2013年5月30日木曜日

「イノチガケ」の企業人

大学院に入学する前に私立学校に勤務していましたが、先日その学校の院長が急逝しました。5年間、院長室広報担当秘書担当として働いていたので、いわば直属の上司にあたる方でした。学校としてはその方の起用は異色の人事で、広告や文化事業で有名な化粧品会社の社長が前職、その後も数々の政府の要職を務めるなど、教育畑ではないところからの大物の就任でした。

 
その方はいつも「21世紀は、経済中心の時代から文化重視の時代へ」と言っていました。この言葉はよく言われそうなことだし、言ってはみるものの実際はね…と一蹴されてしまいそうな言葉ですが、ご本人はいたって真顔で力説、生活自体が本気で「文化重視」、『イノチガケ』という坂口安吾の殉教小説がありますが、まさ「イノチガケのエンターテインメント」巡礼と言いますか、見るだけで倒れてしまいそうなハードなスケジュールの合間に、オペラ、歌舞伎、ミュージカル、クラッシックコンサート、ジャズライブ、美術展鑑賞などの予定が必ずぎっしりと組み込まれていました。観てきたもののお話をするときも本当に楽しそうで、ほとんどどんなジャンルの舞台人やアーティストとも仲良しなので、彼らの面白いエピソードなどもたくさん教えてもらっていました。

 
そしてその方は「生涯現役」を貫いて、亡くなるまで学校の仕事だけでなく、信じられないくらいたくさんのお役目をこなしていました。のんきにエンターテインメント三昧の隠居役員生活を送るなんてとんでもなくて、分刻みのスケジュールを次々とこなし、「ドドドドド」と擬態音がつきそうな勢いで常に動き回り、大いに働き、人生を駆け抜けていきました。


 「経済」と「文化」。しばしば「文化」は「経済」的に儲からないとか、「経済」は現実的で大事だけど「文化」なんて無くてもいいものとか、対立項として語られがちですが、その方の中では「経済と文化」は分かちがたく一体をなしていて、会社経営等においても真剣にその両方を探究していたのだと思います。歴代の社長に自身も秘書として仕えてきた豊富な経験、政財界の要人から世界的な文化人まで広がる人脈、篤いキリスト教の信仰、ふるさと四国への郷土愛などが基底にあって、非常に強靭な実行力で「経済とともに文化の経営」をいつも考えていた姿は、「文化」ばかりを考えがちの青臭い私のような人間にとってはかなりのインパクトがありました。「経済」と「文化」が融合するなんてことがあったのでした。今ここで「文化経営」なんていうことを学んでいるのも、あの驚きが元にあるのでしょう。

 
なんというかくだくだしく、個人的なエピソードを書き連ねましたが、「イノチガケ」で文化に生き、経済に生きた企業人もいたのですよ、ということをお伝えしたいのでした。「文化経営」を考える上で、あのいろんな意味でのタフネスは重要だと思っています。真に強くて、強烈で、エレガントな方でした。                                                                                                                                              
                                                                                                                                             (Mube)

2013年5月28日火曜日

My Queenstown Symposium-再開発と遺産保護の狭間でコミュニティの記憶をつなぐ市民たち

シンポジウムの質疑応答の様子。
シンガポール南部Queenstownのコミュニティセンターで開催された"My Queenstown Symposium"に行ってきました。このシンポジウムはコミュニティ誕生60周年事業の一環で、地域の歴史遺産(Heritage)と社会の記憶(Social Memory)をテーマにシンガポール国立大学の社会学者やライター、人気ブロガー、作家などが発表を行いました。日曜の午後とあってか、地域住民や学生など150人近くの聴衆が会場に足を運んでいました。

 シンガポール各地に点在するコミュニティセンターの主導で"地域の生誕何周年事業"と題して郷土史を振り返ったり、記念冊子が発行されることは珍しくありません。Queenstownの60周年事業はそれらと何が違うのでしょうか。いまQueenstownが注目を集めているのは、この活動が地域住民と若い世代のシンガポーリアンによる草の根運動として広がったためです。事の発端はこの地区を訪れた二人の大学生Kwek Li Yong氏とJasper Tan氏と、古くからの住民との出会いでした。
注目を集めるQueenstown。
シンポジウム当日の朝刊には特集が組まれている。

 奉仕活動の一環でQueenstownに住むお年寄りを訪ねたKwek氏は、彼らがよく話す内容が他地域のお年寄りとは違うことに気づきます。ここのお年寄りたちは自分の家族や孫の話だけでなく、自分たちが住んでいる団地の歴史について、誇りを持って語るというのです。2009年、二人はお年寄りたちの語る地域の歴史や隠れた遺産を紹介するブログMy Queenstownを開始(現在は休止中)、Facebook(2010年2月)、Twitter(2010年4月)、YouTube(2010年5月)とメディアを広げ、My Communityという団体として活動し始めます。2011年3月からはQueenstown Consultative Committee*の協力を得て地域に無料配布される季刊誌My Queenstown Magazineを発行、今年2月にはiphone用アプリ**My Queenstownを開発するまでに至りました。
シンポジウム後探索した初期の公営住宅からは
夕食(焼き魚)の匂いが。

 このアプリは主にQueenstownのHeritage Trail(歴史街道)を紹介するもので、これまでのインタビューや住民から提供された古い写真などがふんだんに盛り込まれています。実は2008年にQueenstownは政府組織National Heritage Board(NHB)によってCommunity Trailとして取り上げられました。そこには最初期の公営団地として計画されたQueenstownの歴史が、住宅や劇場、ショッピングセンター、そして幾つかの宗教施設とともに紹介されています。しかし政府のTrailには地域住民が愛着を持っていた住宅や自動車教習所といった場所やエピソードが欠けており、今日では再開発のため姿を消した場所も幾つか含まれていました。そこでMy Communityのメンバーが中心となって住民の声を反映した新しいTrailを考案し、アプリとパンフレットの形式で配布。毎月最終日曜日には実際に歴史遺産を歩いて回るツアーも開催されるようになりました。

