2013年4月30日火曜日

新しい伝統芸能とは


 さきほどのゼミで鶴岡・酒田について言及した際庄内映画村のことを少し話題にしましたが、先日ちょっと調べていたある催しを紹介すればよかったなあとゼミ終了後思い出しましたので少しおもしろいものをご紹介したいと思います。

山形県には、国指定の重要無形文化財であり地域住民によって伝えられている貴重な民俗芸能として全国的に有名な黒川能や、享保年間から続く“農民歌舞伎”黒森歌舞伎など、地域主体で伝統的に受け継がれている民俗芸能が数多く存在します。黒森歌舞伎については文化資源学で論文を書かれて修了された先輩もいらっしゃるとお聞きしました。
その中でちょっと面白い事例として「夕陽能」というものがあります。静かな温泉地として親しまれている鶴岡市の温海(あつみ)という地区の、海に面した広場に道の駅あつみがあります。地元では「しゃりん」という愛称で親しまれているこの施設が道の駅としてオープンしたのが1993年なのですが、このオープン以来、毎年8月に近隣の山五十川という地域の伝統芸能である“山戸能”を上演する「夕陽能」というイベントが開催されています。読んで字のごとく、夕陽を背に舞われる能の舞台です。もちろん晴天であれば、ですが、日本海に沈む美しい夕陽をバックに上演される能の舞台は非常に神秘的で、変わりゆく光・空・水面・波音・潮風を舞台装置に非常に引き込まれる舞台となっています。
 私は恥ずかしながら県内の伝統芸能を見た経験は多くはないのですが、夕陽能は数年前に一度祖母に連れられて見に行ったことがあります。歌舞伎に興味を持ち始めた頃でしたので夕陽を背に舞われる演舞はすごく雰囲気がいいなあと感じましたが、まあ内容とかはよくわかってませんでしたね。今見たら以前よりはちゃんと見れると思いますし、特に演劇や無形文化財などへの興味から文化資源学に集まった方々があれを見たらどう感じるだろうかということがすごく気になりますね。
夕陽能は毎年8月後半に一度だけ開催されているようですが、今年はまだ公式な情報が出ていないようですね。もし庄内へのゼミ合宿を検討していただけるのであればチェックされてみてはいかがでしょうか。

(志)

研究出張の合間のつかのまの楽しみ、すなわちごはんの話

最近研究と育児と家事しかしてなくて、ブログのネタに困るmihousagi_nです。
あまりにネタがないので、
市立大の調査のお昼に食べた学内カフェテリアのメニューの話です。

日帰りで時間がないけれど、せっかく始発に乗って大阪まで来たので、
お昼くらい何食べようかな~ 市立大の学食とか~♪
と思って情報センター1階のカフェ「ウィステリア」をのぞいてみたら
一押しされていたのが「夏爐(かろ)のレモンライス」。
1日限定30食。ジュースが付いて780円(小は480円)。














具は大きめに角切り刻みされた大分産どんことグリンピース少々、それから卵。
福神漬けも添えてあって、レモンをかけていただきます。
ジュースは
トマトジュース、オレンジジュース、グレープフルーツジュース、スープ?、味噌汁??
から選べます。

元々は昭和40年から大学の近くにあった喫茶店「夏爐(かろ)」の人気メニューでしたが、
2007年に惜しまれながら閉店。
その看板メニューを残したいという関係者の思いと努力が実って、
学内カフェのメニューとして再現されたそうです。
食の文化資源を大切にする、ちょっといい話ですね。

肝心のお味は・・・
胡椒が効いてて、レモンの香りで、具材もシンプルで、さっぱり系かと思いきや、
オランダ産ラードでしっかり炒めた、かなりのこってりがっつり系でした。
小がある理由と、ジュースが付いている理由がよくわかる・・・ 福神漬けも必要だ・・・

きっと二十歳前後の学部の男の子が、
おなかをすかせて思い切り食べたい時の定番にしていたのではないかと思いました。
東大で言う山手ラーメンとか三島のたこ焼きみたいなものではないでしょうか。



(mihousagi_n)


原資料の閲覧と複写撮影の話

日帰り強行軍で、大阪に資料閲覧&複写に行って来ました。
今回の目的は、大阪市立大学の大学史資料室です。
初代学長で法学者の恒藤恭の講演レジュメ、スクラップブック、著作論文の閲覧と
撮影による複写をしてきました。

市立大学術情報センター










事前に申し込んで用意して頂いた資料の山。
いわゆる文書系の資料はこんなふうに
一部ずつ封筒に入れて整理されていることが多いです。










こんなスタンドに持参したカメラを取り付けて
透明ガラス棒(アクリルの事もある)で押さえて撮影。













紙の古い原資料なので扱い注意です。
手を洗うのはもちろんですが、
特に指示がない場合でも、指輪、腕時計、ネックレスなど
うつむいた時資料に触れうるアクセサリも外します。

一つ一つの資料の長さにもよるので一概には言えませんが、
ざっと目を通しつつ複写して、今回は5時間で約40件の資料を撮影しました。
写真の枚数にして約320枚。

研究材料の撮影にいくときは、メモリと、あとバッテリに余力を持たせるのは大事です。
カメラのバッテリーは今回は2つで間に合いました。
数日に渡って複写するときは充電の時間も考えて3つあると安心です。

カメラは
数年前に写真の研究をしている先輩が
平面資料撮影がいちばんきれいにできると教えてくれた
RICOHのデジカメを使っています。
それとは別にプライベートでは、2歳の子どもに落とされてもいいように、
耐ショック防水を掲げたPENTAXのWGシリーズを買いましたが、
実際の現場で活動に参加しながら記録するのにはこちらもいいかなと思ったりしています。

