2013年4月25日木曜日

追善興行

はじめまして。M1として入学しましたMubeです。ブログ…全く慣れていませんが、よろしくおつきあいのほどお願いいたします。最初から陰気な話題でスタートです。
2009年5月2日に「日本の偉大なロックスター(通称ですが)忌野清志郎」が亡くなってからそろそろ4年になります。毎年5月になると各種の追悼イベントが開かれます。ファンだったので、お仲間から必ずこの季節になると声が掛かるのですが、「本人が出ないので行きません」と答えていました。なのですが、今年は友人が出産となってしまいチケットが余るということで、追悼公演に属する「矢野顕子 忌野清志郎を歌う」ツアー2日目、日比谷公会堂公演に行ってきました。
どんなスターが亡くなってもですが、追悼番組放送、追悼公演やイベント、追悼本・追悼DVD販売などが怒涛の如く展開されます。「秘蔵写真」が出てきたり、忌野清志郎の場合もご多分にもれずたくさんのモノやイベントが死後世に出ました。最初は右往左往でなんでも買いまくっていましたが、段々と「死人に口無し」と言いますか、これは本人が望んだかたちだろうか?と疑問が沸いてくるようなものも見られ、そのうち本人発言率、本人関与率の多いものだけにチェックするようになりました。

そして追悼ライブ…というのがまた多かったのですが、一度足を運んでみたところ「玄人カラオケ大会」というか、ほかの歌手やかつてのバンドメンバーが順番に歌うといったイベントに、ぽっかり空いた穴をかえって再確認させられるようで、わびしくなって行かなくなりました。
追悼、追善…といえば歌舞伎などでも追善公演をしていますよね。亡くなった名優の当たり役をゆかりの役者さんが務めていて、故人の遺影とお焼香台が設置されていたり、思い出のパネルがロビーに展示されたり。常に死者とともにいるというか、「亡くなった何代目は…」みたいな視点から現在の役者を眺めている歌舞伎などの観賞法には追善公演はなじみやすいものかもしれません。新しい歌舞伎座でも3階設置の鬼籍に入った歴代の名優の写真パネルが大人気で、誰彼が似てるのなんだの言いつつ眺めていると、ここはたくさんの役者が重層的に同じ名前を繰り返しながら演じている場所なんですよ、ということが視覚的に自然に入ってきてとてもよい展示だなと思います。追善の意味もこのパネルで大いに納得させられます。

戻りまして、歴史も若いロック業界の場合の追悼・追善は…?二代目清志郎を息子が継ぐというわけでもないので襲名の気合もなく、ただ故人の歌を歌うだけで、ロックが形骸化していくというか、追憶と感傷のみに走ってしまうカラオケ大会に堕してしまいがちです。ところが今回の矢野顕子公演は…この私の数年来の追悼イベントへのモヤモヤを晴らしてくれる素晴らしいライブでした。今回の『忌野清志郎を歌うツアー』について矢野顕子は「ファッションとか歌唱法とか、彼のキャッチーな部分の芯にある“曲の素晴らしさ”に向き合いたい」というコメントでしたが、原曲をほとんどとどめないアレンジで大胆に曲に切り込むことで清志郎の曲(のうちの詩)のいちばんコアな部分をあぶり出して、そこで死んでしまった盟友と音楽で語り合っている、そしてその会話は過去の二人の時間から生まれつつも、今、ここで進行しているというありえない時間に圧倒されました。清志郎が「アッコちゃんにはまいったな~」とか言いながら照れてる様子が見えてくるようで、「ああ、これこそ供養、追善…」と、お線香の一本でもあげたくなるような魅惑のアッコちゃんでした。
そして、歌舞伎の追善公演なども同じじゃないといけないんだろうなと思いました。先代を偲ぶという過去へのまなざしを持ちつつも、過去だけにとらわれて型の中で形骸化した「カラオケ」になってしまってはだめで、死んで無口になってしまった故人と深く対話すること、さらには現在そこでライブで生きている自分が演じていることの意味が加わってこないとロックやかぶきにはならないんじゃないかと思いました。そんなことを考える週末でした。雑文にて失礼いたしました。

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