 My Communityが主催した今回のシンポジウムでは、こうした背景から歴史遺産と社会的記憶、そして開発と保護のバランスがテーマとなったのです。シンポジウムでは一人15分という非常に限られた時間でしたが延べ8人の多彩な登壇者がQueenstownについての見解を述べました。都市社会学が専門のHo Kong Chong氏は、ランドマークとなる建物のような有形遺産と、そうした風景の中で何をしたかという想い出のような無形遺産の二つがあることを指摘。何気ない景色や建物に個々人の想い出や特定の時代の生き方が反映されている場合もあるため、遺産のマネジメントに当たっては何を"価値ある遺産"か判断する際に市民参加のプロセスが欠かせないと述べました。
地域のシンボルだったボウリングセンターは
解体を待つばかり。周囲にあった集合住宅も
解体され、一帯はインド系青年たちが
クリケットを楽しむ空き地となっていた。

 同じく社会学者のDaniel Goh氏は、80人の学生たちと行ったQueenstownの再開発に関するインタビュー調査の結果を紹介。そこでは学生たちがキーワードと仮定した、特定の場所をコミュニティの想い出として保存修復していくべきというHeritageの概念は英語教育を受けたミドルクラスの言説であり、Queenstownの旧住人たちには理解に苦しむ概念であることが明らかになったと言います。中国語、マレー語などで教育を受けた高齢の労働者階級の旧住民たちが大切にしているのは団地で家族と暮らした想い出(Memory)だそうです。彼らは、再開発によって自分たちの想い出の場所が消えてしまうのことへの悲しみや、対話の機会を設けず一方的に開発を進める政府の姿勢に怒りを感じつつも、若い世代のための犠牲になるのだから古いものの消滅は仕方が無いことだと理解しているということでした。

 ライターのYu-Mei Balasingamchow氏は、コミュニティの遺産や想い出を集める作業は壮大な計画ではなく自分の身の回りの個人的な思い入れからスタートできるとして、若いシンガポーリアンが取り組んだプロジェクトの事例を紹介しました。その一つ、Justin Zhuang氏のMosaic Memoriesプロジェクトは古い公営団地にあるモザイクタイルの遊具に着目したもの。デザイン性の評価と住民の語るエピソードはこれまで歴史遺産とみなされていなかった遊具に新たな価値付けをするものでした。(デザイナー、写真家とコラボレーションしてまとめた冊子は国立図書館の支援で電子書籍として出版 
コミュニティ・センターに展示されている地域の
歴史を紹介するパネル。政府の冊子では言及
されていない1950年代の暴動なども解説。

 都市再開発庁(Urban Redevelopment Authority/URA)で建物保存の指揮を執るKelvin Ang氏は、Queenstownの住人が心配している建物のうち幾つかは既にURAが保護を決めているが、そのことを知っているかと聴衆に質問。わずか数人しか挙手しなかった状況を見てこれらの活動が周知されていないことは問題だと自戒していました。また近年の政府の方針は10年前とは異なるとし、人々がHomeと感じるような地域の遺産はリノベーションするなどして活用していく方針であることを語りました。しかし国土の狭いシンガポールではより効率的な形態に変えていかないと暮らしが成り立ちません。会場からの質問は「あれもこれも残したい!」というものが多い中で、ホーカーセンター(屋台の集合した場所)や図書館などは時代のニーズに合わせて変化していくべきだというLai Chee Kien氏(建築史家)の意見は的を射たものでした。

 Queenstownの活動からはシンガポールの二つの潮流が感じられました。一つは複数の政府機関が(NHBやURA)が協働でコミュニティ単位の共同体意識を生み出す装置としてHeritage Trail(及びそのツアーガイド)やTown Museumを整備しようとしていること。もう一つは、自ら地域に足を運び、消え行く風景の写真や映像を撮ったり古くからの住民の声を拾って、新たなHeritageの価値付けを行う市民が生まれてきているということです。後者の事例としては、政府のキャンペーンとは関係の無いところで活発に情報収集・発信をするブログなどが目に付きます。今回の登壇者Lam Chun See氏もそうしたブロガーの一人ですし、同じく登壇者のTan Kok Yang氏のように自分が暮らした1960-70年代の回想録をまとめて出版する人も出てきています。これまで紹介してきた墓地や登り窯の保存、ドキュメンタリー映画などの活動も草の根レベルの活動が場所やものに新しい価値を付与している例だと言えます。
Town Museumとしてリノベーションする計画
があるという元市場の建物。

 前者のモデルは戦前の公営団地が残るTiong Bahru地区でも実施されており、今年4月からコミュニティ・センターを中心とした地域史の紹介と市民ガイドによるツアーが始まりました。来賓としてシンポジウムに参加した文化コミュニティ青年省(Ministry of Culture, Community and Youth)上級政務官のSam Tan氏は自身のQueenstownでの想い出を語りつつ、各省庁間で連携して地域の遺産保護に努めていきたいと話し、その言葉は真っ先に地元ニュースに取り上げられていました(Tan氏はQueenstown等を含む地域共同体開発委員会の区長でもある)時代は政府が国民に対し一方的に歴史観や遺産の価値を普及させていく段階から、国民の自発的な活動をサポートするような段階へ変化しつつあるのかもしれません。URAのAng氏がシンポジウムで言及した、地域のアイデンティティを体現するTown Museum***は、果たして今後人々がふるさとへの想いを表現し共有する場となっていくのでしょうか。(齋)