戦後直後の手書きのレジュメとか手にとるとテンションがあがります。
学者本人によるスクラップブックは読むだけでも勉強になります。
おかげで新しい研究のネタも思いつきましたが…
その前にまずは今の博士論文を書いてから…

(mihousagi_n)

2013年4月29日月曜日

東京国際レズビアン&ゲイ映画祭 春の名作劇場


はじめまして。文化資源学M1のmeroeです。
遅くなってしまいましたが、ブログ初投稿です。

今日は青山で開催された「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭 春の名作劇場」へ行ってきました。
「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」というのは、セクシャルマイノリティを扱った映画を上映する映画祭です。1992年から毎年開催されており、次の7月には第21回が開催されます。
そして今回の「名作劇場」は、「Tokyo Rainbow Week 2013」というLGBTのためのイベント(昨日は「東京レインボープライド」というパレードが行われていました。私は行けなかったのですが…)に合わせて過去の映画祭の中から評判の高かった作品を上映するというイベントです。

前から映画祭の存在は知っていたものの、実際に足を運んで映画を観るのは初めてでした。せっかくなので3プログラム連続にしました。
まず1本目は『シェリー・ライト ― カントリーシンガーの告白』(2011,USA)。
人気カントリー歌手のシェリー・ライトがレズビアンであることをカミングアウトするドキュメンタリーです。カントリーというジャンルのファンは保守的で、歌手が同性愛者だという事実をまず受け入れないだろうというこということを知りながら、彼女はカミングアウトの決意をします。実際にその後彼女はカントリー界からオファーがかかることはなくなったそうです。
幼いころからの宗教的葛藤、カントリーの世界でレズビアンであることを隠して生きること、家族や周りの人々との関わり……ぼろぼろ泣いたせいで、朝していったメイクがほとんど落ちました。
それにしても驚いたのは、アメリカの、カミングアウトのためのビジネス(単にお金儲けという意味ではありません)の大きさです。彼女の決意ののち、「その日」が設定され、そのために着々と準備が進んでいきます。大勢の人が関わりながら、自伝の出版、テレビ出演、各地での講演といった計画が立てられ、実行されていきます。周りの人たちは彼女を受け入れ、支える友人でもありながら、ひとつの「事業」のためのパートナーでもあります。もちろんこの映画もその事業の一環です。「その日」を控えて憔悴しきった顔でカメラに向かって話したり泣いたりする彼女の映像が、ドキュメンタリーの素材のひとつとして使われていました。
少し調べてみたところ、有名人の「カミングアウト・プロジェクト」のプロがいて、シェリー・ライトについても「5月5日にある大物アーティストがカミングアウトする」とその前から話題になっていたそうです。有名人がそのキャリアを投げうつ覚悟でカミングアウトすることは社会的にも金銭的にもなにより精神的にも大きな負担になります。どうすれば大きな代償を払ったカミングアウトが黙殺されず、もっとも効果的に、有効なかたちになるかということが考えられなければなりません。彼女の場合はかつての自分のように悩んでいる同性愛者の少年少女に力を与えたいという願いがもっとも強かったので、どうすればそのような少年少女に彼女の声を届けることができるか、ということが課題となるわけです。

休憩を挟んで短編コレクション、『TSUYAKO』(2011,日本、USA)、『アンコール / 再演一齣戲』(2011,台湾)、『ごくごくふつーのっ!』(2011,日本)の三本立てでした。『TSUYAKO』はタイトルからしても『SAYURI』のような、厳しい環境の中で耐え忍ぶ美しい日本女性(しかもエロティック)というあまりにもオリエンタリズム的な映画で驚きました……。

もういちど休憩を挟んで、最後は『シェイクスピアと僕の夢』(2008,USA)。シェイクスピア『夏の夜の夢』の劇で妖精パックを演じることになったゲイの男子高校生が、実際に『夏の夜の夢』に出てくる惚れ薬を作ってしまい、街中でゲイカップルを成立させるというストーリーです。虚実入り交じる、ファンタジックでいかにもゲイっぽい(あえてそうしているのだと思います)キラキラむちむちした画面がとても楽しかったです。主人公とその想い人、どちらもかわいいです。

7月の映画祭もぜひ行こうと思います。


第21回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(http://tokyo-lgff.org/2012/
Tokyo Rainbow Week 2013(http://www.tokyorainbowweek.jp/


(meroe)

植物病が生む植物の「芸術」



 はじめまして。初投稿となります。Showです。
私は他研究科に所属し、文化資源学を専攻していませんが、私独自の記事を書いていこうと思いますのでよろしくお願い致します。

初めての投稿では、私が学部時代に専攻していた植物医科学に関連し、植物と芸術をテーマに記事を書こうと思います。
私たちは、芸術と言えば美術館や博物館に足を運び文化財をたのしむということを想像しがちです。しかしながら、日本全国に300以上の植物園があるという事実からも植物もまた鑑賞の対象になり得ます。
 1634年オランダ、美しい斑入りの奇形の花を咲かせるチューリップの球根が確認されました。その美しさと貴重さからその模様の花を咲かせるチューリップの球根は評判を呼び、高値での売買が繰り返されました。球根一個で家が建てられるほどであったとも言われ、中には一夜にして億万長者になったものもいました。しかし球根の一部を別の球根に移植するとそのもう一方の球根も同様の模様の花を咲かせる事がわかり(この技術は今でいう“ワクチン接種”です。)、1637年に「チューリップバブル」は崩壊しました。これは世界初の経済バブルであったとも言われています。当時の絵画には斑入りのチューリップの絵画が多く残されています。
 この奇形が生じる原因は植物ウイルスによるものであり、そのウイルスの実態が解明されたのはその300年後の1935年の事でした。

