注力しているように思うので、国によってその都市の再生の方法もさまざまだと感じました。
(ただ私自身が東京の都市再生には詳しくないので一概に言い切れないとは思います)

そんな台湾合宿の記憶も新しい中、
かなり遅ればせながら代官山の蔦屋デビューを果たしました。
ずっと行ってみたいなと思いながら、なかなかチャンスがなく、やっとのデビュー。
トラベル本コーナーの充実には驚きました。とにかく「オシャレ」のひとことに尽きます。
ただ、ちょっと辛口な意見としては
やはり商業施設であり、これは「文化の発信拠点」ではないのだろうと感じました。
たとえばあと10年後にも同じような「オシャレ」さをどう保つのか、
消費されていくだけでいいのかと思いました。
(そもそも「オシャレ」ってなんなのでしょう????と思ったり)

 あとの台湾合宿の記憶としては、やはり食べ物がおいしかったです!!!
とにかくたくさん食べました!やっぱり台湾はこうでなくちゃ、と思いました。

 


台湾合宿はとてもいい経験になりました。みなさま、ありがとうございました。

Nobu