*Citizen Consultative Committee(市民諮問委員会)は民族の融和と社会的結合の促進を目指し、地域住民と政府との連帯を強化する政府組織People's Associationの活動を支えるための委員会。各民族コミュニティー、経済、社会分野におけるリーダーから成り、選挙区内の諸活動の調整、募金活動、国家行事の調整などを行っている。ちなみに人民協会はもともと与党PAPが地域活動のために設立した組織と言われている。
**スマートフォンが普及しているシンガポールではNHBなども積極的にアプリをリリースし、国民に歴史遺産に親しんでもらおうとしている。
***Town Museumのモデル事業はTaman Jurong地区でOur Museumとして今年1月から始まっている。運営はNHBとPeoples Association、Taman Jurongコミュニティが協働で行う。Queenstownの旧市場の建物(右上の写真)もTown Museumとしてリノベーション予定。

2013年5月27日月曜日

インターゼミ感想+α

大変遅くなってしまいました、インターゼミの感想を以下に。
私は文化資源学の学生ではありませんから、М2といえど今回発表しませんでした。
ですが、皆さんの発表およびフロアからのコメントにハッとすることが多かったです。

「研究はエッセイとは違う。クリティカルでなくてはならない」
「あなたの論にはどこにオリジナリティーがありますか?」
「修論執筆までの日程調整をきちんとしなくてはならない」など

…さて、私自身は今年修論を書くに当たりこれらのことをできているのか?
つい先日研究にまつわる書類を書いていたのですが、日本では比較的知られていない作家や
分野(私の場合、20世紀ポーランド演劇)をいかに読み手に分かりやすく説明するかに四苦八苦しました。 自分だけ分かっていても意味がないのですね。
聴衆席から色々教えられました(発表席から学ぶことの方が多いのでしょうが…)。
八月の合宿では私も発表を行います。今回のゼミはぜひ活かしたい、いや活かさないと。


話題を変えます。
今朝、朝劇なるものに初参加してきました。丸の内のカフェで七時から芝居(軽食付き)、というなかなかびっくりな企画です。
先週とあるラジオ番組を聞いていたら、「朝活の新形態としての朝劇」なるものが紹介されていたので早速行った次第。関西でもカフェで演劇を行うのが流行っているらしく、清澄白河のとあるイベントスペースは居酒屋として使うことも可能と聞きましたから、劇場以外の場所で芝居を見ることはそんなに珍しくなくなってきているのかもしれません。でも、朝に行うというのは前代未聞。

この企画は六月も続行が決定していますから、内容に詳しくは触れません。ただ、朝から元気が出る45分間ではありました。
去年の合宿で能登演劇堂に行った際、私は「劇場以外で演劇を行うのはどうか?」というような発言をした覚えがあります。 その時は上手く説明できなかったのですが、「演劇を日常的に楽しむにはどうすればいいのか?」というようなことを言いたかったんだと今回のカフェ芝居で感じました。
日本では演劇が日常の一部をなしているとはまだまだ認知されていない状況です。演劇という行為、劇場という空間が基本的に非日常に属しているというのも大きな理由でしょう。
ならばいっそ、演劇を日常に思い切り関連付けてみてはどうか?
カフェは劇場よりも日常的な空間であり、朝は夜よりも日常的な時間である気がします。

いくら丸の内とはいえ観客は私のように普段から芝居小屋に通っていそうな人が多く、スーツ姿の人は一人もいませんでした。
今回の試みはまだ始まったばかりですが(私が見たのは七公演目)、観劇中の雰囲気から察するになかなかいいスタートではないかと思います。
演劇を劇場以外の場所で見るということ。(小林ゼミに入っていながらこんなこと言うのもどうかと思いますが)丸の内や大阪に限らず、より多くの地域で実施されてほしいです。

ちなみに六月は3日(月)、4日(火)、10日(月)、11日(火)、17日(月)、18日(火)、24日(月)、25日(火)の、計8日間。

(N.N.)



2013年5月26日日曜日

インターゼミの感想の代わりに。

インターゼミのお話、興味深く読んでいます。
私は他のイベントとバッティングしてしまい、残念ながら参加できなかったのですが、
来年参加すると思うので、みなさんのお話だけが私の頼りなのです。

というのも、私はその日、一度はお話を伺ってみたかったある方のオープンレクチャーに参加していました。
東京都美術館と東京藝術大学の連携事業「とびらプロジェクト」の一環として2週にわたって開講されたレクチャーで、「アート・コミュニティの形成—廃材/ものづくり/コミュニティ」がテーマとして取り上げられました。
1回目の5月12日ももちろん楽しく参加しましたが、私がもっとも楽しみにしていたのは2回目の5月19日の回でした。
レクチャラーは、株式会社studio-Lの代表の山崎亮さんです。
「地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる」とご自身のHPなどでおっしゃている通り、様々な事例をレクチャーではお話しくださいました。(山崎さんは、これを「事例紹介」などと言わず「話題提供」とおっしゃっていました)
お話しくださった6つのプロジェクトすべてがとても魅力的で面白いものでしたが、ここでは伝えられそうにないですし、studio-LのHPをどうぞご覧になってください。

ここで書きたいのは私が感じたことです。
現在すでにあるモノの再利用(リユース)によってコミュニティデザインを行うことを「遠回りしない幸福論」とおっしゃっていたことが強く記憶に残っています。
その場にあるモノを通じて何かしらのきっかけを生むことで、人と人・モノがつながり、新たなコミュニティが誕生したり、既存のコミュニティがパワーアップしていくことで、住む人たち自身の手によってまちが元気になり、人はよりしあわせになるということだと、私は解釈しています。
しかしそうやって人がしあわせになるためには、時間が必要です。
山崎さんもこの活動を初めて10年も経っていないため、何が成功かはわからないとおっしゃっていました。
少なくとも、何らかの仕組みを作り、それをまちに根付かせることまでがコミュニティ・デザインの仕事であるとのことです。

私も、これから地域の活性化/再活性化に携わっていきたいと考えています。
そのとき山崎さんのお話はとても参考になるように思います。
当然のことながら、ある事例がそのまま転用できる訳ではありません。
地域のことを知り、住んでいる人たちの視点、外からの視点を両方持ちながら、
地域のことを考えられるようになりたいです。