Show

参考文献
都丸敬一(2001)『植物のウイルス病物語』全国農村教育協会
難波成任(2008)『植物医科学 上』養賢堂

外部リンク
Norton Simon Museum
http://wayback.archive.org/web/20021115235418/http://nortonsimon.org/collections/browse_artist.asp?name=Anonymous+Dutch+Artist&resultnum=2

2013年4月28日日曜日

銅像めぐり

はじめまして。
今年度よりM1として入学し、小林ゼミの一員になりました、tantakaと申します。

先日授業の一環で、キャンパス内を案内していただいたとき、キャンパスの中にある銅像についても紹介いただきました。
たとえば、こちら。


これは、工学部一号館の前に立つジョサイア・コンドル像です。
コンドルは明治政府のお雇い外国人として来日し、現在の工学部の建築学の教師として、東京駅丸の内口駅舎などを設計した辰野金吾など、多くの建築家を育成しました。
自身も、三菱一号館や鹿鳴館などを設計し、教職を離れた後も、日本に留まり設計を続けました。

これ以外にも、キャンパス内には10体以上の銅像が立っているそうです。
そんな中、私は、小学生の頃に提出した自由研究を思い出しました。
それがこちら。



そう、すっかり忘れていたのですが、私は小4のとき、皇居の周りの銅像について調べていたのです。
レポートを読み返してみると、どうも私は、科学技術館の横や九段下にあった銅像を見て、皇居の周りにある銅像に興味を持ったようでした。
銅像の写真と、その銅像の人物についてのちょっとした情報を載せただけの、とっても簡単なレポートでしたが、読み返してみると案外面白いものです。

たとえば、この銅像。


太田道灌の銅像ですが、東京国際フォーラムのガラス棟の中に立っています。
室町時代の武将ですが、江戸城を築城したことで有名で、この銅像も江戸城、つまり現在の皇居に向かって立っているのです。

また、他にも、吉田茂や尾崎行雄など、当時の私が調べただけで9体の銅像が立っています。


ご興味のある方がいらっしゃったら、ぜひこの地図を参考に回ってみてください!
ちなみに、地図にあるNo.10は、番外編、メキシコ移住100周年記念碑であり、1997年に製作されたセバスティアンというメキシコ人彫刻家の作品だそうです。


今読み返してみると、本当に大したことのないただのレポートです。
しかし、こうやってちょっとしたことに興味を持って調べてみることが、実はとっても大切なことなのではないかと、かつての私は思い出させてくれました。

せっかく文化資源学研究室に入学したのですから、当時の私のように、いろんなところに足を運んで、いろんなものを見てみようと思っています。

さて、最後も写真で締めて見ようかと。
キャンパス内のシンボル、安田講堂です。
安田講堂の周りには、学生だけでなく、いろんな人が集まってきて、それぞれにランチをしたり、おしゃべりをしたり。
そうやって集まって場所があるってすてきですよね。


(tantaka)



内モンゴルの文化団体「OlaanMuchir (「烏蘭牧騎」)

 

Olaan -Muchir」は1957年に内モンゴル自治区遊牧地区と半農半牧地区における文化館を基礎とする総合的な文化工作団体として中国政府によって設立されたものであり、当初は遊牧地区における大衆文化活動を展開することを目的にしていた。

Olaan-Muchir」という言葉自体はモンゴル語であり、中国語に音訳されて「烏蘭牧騎」と書くようになった。Olaanは赤という意味で、Muchirは本来「木の枝」を意味する言葉であるが、「文化団体」という新たな意味を付け加え「赤い文化団体」として名付けられた。

1957617日、最初の「Olaan-Muchir」が内モンゴル自治区のシリンゴル盟に誕生して以来、一種の民族文化団体として55年間、内モンゴル自治区の各遊牧地区や半農半牧地区に活躍し続けている。1997年の統計によると15年以上の歴史を持つ「Olann-Muchir」は内モンゴル自治区全体で305団体もある。

Olaan-Muchir」は時代や政策の変化によって様々な改革や変化を行ってきたが、設立当初の特徴としては流動的な小型文化団体であり(団員は45人~数十人)、団体員の多くは一つの専門技術を持ちながらも多芸に通じており、演奏、歌、演劇、芝居踊りなどの活動以外にも政策の宣伝や科学知識講座や映画放送または髪を切る等の多様な機能を持っていた。「Olaan-Muchir」の活動方式は草原遊牧民族の生活や生産方式に適していて、現地の芸術文化や民間芸能をベースに創作し、現地の人々に愛され、広く知られるような名作を数多く作り上げている。今やモンゴル民族芸術文化の伝承の担い手の一つとしてとても重要な役割を果たすようになっている。

 
  B・S

2013年4月27日土曜日

ポーランドと日本の演劇に関して(最近ぽつりと考えたこと)

ただいま『マネキン人形論』という芝居より帰宅しました。
演劇が好きでちょこちょこ見に行く毎日、中でもポーランド演劇を専門にしようということで、関連する舞台にはなるべく足を運んでいます(とはいっても東京近辺に限りますし、まだ字幕なしでは歯が立たない状態ですが)。今日はそこから気づいたことを。

