2014年9月18日木曜日

知的生産と公共選定


9月9日〜12日までドイツ、ヒルデスハイムで行われたInternational Conference of Cultural Policy Researchに参加し、帰国後には日本アートマネジメント学会での研究会で「アートマネジメント大学院がめざすもの」について考え、さらに昨日16日は日本学術会議の学術フォーラム「我が国の知的生産者選定に係わる公共調達システムの創造性を喚起する施策に向けてー会計法・地方自治法の改正を問うー」を聴講してきました。この1週間大変知的刺激を受けたということを書きたいのですが、ここでは一番記憶が新しい三番目の問題について少し書きたいと思います。

もともとこの講演に参加しようと思ったのは、最近自治体の入札が不成立に終わっているという状況と、近年(といってもすでに10年以上を経過しているわけですが)の指定管理者選定をめぐる問題において、そもそも文化施設の運営に必要な専門性とは何かという問題を考えているからにほかなりません。それは(高度に)専門的な知的作業なのか、それは求められているのかという点です(批判的に書いているわけではありません)。

昨日の会議においては、日本学術会議の「デザイン等の創造性を喚起する社会システム検討分科会」委員長の仙田満東京工業大学名誉教授からその趣旨が述べられました。一部引用をしますと、「設計、デザイン、芸術的創作等は文化的な生活そのものを豊かにするのみならず、それが環境や製品の付加価値として観光や商業的、あるいは産業的な競争力に寄与している。グルーバル化した現代において、その設計、デザイン、芸術的創作等創造性を問われる領域は経済的にも極めて重要になりつつある」ということで、これらは文化政策研究者の間でも共有されている問題かと思います。ただ、そうであるのに、いわゆる公共調達システムにおいて(おもに地方自治体が発注する建設工事等になりますが「高度な技術を要する知的生産、知的サービス」)、入札による価格方式が原則として貫かれているがために、これらの領域が参入しにくくなっていることから、その元凶でもある会計法や地方自治法において、「知的創造行為を価格のみで選ぶのは無理であり、一定の予算制約で品質評価するのが妥当であり、高い参入障害を排除する法的措置も必要」ということをを明示した福井秀夫制作研究大学院大学教授の方向性を視野にいれて改正していく必要があるのではないかというのが今回の提案でした(福井氏の主張については日本経済新聞2014年8月1日の「経済教室」を参照のこと)。これまでに建築学会等が、この問題に長らく取り組んできているようでした。つまりは、芸術的、デザイン的な付加価値が公共入札の場合は、認められにくい状況にあることを法律的、行政的、あるいは市民の受容側からの観点から問題視しています。

基本的に賛成で、私自身考えさせられたのは以下のことです。私が係わってきている領域は、設計者選定等のハード面ではありませんが、法律的に「原則」なのであるから、法律の「運用」において例外を追求していけばよいのではないかというように考え、それを一つ一つの自治体に地道に価値を理解してもらっていく必要があると考えてきた私にとっては(だからこそ一つ一つの地方自治体とみっちりつきあうということを実践してきたつもりなのですが)、会計法や地方自治法の「運用」で解決していこうとするのは難しく(それは現場を知らない人の言うことであり)、「行政官は基本、原則に則り」、自ら説明責任をあえてとろうとしない事なかれ主義が基本であるからには、「知的創造行為については、価格方式はとってはならない」という禁止規定こそが必要であり、原則と例外を転換させる必要があるのではないかと発言されました(検討委員会の提案においては、この問題だけではなく、広くそれらを支えるシステム全体からの考察がなされておりとても重要な論点があるのですが、それらはここでは割愛します)。いずれにしても、福井氏の発言に、納得し、賛同する部分もあるのですが、そうはいってもやはりまんじりとしない気分にもさせられたということなのです。

そのまんじりとしない部分の方を見つめてみると、いくつかの問題要因があるのでここでは書ききれないので、一つだけ一番気になっている本質論的なことだけを書きます。そもそも同様の俎上に載せてよいかという問題はありますが、公立の文化施設運営に関する指定管理者の選定も公共サービスの管理運営代行者を選ぶという意味では公共調達になるかと思うのですが、企画方式のプロポーザルが採用されているところもあるわけですが、現実には価格方式が優先されている現状がないというわけではありません。企画方式が隠れ蓑的になっているところもないわけではありません。企画方式は採用しないまでも、文化施設の専門性を考え、既存の財団の特命指定もあります。さて、そのときに文化施設の運営は、「高度な技術を要する知的生産、知的サービス」ということで、建築や設計プロポーザルと同様に価格方式ではだめなのだというほどの専門性を考えることができるかどうかという問題です。建築や設計のプロポーザルの問題も専門的に基礎的な図面が描けるかというところ以上の、創造性や芸術性の部分が問われているということになるかと思うのですが、文化施設「運営」の基礎部分と「創造性や芸術性」の部分の関わり方はどのように考えればいいのか、ということです。ある意味でいわゆる劇場法もその問題を取り扱ってきたということがいえると思います。実際、行政の一般職員や施設の現場職員においてすらも、文化に関する専門性がないことを理由に文化施設の活性化に積極的にならないということがよく見受けられます。ではそこに必要とされている専門性とは何なのかということです。

これは、前日に行われた日本アートマネジメント学会の「アートマネジメント大学院が目指すもの」を考えるの際に、文化施設に限らないことではありますが、芸術文化を扱う非営利の組織のマネジメントは、一般的な経営学とは異なることから、専門的領域だということになるわけです。その専門性を言うときに、資金調達ができるとか、公共的文化政策を理解しているとかが(そもそも直営でやってきた公立文化施設などは、この問題を考えることはなかったということはあると思います)、特殊性であり、専門性としての共通認識はあったのですが、いつもこの問題を論じるときにオブラートに包まれてしまう(あるいは暗黙の了解事項で不問に付される)「芸術への愛」とか「芸術への理解」という部分が残ってしまうような気がします。これを必死で数値化しようとする試みもあるのですが、それが適切とも思えない。16日の会議でもそのような発言が委員長からありました。詳しくは省きますが16日は、それを判断する方法として、外部の専門性ある人材の登用や、外部コンサルタントの導入ということがありました(そういう意味ではとくに新しい提案というのではなかったように思えます)。文化政策や文化施設運営の評価等で、やはり私は文化「政策」やアートマネジメントの専門家こそが、より積極的に関わっていく必要があると考えていますが、まだまだその領域を担える人は全国的にみたときに少ないとも思ったわけです。行政の施策に結びついているがゆえにコトを判断しようとしますが、そもそも判断しにくい部分の芸術は海外ではヒトで判断するようにできています。それがそもそも芸術監督という仕組みがあるゆえんだと思っています。大きな仕組みをどうするかという問題と、現実具体的な実務の部分で関わっていける人材と、建設関係とは規模が異なりますが、同じような問題が解決していないなというのを実感しました。

(小林 真理)



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