インターゼミに参加できなかったことは残念でしたが、
とっても貴重なお話を聞くことができました。
何らかの形で活かしていくことができたらと思います。

【参考】
とびらプロジェクトHP:http://tobira-project.info/
studio-L HP:http://www.studio-l.org/

遅ればせながら…インターゼミの感想

インターゼミ前の小林ゼミでの発表、「文化資源学の原点」での発表、そしてインターゼミでの発表と、数回にわたる発表の機会を通して深化していく発表者の方々の変化がとても興味深かったです。真剣な質問が投げかけられることによって論文が磨きあがっていく過程はM1年生にとりまして大いに参考になりました。

論文を書く、文化資源学の論文を書く、ということについてずっと考えています。中村先生の「文書とその社会的役割」を受講しているのですが、プロポーザルは論文でやることなのか? 当事者だから当然のように感じているものをいかに冷静に論文上で取り扱っていくのか?それは文化資源学でしかできない研究か?修論のスケールとは?等々、さまざまな角度から研究テーマが洗い出されていきます。当然、自分のあやふやなところと対峙することになるわけで、M1同士で話し合うこともしばしばです。

今回のインターゼミでも内容もさることながら、たくさんの論文のかたちに出会って、上記ポイントがクリアされた論文の組み立てはやはり説得力があってかたちとして「かっこいいなあ」と思いました。土台づくりをしっかりさせてから、いよいよ書くというさらなる難事業が待っているわけですが、数々の質問に強靭に回答していた発表者を見て、研究中どんな方向転換を迫られても組み立て方がしっかりしているこの人はやっていけるのだろうなと、思いました。そこに至るまでの研鑽を思うと気が遠くなるのですが…。

今回のインターゼミ参加は、授業などの課題でアワアワしている日々の中で貴重な時間でした。参加の機会を与えてくださった小林先生、ありがとうございました。発表、質問においてたくさんの示唆を与えたくださった先輩たちも、ありがとうございました。                         (Mube

 

2013年5月25日土曜日

からくり時計のひみつ

 先日、内定先の研修旅行で愛媛県松山市の道後温泉へ行ってきました。道後温泉は夏目漱石の作品『坊ちゃん』の舞台となった場所で、日本三古湯の一といわれています。

 道後温泉もぼっちゃん団子も堪能したのですが、その中で特に印象に残ったのが道後温泉駅前の放生園にある坊ちゃんからくり時計です。平成61994)年、道後温泉本館百周年を記念して作られたこのからくり時計は、一時間ごとに坊っちゃんやマドンナなど『坊っちゃん』の登場人物が踊りだす仕掛けになっています。
 私たちは午後6時に見に行ったのですが、それまでからくり時計の近くにある足湯に入っていた人も時間が近づくとわらわらと時計のもとに集まってきていました。音楽や細部にまで凝った人形のデザインや豊かな表情とポーズを見て、見物人もみな笑いだし、(写真にうつっている男の子も大興奮でした!)からくりが終了するとおぉー!というどよめきと共にみんな一斉に拍手。暫くすると見物人はほとんどいなくなり、先ほどまでの盛り上がりが嘘のように静けさが戻ってきていて、不思議な気持ちになりました。
 
 そもそも、日本のからくり時計はどのように発展してきたのでしょうか。
 日本での初出は、鉄砲伝来後の17世紀前後といわれていますが、ぜんまいを使う時計のしかけは、最初は時計そのものとしてよりもむしろ、からくり人形芝居や祭礼の山車として見世物興行に用いられていました。そして、田中重久という人物(芝浦製作所、後の東芝の重電部門の創業者です)が、1851年に季節により文字盤の間隔が全自動で動くなどの世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させ、またからくり人形の最高傑作と言われる「弓射り童子」と「文字書き人形」を完成させました。その後、明治から昭和にかけて多くの時計メーカーが勃興し、様々なからくり時計が誕生しました。そして横浜伊勢佐木町モール(1954年)、神戸市民広場の時計塔(1957年)、有楽町センタービルの「マリオンクロック」(1984年)、横浜そごうの世界人形時計(1985年)の設置など、からくり時計は全国各地の店頭を飾るようになります。さらに福岡天神地下街・ドリームファンタジー、大阪・京阪モールクロックや仙台のからくり日本昔話など全国各都市の商空間に広がっていきました。こうして、からくり時計はデパートや商業施設の建設と同様に爆発的な人気を博し、全国的にそのブームを巻き起こしたのです。平成に入ると平成2年に北海道・登別第一滝本館にからくり時計「大金棒」が設置され、翌3年には秋田・天王町の伝承館に祭りのからくり劇場がオープンしています。 このように主にデパートや駅前広場などに設置されていたからくり時計は、観光を目的とする集客装置という役割も担うようになったのです。

 道後温泉の坊ちゃんからくり時計と男の子を見ながら、小さい頃地元の駅やデパートにあるからくり時計をわくわくしながら見上げていた時のことを思いだしました。その時計自体に興味があったというよりは、ある時間になると、その時計のもとに色んな人が集まってきてはまた散っていく、そんな時間の流れや人々の動きが気になったのだと思います。現在、そのからくり時計は老朽化のため取り外されてしまい、あの場所で立ち止まって時間を気にすることもなくなりました。一大ブームを起こしたからくり時計も、時代の流れとともになくなりつつあります。町を行く人がふと足を止めて時間の流れを共有し、またそれぞれ来た方向に散っていく。時刻を告げるだけではなく、人と人とを繋ぐ空間を刻むこともからくり時計が担ってきた役割なのではないでしょうか。
 
みなさんの近所にも、素敵なからくり時計はありますか?