乱暴に言ってしまえば、日本の演劇(=日本で観ることのできる演劇)で描かれるポーランド像には、かなりの確率でユダヤ人問題が関係するということです。当然のことながら、観客にズシリと響く重苦しい舞台になる場合が多い!
この前の読売演劇大賞を受賞した文学座の『NASZA KLASA』は実際に起こったポーランド人によるユダヤ人虐殺事件を描いたもの。本日観た作品もポーランドの作家・画家ブルーノ・シュルツ(1892-1942)の短編をモチーフにしていました。彼はユダヤ系でありナチスに射殺されるという最期を迎えましたから、その作品から現代の演劇人が全体主義に関する考察を導き出すのは自然な流れかもしれません。
上記二作はポーランドの作品ですが、他にも去年観た『第三世代』 は東西ドイツ・パレスチナ・ユダヤを出自に持つ役者が実名で舞台に上がり、ホロコーストや中東戦争について論議するという内容、「ポーランドの人間は私たちユダヤ人に最大限の敬意を持って接してもいいはずだ」というような台詞が出てきました。また日本の劇団による『あの記憶の記録』はホロコーストを生き延びた「ポーランド南部、クラコフ近郊の村出身」の兄弟を軸にした作品でした。

人のことはいえませんが、「ポーランドといえば?」と聞かれたら、多くの人がショパンやキュリー夫人と答えるのではないでしょうか?でもそれ以上に歴史の時間でアウシュビッツ(ポーランド名はオシフィエンチム)について学ばなかった人などいません。
ポーランド文学(というより中東欧文学)におけるユダヤ人、これはあまりに大きな、そして現代的なテーマであり、実は私が籍を置く文学部の研究室ではよく聞きます。日本におけるポーランド演劇の紹介も、これと無関係ではないんだろうなあと思いつつ、「他にはどんな作品があるんだろう?」とますます気になり始めているこの頃。

 というわけで、再来月静岡に来日する"Utwór o Matce i Ojczyźnie" は紹介文を見たところ、どうやら様子が違うみたいなので今からワクワクです!←これが言いたかっただけ

ちなみに、
「芝居を専門にしてます」と自己紹介すると相手から「カントールが有名ですね」というような返答が帰ってきます。『死の教室』を映像でしか見てない私の貧弱なイメージでいうのもなんですが、「演劇は基本的に言語芸術」(イギリス演劇研究者・喜志哲雄先生の受け売り)と考える私にとって、実は役者の身体性を前面に押し出した舞台はやや苦手です…。

(N.N.)




「地図ってスーパーフラットだよな。」


実は昨年1本だけ投稿していますので初めての記事ではないのですが、正式にゼミに所属して最初の記事からグランドピアノに放火する話だったり俺はTOKYO生まれHIPHOP育ちな話だったりするとさすがにトバしすぎなので、おとなしく文化資源学にまつわる話題から始めてみようと思います。フォーラムの授業もいよいよ始まったようですし。

昨年度の文化資源学フォーラムでは地図をテーマにシンポジウムを開催しました。趣味程度に好きだった地図についてみんなと1年間うんうん考え抜き、最終的にこんなに盛大なイベントにまで昇華されることになるなんて夢にも思っていませんでしたが。
そんなこんなで昨年度1年間地図について色々と調べ考えていたわけですが、結局最後までどこにも書かなかったし誰にも言わなかったけどずっと考えていたことをこの機会に発言してみたいと思います。

「地図ってスーパーフラットだよな。」

っていう話です。
スーパーフラットっていうのは現代日本を代表するアーティストの村上隆が打ち出した概念であり、日本社会の文化や芸術のあり方に見出される「うすっぺらさ」を、現代日本における現象のひとつであるオタク的表現方法さらには日本画に良く見られる「超二次元性」なる特徴を用い表出しあぶり出すという、現代日本社会のありかたを冷静に捉えつつ日本人芸術家としてのアイデンティティを凝縮させた非常に強力な概念であり活動である、と考えられると思います。哲学者東浩紀は20世紀の精神分析家ジャック・ラカンが『精神分析の四つの基本概念』の中でドイツ・ルネサンス期の画家ハンス・ホルバインの『大使たち』に描かれた歪んだ骸骨について、遠近法という「確立された制度」から逸脱し、画面における視点を複数にすることにより象徴界=遠近法(西洋社会で作られた「制度」)に図と地が未分化な状態≒想像界が侵入してきた、つまり社会を作り上げている約束事の世界に風穴を開けるという挑戦的な表現をとっていると指摘していることを取り上げてスーパーフラットの概念的な説明をしています。とかいう難しい話は別にわかんなくてもいいんですけど。
要するに、遠近法と呼ばれる一点透視図法で描かれた近世(中世?ルネサンス?)以降の西洋社会で生まれた絵画の描き方と地図の描かれ方って違うものだよな、っていうことです。洛中洛外図屏風なんかを思い起こしてみてください。ああいう画面って、画面の前のどこか1点に立って全体を眺めてうーん綺麗な絵だ、と感心する類のものではないですよね。画面の一部分に顔をグッと近づけ、ここには大名行列が歩いているな、ここにはお城みたいなものがそびえているな、このあたりは商人や町人で賑わってて楽しそうな界隈だな、とか、部分部分の描写を楽しむ方法を採ることが多いのではないでしょうか。そしてその時に、数メートルある大きな画面のどこに顔を近づけても同じような視点で描かれているということがポイントになるんですね。パースの取り方というんでしょうか、右上の端に顔を近づけたら全体が見えないからよくわからない、真ん中だけ見ても全体が見えないから意味がない、といった描かれ方をされていないということです。
地下鉄の三越前という駅で乗り換えるときの長いコンコースの壁に10mはあろうかという横長の絵が展示されていることをご存知でしょうか。『熈代勝覧』という、江戸時代の日本橋の賑わいを上空からの視点で描いた絵巻です。オリジナルはベルリンの図書館かどこかにあるらしいので三越前にあるのはレプリカなんですけど、日本橋から銀座の端までの賑わいの様子が描かれていて、その視点が数メートルにわたってずーっと同じなんですね。唯一日本橋付近が一点透視図法になってる以外は。
これらの例は、画面の正面であればどこから見ても目線と垂直にパースが取られているというものです。いわば現実には存在し得ない“ありえない”視点なんですよね。人間は同時に一点からしか世界を見ることはできませんから。一点透視図法で書かれた絵画には、観客がこの場所に立って見ることで画面を正しく見ることができる一点が存在しています。地図の場合は、その“正しい一点”が画面全体に普遍しているということです。これが一般に地図として認識されているものに共通する描かれ方なんじゃないかと思うんです。鳥瞰図とかいろいろ例外はありますけどね。
そういった画面における複数ないし無数の視点を描き出している画家としては、古くはエドゥアール・マネがおりました。ミシェル・フーコーがカイロでの講演で指摘したのは『フォリー・ベルジェールのバー』における絵画に対峙する時の視点設置のあり方が変形されているということでした。画面の描かれ方が厳密な一点透視図法から逸脱し奇妙な画面が構成されているために、画面の前で観客が位置を変えて鑑賞せざるを得ないという動きを生み出したのです。これが近代ないし近代性の表出である、という理論です。またこれは絵画における身体性の問題であると同時に、絵画が時間芸術になる瞬間であるとも言えると思います。
20世紀に入るとそういった“画面における視点の複数性”は非常に意識されますから、絵画あるいは写真の分野でその問題点を意識化した作品を作るアーティストがたくさん生まれます。そういった芸術家の中でも知名度が圧倒的に高くまたその問題系自体を明確に意識化しているのが村上隆という芸術家であり、その戦略的概念として打ち出されたのがスーパーフラットであるということです。