(M.H)

2013年5月22日水曜日

大道芸のある生活

毎週水曜日は授業が無いので国立西洋美術館のインターンシップに行っております、
pugrinです。

そのあとの時間で課題やらをしたい場合、
本郷までえっちらおっちら歩いてやってくるのですが
その途中で今日は素敵な音楽が聞こえてきました。

それは尺八のような音色でのラヴェルの「ボレロ」。

メロディだけでなくちゃんとあの特徴的なリズムも、
シャン、シャシャシャシャン、と鳴っています。



しかし音のほうへ近づいてみると、それは数人ではなく、
たった一人で体中に楽器を括り付けて演奏しているのです!

なんだか甘いような、少しさびれたような響きのする複数の楽器を駆使して
全身で演奏する姿が印象的でした。

わたしは道すがら、あまり聞き惚れていられなかったのが残念でしたが、
次の曲「あのすばらしい愛をもう一度」を後ろのほうで聞きながら、
ちらりと彼のこんな看板を目にしました。
「ヘブンアーティスト」

なんだろう?と気になり、少し調べて今このブログを書いている次第です。


東京都生活文化局文化振興部によれば、

「ヘブンアーティスト事業」は
東京都が実施する審査会に合格した
アーティストに公共施設や民間施設などを
活動場所として開放し、都民が気軽に
芸術文化に触れる機会を提供していくことを
目的としています

http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/heavenartist/
(東京都生活文化局文化振興部HPより抜粋)

ということで、審査会に合格した大道芸人さんは
上野公園をはじめ、代々木公園や東京国際フォーラム等の
指定場所で、大道芸の実演を許可される
ライセンスを取得ことができるというものだそうです。

2002年当時の石原都知事の発案によるものですが、
そうか、わたしは都に認可された大道芸に偶然出くわしたのだ、
ラッキーだなあ
というありがたみのようなものが突然湧いてきました。

ちなみに先ほどのおじさんは
アンデス民族楽器の演奏者だそうで、
HiRoさんという方だということがわかりました。

HPなどはないようなので、
この動画を見ていただければどんな方か分って頂けると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=MNCw6OjHmeM

あの音は、尺八じゃなくてアンデスの楽器だったのです。

ちなみに、オタク業界では「ヘブン」というと
恍惚として非常に気持ちがよくなっている状態を指します。

なので最初は、この人の演奏を聴くと心地よいから?
などと想像して歩いていました。

当たり前ですがぜんぜんちがった。



来週も上野公園を歩いたら、またあの音に出会えるかなあ。

では。

「美術史」との距離


 僕にとってのインターゼミの場は、自分が今やっていることと「美術史」なるものとの距離感を測る場であったように感じています。
 発表者全員の発表題目一覧を瞥見した時に明らかにひとつだけ浮き立っていた僕の研究タイトルを、僕以外のインターゼミ参加者が見たら何の分野だと言うだろうかと考えると、おそらく多くの方は「美術史」だと考えると思うんです。僕の研究は文化政策と呼ばれる領域とはやはり異なるものでありますし、だからといって無理に文化政策の方に近づけようという気持ちもありませんが、この場での発表における異質感をどうしてもぬぐい去ることができないまま当日を迎えました。
 インターゼミでの発表の際は、この異質感をなんとかすり合わせようと発表冒頭で急遽コメントを付け足したのですが、そのコメントの核はやはり「美術史」という言葉なんです。僕はこれまで美術史研究室に所属したことはありません。美術史の方法論とか、具体的な授業内容も知らずにここまで来ました。その上で美術史的研究をやることの意味と立ち位置は常に探し歩いているわけですが、自分と全然違う分野で研究をされている方々に僕の研究を簡単に説明するなら、やっぱり「美術史」なんですよね。「私の研究は美術史です」と僕がマイクを通して発言するに至るには、あるいはそれを決心するに至るには、様々な葛藤や逡巡をひとつひとつ解決していかなければなりませんでした。
 先週の原点での発表の際N先生に「美術史として」の研究だとご指摘いただいた時が、はじめて対外的に自分が美術史をやっていると認められたことを自覚した瞬間であったと思います。
 うれしかった。
 うれしかった反面、自分が美術史に所属していないことの意味やそれにより日々感じている対外的な出来事を思わずにはいられませんでした。
 昨日のK先生のゼミ懇親会の際Mくんに「学芸員になりたい人」という紹介をされましたが、正直な所を言うと純粋に「なりたい」とかそんな単純なものじゃないんですよね。もともと学芸員という制度に大いなる疑問を持って文化資源学研究室の扉をノックした僕ですから、単純に憧れているということはありませんし、いろいろなことを見聞し経験した上で自分が今置かれている状況ややりたいこと等を総合的に判断した結果が学芸員という「選択」だという言い方が近いと思うんです。
 現在いろいろと将来に向けての活動もしてはいますが、外国語学部卒で文化資源学を専攻している僕が「美術史」の壁にぶつかることをここ最近は日々実感しています。なぜそんなに「美術史」という名前にこだわるのでしょうか。美術史というディシプリンが学芸員という職能に必要不可欠な地盤なのでしょうか。僕自身一時期は表象文化論を目指したこともあり、美術史、表象文化、文化資源、それから美学、比較文化、総合文化、表象・メディアなどといった新旧織り交ぜて様々なディシプリンが創出されている現代において、美術史というそれに拘泥する世界にはやはり疑問があります。美術史を経験した上でその方法論やあり方に疑問を抱き美術史を離れるという選択をした方々と交流しお話を聞くと、現代における美術史的学問体系の位置づけが揺らぎ始めているようにも感じます。僕なぞは、表象文化論をバックボーンに持つ学芸員やアートディレクターが日本に増えればもっとおもしろいのになと考えたりもしています。

 あるいは、美術史に拘泥しコンプレックスを抱いているのはやはりむしろ僕の方なのでしょうか。

 インターゼミでの発表を受けて。

  (志)

2013年5月21日火曜日

5月19日(日)のインターゼミの雑感

おはようございます。Showです。
5月19日(日)は東京藝術大学で行われたインターゼミに参加させていただきました。
詳細についてはすでにゼミ生のみなさんが記事を書いていますのでそちらに譲るとして、

インターゼミに参加した私の雑感としまして、大きく3つの収穫がありました。

(1)文化政策に関する研究とアプローチを勉強する絶好の機会であったこと
私は、他研究科他専攻に所属し、他のゼミ生の皆さんとは異なるバックグラウンドを持っています。
文化政策に興味はずっとありましたが、学び始めたのは最近の事です。
修士論文は私の専攻と文化政策・文化経営の両方に関連させるように書きたいと思っていますが、
文化政策的な研究はどういう風に成されていてどういうアプローチがあるのか知る良い機会となりました。

(2)文化政策・文化経営の研究における私の役割の確認
私はまだまだ文化政策・文化経営について不案内です。しかし、今回のインターゼミに参加して、私のこれまでの経験を役立てることが出来るもあるということに気付きました。
それぞれの興味や強みが少しずつ異なるからこそ、お互いが補い合いウイン-ウインの関係でより良いものを仕上げる事が出来ればと思いました。

(3)興味・関心の似通った人とのつながりの場
研究発表後の懇親会に恐る恐る参加したのですが、とても有意義な時間を過ごすことができました。
研究発表を聞いて疑問に思ったことを質問するだけでなく、私自身の問題意識を共有する事によって修士論文に関するアドバイスを頂けたり、
私が独自に関わっている文化財にプロジェクトに興味をもって手伝ってくださるという方もいたり、他大学の友達ができたり、
普段話をしない小林ゼミの方とお話したりする事が出来て、非常に有意義な時間を過ごすことができました。

インターゼミに参加してよかったと思います。
他研究科他専攻の私にも様々な機会を与えてくださる小林先生に感謝しています。

Show

庄内と映画、庄内の映画、庄内で映画


 いま庄内を訪れるのであれば庄内映画村に行かずに帰ると「鶴岡まで行って何をしに行ったのか」と問い詰められるであろうほど現在の庄内地方において庄内映画村の存在は大きいと思います。
 映画村という言葉のイメージからなんとなくテーマパークのような想像をされている方も多いのではないかと思いますが、庄内映画村はテーマパークとは大きく異なるものです。私は太秦にも日光江戸村にも行ったことがないので単純に比較することはできませんが、本質的には巨大な野外のセットであります。月山山麓の広大な敷地を切り開き、実際に「村」と呼べるほどの規模の町並みを再現したもので、これまでに数々の映画作品が撮影されてきました。
 スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ(2007年9月15日公開)
 山桜(2008年5月31日公開)
 おくりびと(2008年9月13日公開)
 ICHI(2008年10月25日公開)
 山形スクリーム(2009年8月1日公開)
 スノープリンス 禁じられた恋のメロディ(2009年12月12日公開)
 座頭市 THE LAST(2010年5月29日公開)
 必死剣 鳥刺し(2010年7月10日公開)
 十三人の刺客(2010年9月25日公開)
 デンデラ(2011年6月25日公開)
 赦免花(2013年3月16日公開) 
   (wikipedia【庄内映画村】の項より)
 あの映画で見たあの場所この場所、実はこの庄内映画村で撮影されたものが少なくないのです。
 そしてこの“巨大野外セット”を一般に開放し公開しているため、現在鶴岡市における一大観光スポットとして話題になっているというわけです。

 庄内映画村がオープンしたのは実はわずか数年前のことですが、実は鶴岡は以前から映画と深い関わりがある街でした。鶴岡市出身の作家藤沢周平の作品を映画化することが2000年以降多くなり、
 たそがれ清兵衛(2002年 配給:松竹 監督:山田洋次 出演:真田広之、宮沢りえ)
 隠し剣 鬼の爪(2004年 配給:松竹 監督:山田洋次 出演:永瀬正敏、松たか子)
 蝉しぐれ(2005年 配給:東宝 監督:黒土三男 出演:市川染五郎、木村佳乃)
 武士の一分(2006年 配給:松竹 監督:山田洋次 主演:木村拓哉、檀れい)
   (wikipedia【藤沢周平】の項より)
 などなど、鶴岡をモデルにした「海坂藩」が舞台の大ヒット作品が続々と世に放たれています。2010年には鶴ケ岡城の跡地である鶴岡公園内に藤沢周平記念館もオープンしました。

 まさかアカデミー賞で外国語映画賞を受賞しこれほどの大ヒットを記録することになるとは予想されていなかったであろう『おくりびと』(2008、監督 滝田洋二郎、脚本 小山薫堂、出演 本木雅弘、広末涼子 他)の影響により、撮影場所となった鶴岡・酒田両市には全国から非常に多くの観光客が訪れています。一種のコンテンツツーリズムですよね。
 ちなみに私は『おくりびと』を鶴岡に2010年にオープンした「まちキネ」で見ました。 まちキネは「鶴岡まちなかキネマ」の愛称であり、昭和初期に建てられた工場をリノベーションして映画館として新たに生まれ変わった鶴岡で注目されているスポットです。古くからあった小さな映画館が街から姿を消して行き、鶴岡に映画館が失われようとしていたその矢先に登場した話題の施設であり、世界的建築賞「リーフ賞(LEAF AWARDS 2010)」の商業建築部門に入選、平成23年度第21回「BELCA賞」ベストリフォーム部門を受賞するなど建築としても注目されているようですね。文化庁の近藤誠一長官も来訪されているようです。ちなみにまちキネの設計は藤沢周平記念館と同じく東大工学部出身の高谷時彦さんという建築家の方です。文京区千石にオフィスを持っていらっしゃるようですね。