僕が昨年度フォーラムに向けて地図について考えていく中ではこのように、地図を絵画として考えるというよりも、地図と絵画に共通して見られる視点の普遍性についても考えていたのでした。
しかもその記事を某市美術館で(peaceful_hill)さんと(竹)さんが仏像について大いに語ったこの日に投稿するわけです。

 してやったり。

(志)

フランス便り(15) ル・プラトー(Le Plateau)

去る1月末「オルセー美術館で、ある家族が他の来館者の鑑賞に支障をきたすような「異臭」を放っていたため監視員によって館外に連れ出された」という事件がおこり、オレリー・フィリペティ(Aurélie Filippetti)文化大臣が遺憾の意を示した、というニュースがフランスの社会紙面を賑わせましたが、「異臭」つながりで(でももっと「ライトな」香り)面白かった展覧会を昨年末に開催していた現代美術施設があります。

パリのベルヴィル地区は移民が多く治安が良くない事で有名でしたが、ホットなアートスポットとして近年注目を集めてきたことは、ご存知の方も多いと思います。その核の一つとなっているのがフランスの地方現代芸術基金(Fonds Régional d’Art Contemporain:FRAC)のイル=ド=フランス地方部局にあたる現代美術施設「ル・プラトー(Le Plateau)」です。
この基金はエマージングなコンテンポラリーアート(将来的に重要な作品になる「かも」しれない作品)を積極的に受け入れ、またそのコレクションをフランス国内で自由に動かしていくこと(収蔵庫に入れっぱなしにしない)を目的としており、美術史上重要な作品群を収集・保存・展示していく美術館よりも幾分フレキシブルなオーガニゼーションであると言えます。
以前ブログでも紹介したメッスの例をとれば、市の美術館/博物館ではその地域にゆかりのある美術を中心に時系列で収集・展示が行われています。そのすぐ近くにロレーヌ地方のFRACの施設があり、コンテンポラリーアートを紹介しています。尚、市の美術館にも現代美術の展示室がありますが、そちらの展示物の中にはFRACのコレクションが多く入っている、というわけです。

ル・プラトーには2ヶ月の間に3回お邪魔し、2つの展覧会を見ました。
1つ目の展覧会は、ミシェル・ブラジー(Michel Blazy:1966年モナコ生まれのフランス人アーティスト)の個展。
ブラジーは環境や時間・偶然等コントロール不能な要素を創作活動の中心に据え、植物や食べ物・動物を用いたインスタレーションを展開しています。
従って、展示期間中にも作品は刻々と変化し腐敗していくわけで、施設のドアを開けると何とも言えない生暖かい匂いが充満しており、ハエが飛んでいるのが目に付きます。展示室の一角に張られた黒い布の上を無数のカタツムリが縦横無尽に移動していたり(移動した後がペインティングみたいに見える)、鑑賞者が自由にオレンジ(会場内に設置)を絞ってジュースを飲み、その皮を壁に設置された棚に積み上げていくといった作品がありました。丁度、子供のグループが観覧に来ていて賑わっていました。
展覧会は「大きなレストラン(Le Grand Restaurant)」と題されている通り、会場を有機生命体のための大きなレストランに見立てて、アリメンテーションの在り方に関する問題提起がなされていました。
以前、NYのギャラリーでカビのはえた食パンを使った別の作家の作品を見たのですが、それはしっかりとアクリルボックスに密封されていたのを思い出し、対照的でした。
この作家さんは2007年にパレ・ド・トーキョーでも個展を開催しており、その時の会期は約3ヶ月間。展覧会の後処理(絶対臭いし虫とかうじゃうじゃ)や監視員(そんな中ずっと居ないといけない)は大変だっただろうなあと思ってしまいました。

そのすぐ後に始まった2つ目は、あの臭いとハエは何処へやら、アメリカを舞台に展開した20世紀近代美術史の展覧会「レ・フルール・アメリケーヌ(Les fleurs américaines)」で、モダンアート史というメモリーを表現する3つのパートから構成されていました。
20世紀モダンアートの黎明期は、1903-1913年の間にパリのフリュールス通り27番地を拠点に展開しました。アメリカ人作家であり美術コレクターのガートルード・スタイン(Gertrude Stein)の著作から「アリス・B・トクラスの自伝(Autobiographie d’Alice B. Toklas:トクラスはスタインのパートナー)」と名付けられた展示室は、多くの画家や詩人を集めたスタインのサロンの様子を再現しています。この展示室は、近代美術史がこれらの芸術家や作家の親密な交流の中から生まれたことを描写しており、このコレクションこそがその後NY近代美術館(MoMA)のディレクターとなるアルフレッド・バー(Alfred Barr, Jr)に大きな影響を与えました。
「近代美術館(Musée d’Art Moderne)」と題された第2のパートは、バーの「キュビスムと抽象芸術」及び「ダダとシュールレアリスム」展(1936、MoMA)の展示プランに沿って象徴的な作品群が展示されています。まず、かの有名なバーの樹形図が大きく示され、小部屋にはMoMAの当時の展示の様子を示した模型が展示されています。 
とは言え、展示室に入った瞬間違和感が襲います。
何故なら、展示されている作品は全て現代の美大生が製作した「コピー」だからです。全ての作品はやたらと拡張されたカンヴァスに描かれ、またそれは額装される事無く今の現代美術の様にカンヴァスのまま壁にひっかけられています。しかも、その日付は2034年などありえない数字ばかり。
これらの「記憶の展示」は、展覧会が作品そのものではなくモダンアートのディスクールを対象にしていること、またそのディスクールが新旧芸術首都の間で展開して来たことを示しています。
バーの樹形図はその後アメリカのアートシーンにも大きな影響を与え、第二次大戦後MoMAコレクションにアメリカ人作家の作品が入っていく事になります。
ふむふむと鑑賞していた所、その日の雨で雨漏りしたらしく、ビニールが展示室の一角に適当に張られ、床に置かれたバケツにぽちゃぽちゃと水が滴り落ちて来ているという、文化施設にあるまじき光景を目の当たりにし、思わず「ベルヴィル凄いなー」と思いました。勿論、そこに掛かっていた絵画は避難していましたが。
1955年にパリの国立近代美術館で開かれた展覧会にならい「アメリカの美術の50年(50 ans d’art aux Etats-Unis)」 と題された最後のパートでは、当時の展覧会のアーカイヴやビデオなどを見る事が出来ます。
オリジナルとコピー、歴史と神話、サインと匿名、絵画とコンセプチュアルアート。本展覧会はこれらを巧みに取り込みながら、単にモダンアートの展覧会というよりはむしろ、「20世紀の近代美術史と今日の芸術規範の定義へと繋がっていく方法を構築するため」の展示を志向した意欲的な内容でした。

施設として印象的だったのは、「スタッフに気軽に作品について質問して下さいね」と毎回入り口で言われる事(不自然な程言ってくるので「そう言え」というマニュアルがあるのではとも思っていますが、他のパリの施設ではそもそもそんな事を言ってくれることはほとんどない)と、大きいとは言えないこの施設で、作品解説などをしてくれるスタッフさん(だいたいが学生さんと思われる)が各展示室に必ず1人ついている事です。

ちなみに、ブラジーの展覧会の前には「富士山は存在しない」というタイトルの展覧会がありました。何処からでも心象・表象として人々に「見えている」イメージの在り方の例としての富士山という観点は、フランスらしいと言えるかもしれません。

ル・プラトーは2012年で10周年、FRAC自体は今年で30周年だそうです。
この機会に、それぞれの地域の基金がアーティストを一人選び、FRACコレクションの展覧会をディレクションしてもらう大型展覧会が企画され、イル=ド=フランス地方では以前このブログでも紹介したグザヴィエ・ヴェイヤン(Xavier Veilhan)が招聘されました。

色々と他にも書きたい事はあるのですが、フランス便りはいつ終わるのか・・・ご容赦下さい。
(M.O)

2013年4月26日金曜日

祖先と子孫が出会う場所-ブキット・ブラウン墓地の清明節

 こんにちは、元ゼミ生の齋藤@シンガポールです。日本の4月は新生活がスタートする季節ですね。従来のゼミ生の皆さんに加え、続々とアップされる新入生の皆さんの記事を楽しみに拝読しています。遠方からですがどうぞよろしくお願いします。

 さて、4月のシンガポールでは中華系シンガポーリアンが先祖を弔う清明節(Qingming Festival)という行事があり、お墓参りが行われます。以前こちらで”破壊の危機迫る文化資源”としてご紹介したブキット・ブラウン墓地(Bukit Brown Cemetery)も、この季節はお参りをする親族で賑わいます。そこで今回は宗教の実践の場としてこの墓地をご紹介したいと思います。