 このようにですね、ここ10年ほどの間に庄内という地域において映画産業が著しく盛り上がっているんですよね。しかも全国、世界というかなりの規模で。歴史のある古い城下町であり、少子高齢化に悩まされる典型的な地方都市のひとつではあるのですが、いやいや文化資源は豊富にあるぞという潜在能力を近年富に活かしまくっている、ひとつの「成功した」地域でもあると思います。「文化政策の諸問題」というゼミ名を冠する私たちのゼミ合宿地として、文化政策の現場を見聞するという意味では庄内地方は最適な場所とタイミングであると思いますよ。

(志)

韓国における町づくり-公共美術を中心に

今年の合宿先がどこになるのかは明日になれば決まるものですが、今回のことをきっかけに韓国の文化政策などについて色々とご紹介しようと思った次第です。

まず、その一回目として最近韓国で話題の一つである、公共美術プロジェックト、その中でも「壁画事業」を中心とする疎外地域の環境改善の事業をご紹介いたします。

 「町美術プロジェックト」:全国規模のプロジェックト。始まりは2009年から。


 
→代表的事例
1)
ナクサン・イハ村(文化体育観光部主催):ソウルの最後の疎外地と評価されていたイハ村。昨年9月から芸術家が移住してきて、芸術人村へと変貌している。彼らの公房や壁画、作品などにより、注目された。
ソウルの宝石」言われている


 
2) ホンゼドン・ゲミ村(企業主催):この村もソウルの中で遅れている村。2009年「グモ建設」という企業が「光、画いた交わる村」という壁画村プログラムを実施。これは遅れた地域を美しい壁画町に変えるボランティア活動である。5つの大学の美術専攻の学生128名が参加した。今は観光名所として注目を浴びている。


 
3) チョンジュ・スアンゴル(芸術団体主催):2007年から壁画が見え始める。1970年代の村のイメージを持っていたスアンゴルは韓国のドラマ撮影地としてよく使われていた村である。この村の空き家を展示室やレジデンスの形で利用し、壁画作業などは続いている。


 
4) トンヨン・ドンピラン村(市民団体主催): 日本植民地時代、日本の下層民が住むことにより作られた村。この村は撤去されるはずだったが、この何年かの間トンヨンの新しい名所になっている。それは2006年「青いトンヨン21」という市民団体が「疎外地でも手入れをすれば美しくなる」と公募展を開くことにより、新しく生まれ変わった。現在50余世帯が住んでいる村に、週末になれば200~300人の観光客が集まる。


 
これ以外にも言わば疎外地と言われている地域を、こういった公共美術プロジェックトを通じて、地域を活性化させていく過程にあります。

これらのプロジェックトに対し様々な評価が少しずつ出ている感じですが、本人が大事に思っていることは、疎外地をめぐった経済的な活性化とかよりは、疎外地に住んでいる人々に元気づけをしたことだと思います。誰もから疎外されたところに、韓国全国から(大きくは海外旅行者からも)注目を浴び、そこに住んでいる人々は自分の町を誇りに思うと思います。まるで死んでいく生命に新たな生命を付与したともいえますね。

 
この政策とはまた異なる、ソウルだけで行っている公共美術プロジェックトもあったので、最後につけます。

「ソウル市都市ギャラリー」:都市自体が作品になる創意都市、文化都市を夢見るソウル市の公共芸術政策のプロジェックト。始まりは2007年から。創意的な公共芸術作品を公共の場所に設置してソウルらしい味と徐事を作ることで、市民たちに文学的な享有と自慢を持たせ、国内外の観光客にソウルらしい体験を与えることがこのプロジェクトの主要目標である。



bangulより

2013年5月20日月曜日

S.エセルの訃報から「世界人権宣言」を読む


 今年2月27日、ステファン・エセルが95歳で亡くなりました。1917年ベルリンにユダヤ系ドイツ人として生まれたエセルは、7歳で両親とともにフランスに移住し、第二次世界大戦中は対ナチス・レジスタンスに参加。戦後は外交官として活動し、晩年も最期まで一個人として移民問題やパレスチナ問題などに取り組みました。2010年に32ページの小冊子<Indignez-vous>がベストセラーとなり、34言語に翻訳されたことでとくに知られています(日本語版は、村井章子訳『怒れ!憤れ!』日経BP社、2011年)。この日たまたま聴いていたフランスのインターネット・ラジオでは、一日中追悼ニュースが流れ、彼自身の声の録音も聴くことができました。その魅力的な語り口―たとえば「母には、<幸福でいなければいけない、幸福は伝染するのだから>と言われていた」―に触れて、数日後にはじめてこの本を手にとったのでした。

 彼が若い世代に「憤れ!」と呼びかけるのは、怒りは単なる感情からではなく「自ら関わろうとする意志から生まれる」からだと言います。最悪なのは「無関心」であり、「自分には何もできない」という姿勢が人間を人間たらしめる大切なものを失わせるのだ、と。そして、現代においても変わらず課題である人権に目を向けるよう読者に促しています。1948年の国連総会で採択された世界人権宣言に、起草委員会事務方として草案作りに加わったエセルが心に刻む30条の条文に込められた願いの重みは、行動の人としての彼の生涯を決定づけたようです。

 「世界人権宣言」、文化政策研究においても世界的かつ歴史的な文脈として言及されています。今更ながらあらためて読み、噛みしめてみました。― 第22条「自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くことのできない経済的及び文化的権利の実現を求める資格を有する。」など―

国際連合広報センターHP

谷川俊太郎訳(アムネスティ・インターナショナル、鎌倉グループHP掲載)
 
谷川訳はこども向け絵本にもなっていて、地域の図書館に置かれていました。

 だれもが持つ人権を「普遍的に」宣言する(Universal Declaration)ことには、国家の枠に拘わらず、世界中のひとりひとりの人間の意志に訴えるという根本的意味があったのでしょうか。エセルの言葉を読みながら思います。

(ykn)