 本題に入る前に、中華系シンガポーリアンの宗教事情について触れておきます。彼らの宗教観の実態は先祖に加え、孔子、観音、関帝など様々な神や霊媒(童乩)を崇める多神教崇拝だと言われています。2010年の統計によると中華系国民の57.4%が自らを道教或いは仏教とだと認識する一方で、同グループにおけるキリスト教徒の割合は年々増え続け、1980年の10.9%から2010年では20.1%にも上っています。シンガポールでは80年代から既に、華人の伝統的な地縁・血縁組織の弱体化や墓地から納骨堂への変化などが清明節の実践に影響を及ぼすと指摘され、昔は古い祖先のお墓にも参っていたのに今や新しい墓へのお参りもままならないと言われていました(タム・ソンチー『近代化と宗教-複合社会シンガポールの場合』(1989))。また、キリスト教徒の若い華人の間では墓参り離れが生じているとの分析もあります(合田美穂『シンガポール華人の埋葬・葬送儀礼・先祖崇拝についての社会学的考察』(2003))。こうした時代の変化を見る限り、ブキット・ブラウン墓地が長らく埋葬者の子孫に忘れ去られていたこともうなずけます。しかし2011年、道路建設でシンガポールの歴史が詰まった墓地の一部が破壊されると公表されて以来、ボランティアらによる精力的なPRも功を奏し、清明節の儀礼をこの墓地で行う人は増えているようなのです。特に今年の清明節は工事予定地区の墓石撤去の直前とあって、先祖の墓石に手を合わせる最後の機会を逃すまいと多の親族が墓地を訪れたようです。 

一族の眠る敷地。5基の墓石すべてを修復した。
お供え物を並べ、ライオンの像にリボンを巻いていく。
今回見学させていただいたのは、崩れかかっていた先祖の墓石5基を修復したご家族のお墓参りです。彼らがこのお墓参りを実現するまでには長い物語がありました。主人公は専門学校へ通う娘と息子を持つこの家のお母さんです。お母さんは先祖が夢に出たことをきっかけに、90年代末に墓守の協力を得てブキット・ブラウン墓地の草むらに埋もれていたへ曽祖父母の墓石を発見し、彼女の両親の代で途絶えていた清明節のお墓参りを再開しました。2011年にボランティアによる墓石調査と子孫探しが始まると、彼女の高祖父で今やシンガポールの街道にその名を残すパイオニア・Tan Quee Lanの墓石が発見されたことをボランティアのブログが報じます。お母さんはすぐさま発見者に連絡し高祖父とその他親族を合わせた墓石5基の存在を確認しました。中華系のお墓では1基につき一人か夫婦で埋葬されます。古い墓地では一族が近くにまとめて埋葬されるためブキット・ブラウンに並ぶ墓石はまるで家系図のように、一族のつながりを辿ることが出来るのです。

 今回の感動の再会は今は亡き先祖とのそれにとどまりませんでした。お母さんは墓地保存ボランティアから、これまで会ったことのなかった従兄弟が親族を探しているという知らせを受けます。墓石発見を機に、現在はマレーシアに住んでいる従兄弟と初めて顔を合わせたお母さんと親戚一同は、ジャングルの奥で朽ちてしまった古い墓石たちを修復することを決断しました。5基の墓石すべてを造りなおす作業は8ヶ月にも及んだそうです。保存状態の良かった高祖父Tan Quee Lanとその息子の墓石はもとのものを磨いて使っています。一族の再会と修復作業は現地のドキュメンタリー番組でも紹介されました(映像の3:30あたりから家族のエピソードが始まります)。そして、一連の修復作業が終わり、お寺に仮住まいしていた祖先の魂を墓地に呼び戻す儀式が、先日私が見学したそれだったのです。

先祖のための本物のご馳走。缶ビールは偽物。
飾りにバラの花びらも散らされた。
この墓石はオリジナルを磨いて使っている。
この日のお昼前、赤いTシャツに身を包んだお母さんの兄弟とその子どもたち、そしてマレーシアの従兄弟の総勢13人が、お花やお供えの品を手に白く輝く5つの墓石に集合しました。儀式は道教の道士、承孝さんが取り仕切ります。弱冠32歳の承孝さんは5歳のときから家業に携わり、20歳で道士として仕事を始めたそう。一家とはお墓修復のときからのお付き合いで、今日はお弟子さんと二人で儀式を進行しました。

 まずはお母さんらの指示で真新しい墓石にお供え物が並べられます。子どもたちは墓石に色とりどりの紙を撒き、女性たちは本物の食べ物や紙で作った洋服の包みを手際よく備えていきます。従兄弟の男性の創意か、赤と黄色のバラの花びらも色紙と一緒に撒かれ、殺風景だった墓石は一気に華やかになりました。同じ頃、道士の承孝さんとお弟子さんは墓石の隣に新調された土地の守り神の前にお札や線香など、儀式に使う道具を並べていました。今日の儀式はこの土地の神から始まります。約1時間にわたって儀式を見学させていただいたのでそのすべてに触れることは出来ませんが、印象深かった場面をご紹介していきたいと思います。
土地の神に赤い印をつけて命を吹き込む道士
承孝さんと、儀式を見守る一族の方々。

 道具とお供え物が一通り並ぶと、私服の上に土地の神の儀式用の赤い衣を身につけ、帽子をかぶった承孝さんが片手で鐘を鳴らしながらお経をあげはじめました。お経が終わると、赤いインクをつけた筆で土地の神と各墓石の両脇に佇むライオンに印をつけていきます。こうすることで神やライオンに命が吹き込まれるそうです(だるまに目を入れるのに通じるものを感じますね)。筆は複雑な軌道を描きますが、インクが残るのは最後の一点のみ。インクをつける際、承孝さんは短いお経のようなフレーズを唱えるのですが、傍観していた一族の皆さんが最後のパートで"huat ah!(福建語で「幸あれ!」の意)"と叫びます。最初はたどたどしかった掛け声ですが承孝さんが見事に場を盛り上げ、すべての墓石に印をつけ終わる頃には我々撮影隊や墓地ツアー参加者も加わって皆の幸福を祈る"huat ah!"の大合唱となりました。この賑やかで楽しげな雰囲気は日本の墓地ではなかなか見られない光景です。
祖先の魂をお寺から墓石に呼び戻す儀式。
赤い服の男性がお札を供える親族代表。
魂が移動するときは墓石の上に置かれた傘を使う。

 その後、承孝さんは祖先の霊を供養するため、緑の衣に着替えました。墓地の修復中お寺に移されていた先祖の魂を墓地に呼び戻す儀式の始まりです。まず親族の代表者が土地の神にお祈りをして、おみくじを引くときに使う二つの赤い三日月形のポエを投げます。投げて裏表が出たら儀式を続行、それ以外の場合は再度投げるようでした。ポエのOKが出ると、親族代表は承孝さんの誘導で、紙でできた傘をとお札をそれぞれの墓石に備えていきます。魂が移動するときはこの傘が必要だそうで、遺骨を墓地から納骨堂へ移す際も傘が用いられていました。不思議なもので、いよいよ祖先の魂がお墓に帰ってくる頃になると、急に雲行きが怪しくなり強風が吹き始めました。中華系シンガポーリアンの間では、神様や魂が降りてくるときは雨が降ると信じられているようです。

 今回の儀式では親族が参加する場面が多々ありました。皆が作法を心得ているわけではなく、承孝さんのガイドに従って手順を踏んでいきます。こうした参加者と道士のインタラクションについて承孝さんは次のように話していました。「私の行う儀式では、たびたび観客に参加を求めます。観客が好奇心を持って儀式を見守り、そこに彼らが参加できるパートを設けることで、儀式にこめられた意味を知ることができる。儀式への参加は自身のルーツとなる文化を学ぶ機会となります。」まるで芸術のアウトリーチを行うアーティストの言葉のようです。

 清明節のお墓参りの光景は、ブキット・ブラウン墓地が文化的・歴史的な遺産である以前に、祖先と子孫をつなぐ場所であったことを思い起こさせるものでした。承孝さんはここに眠る先人たちのために、今後より多くの供養を行っていきたいと話していました。また墓地ガイドさんの一人は、ブキット・ブラウンは偉大な過去を物語るだけでなく、未来へつながる遺産だと言います。墓地ガイドさんたちは地道な墓石や家系の調査を通じて、これまでに何組もの家族の再会を実現してきました。墓石の発見を通してばらばらになっていた家族が再会し、子どもたちに先祖供養の作法が受け継がれる、そうした営みはこの場所が"博物館行き"にならず、"墓地"としてここに存在しているからこそ可能です。今回も調査チームによる記録映像の撮影が行われましたが、映像を見るのと実際に儀式に立ち会うのでは大きな隔たりがあります。お墓参りの季節が終わるといよいよ墓石の撤去が始まるため、敷地内では同日、作業に備えた大規模な草刈りが行われていました。そんな中、清明節は道路建設の行方のみならず、今後の保存方法の方向性についても考えさせられるものでした。(齋)

2013年4月25日木曜日

4月20日・21日に岡山大学で行われた、考古学研究会大会でポスターセッションを行ってきました。

・<講演-現代社会と考古学->「現代社会と考古学の交錯-科学論の観点から-」小野 昭
・調査報告「自然災害痕跡研究と考古学」斎野裕彦
・研究報告1「遺跡調査と保護の60年-変異と特質-」坂井秀弥
・研究報告2「朝鮮古蹟調査事業と「日本」考古学」吉井秀夫
・研究報告3「時空間情報科学・サービスとしての遺跡調査と情報統合-ドキュメンテーションとローカルナリッジベース-」津村宏臣
・研究報告4「パブリック・アーケオロジーの観点から見た考古学と埋蔵文化財と文化遺産」松田 陽

 この大会で特に関心を持ったのは、以下の点です。
(1)考古学研究会の会員数が減少
 考古学研究会は、1950年代の市民参加によって行われた月の輪古墳の発掘を契機として結成されました。一時は5,000人余りの会員数を誇っていたものの、現在は3,500人程度にまで減少しています。団塊世代が第一線を退いた、この学会以外の分野別学会が立ち上げられ、それが受け皿となった等々、様々な要因が考えられますが、重要なのは、この学会の構成メンバーが、大学の研究者だけでなく、自治体職員や小中高の教員、一般の市民であるという点です。私が思ったのは、こうした多様な階層がひとつの組織に寄り集まることのできる場が失われつつあるのではないか?そして、その先にどのような未来が待っているのか?ということです。市民の参加という側面でこの現象を捉えてみる必要がありそうです。

(2)文化遺産と文化財
 文化資源のOBである松田陽氏が文化遺産と文化財の違いについて指摘されました。私なりに解釈すると、文化遺産は、ちまたの人々が地域のアイデンティティとして捉えているもの、文化財は行政側が行政手続きとして指定するものというものです。多くの人は両者をごっちゃに捉えていますが、実際には、文化を捉える立場によって全く異なるものです。
 面白いのは、文化財保護行政の担当職員の多くは、この両者を分けて捉えていないということです。いや、両者を分けると文化財保護の制度上、都合が悪い。行政が文化財に指定したモノは地域のアイデンティティを象徴するものでなければならない以上、文化遺産と文化財はイコールである必要があるわけです。ここに行政の無謬性が存在しているのではないかと私は考えています。
 一応、文化財保護審議会などの有識者会議の答申を受けて、行政によって文化財指定されるため、行政の独断ではないことになっています。しかし、地域の象徴と市民が捉えているものが、必ずしも文化財指定されないように、指定に関わる少人数の人たちによって、文化財として相応しいものとそうでないものが選り分けられているのが実情です。
文化遺産と文化財を分けて考えることは、文化財保護行政とは何かを問う際にとても面白い試みだと思いました。

(ま)