インターゼミ(修論ワークショップ)を聞いてきました

みなさん書いているように、
5月19日に東京芸大北千住キャンパスでインターゼミ(修論ワークショップ)が開催されました。

インターゼミは、
アートマネジメントや文化政策に関係するいろんな大学の合同ゼミ(修論版)で、
その年に修士論文を執筆する学生がたくさん、研究経過を発表します。
参加している大学は、
芸大、東大、慶応、青山学院、静岡文化芸術大学、
発表はしていませんでしたが、鳥取大学の先生と学生も参加していました。

参加者は約70名?、発表者は18人、
3名ごと6セッションで座長の先生もつくので、ちょっとした学会並みの雰囲気です。
学生1人あたり発表12分、質疑含めて最大20分。

発表を聞いていて、
けっこう社会人の学生の方も(東大に限らず)多いなあ、と思いました。
大学ごと・ゼミごとに研究カラーの違いが出ていたり、聞いている方も勉強になります。

「何に問題意識を感じてその研究をやろうとおもったのか」
「なぜその事例を選んだのか」

↑はじめての聴衆に自分の研究を語る場合、理解してもらうのに結構大事な問だと思います。

「その言葉をどういう意味で使っているか」
「地域の定義は?範囲はどのくらいか」
「デザイナーって何のデザイナーのことですか」
「その研究で言うダンスの定義は?」

↑言葉を丁寧に使うって大事です。

「その調査は、仮説の正否を確認するような調査になっているか」
「その2つは果たして比べられる事例なのか」
「自分の仮説以外の要因について、研究でどのように考慮するか」
「評価の指標は適切か」

「研究によって明らかになる結論に意味があるか」
「その研究のオリジナリティー(他の研究にない新しい知見)は何なのか」
「研究って批判的な(クリティカル)なもの、がんばって調べただけでは研究にならない」

「その研究の成果を今後どのように活かしていきたいか」

↑他の方の発表を聞きながら、研究ってなんだろうな、とか改めて考えてみたり。

インターゼミは、確か今年で3回目か4回目の開催(のはず)。
私が修論を書いた時にはなかった試みですが(おっと学年(とし)がばれる)
いろんな人からコメントや参考になる情報を教えてもらえる、いい機会だなあと思っています。
今年は参加者が多いのでコメントシートなるものも配布されました。





















せっかくなので発表者18人全員にコメントを書いてみました(がんばった)。
他の方の発表を聞いてコメントするのも、研究の訓練だと思うmihousagi_nでした。
(いいコメントができたかはべつにして・・・)

インターゼミ感想


pugrinさんが書いて下さった通り、小林ゼミ生としてインターゼミに参加してきました。
この度は拙い発表にお付き合い頂きましてありがとうございました、M.Oです。
会場を提供して下さった東京藝術大学熊倉ゼミの皆様にも改めて感謝申し上げます。

自身の発表については、先の原点での反省を踏まえながら、文化資源学に取り組む一員としての立ち位置を意識する事を心がけ、多少の変更を加えて発表に臨みました。
限られた時間の中で適当な表現を模索するあまり原稿に目を落としがちになってしまったことが悔やまれますが、発表自体を設定時間内に終える事が出来たので良かったです。(質疑応答でダラダラと話してしまったので結果的に長くなってしまいましたが)
発表内容としては、論文の触りの部分を発表致しました。
学外の方に向けて初めて自分の研究を発表しましたが、思いの外関心を持って頂けたかなという印象でした。 自分の発したある言葉が別方向からの反応を生んだり、あるいは自分では伝えたつもりでもそれが異なる意味で受け取られたりする、ということを改めて感じました。
私の場合、研究関心の内容故に様々な定義や範囲設定が必要であり、質疑応答では案の定そのあたりの詰めの甘さに対するご指摘頂きました。
昨日は「多角的な視点」という好意的な表現を頂きましたが、私の場合、大風呂敷を広げて話を抽象化し具体的な実証から遠ざかってしまう傾向が多々あると思っています。そのあたりを注意しつつ、今後とも研究調査に努めたいと思います。

他の方々の発表については、昨年度と比較すると、発表者数が増えたということもありますが、対象なり視点なり研究方法なりにおいて研究の在り方が多様化した(しようとしている)という第一印象を抱きました。 
インターゼミ内においては、今年はとりわけ青山学院大学井口ゼミの方が加わった事により、アートプロジェクト等の評価・分析における方法論が多く提示された様に思います。
一方で、「手段と研究目的がごっちゃになっている」「この研究を通じて何を明らかにしたいのかを示さなくてはならない」というご指摘は昨年度に引き続きしばしばあり、発表の冒頭で研究の要旨を簡潔に述べる必要があると感じました。
個人的に耳が痛い思いがしたのは、「日本語でしっかり表現しなさい」という松本先生のご指摘でした。現代の事象を扱っているため、及び海外の論稿が先行研究として頻出するため、私もカタカナ表現に頼りがちです。論文と言う言葉の作業を行う研究者の姿勢として、しっかりと表現一つ一つに向き合わなくてはならないと思いました。
また合わせて、修士論文の在り方や取り組み方についても先生方のご指摘が参考になりました。

取り急ぎ雑感まで。
(M.O)

インターゼミに参加して

インターゼミ発表、参加の皆様、昨日はおつかれさまでした。
pugrinです。

アートマネジメント、文化政策、文化・地域振興等を研究している大学が集まり、
修士論文の概要や構成を発表し合うインターゼミに初めて参加し、
非常に有意義な時間を過ごすことができました。

わたしはみなさんの発表を聞く中で、以下の点に改めて気づきました。

①学校ごと、担当教員により研究方針がかなり異なっていること。
②質問される多くの内容は、研究の根源的な部分であること、
  また、その返答ほど難しいこと。
③オリジナリティは必要だが、単なる主観とは異なる理論が必要であること。
④お決まりの理想ありきの研究では、成果は面白いものになりにくい可能性があること。

修士論文とは?大学での研究とは?
それを自分がやる意義とは?

これを自分自身のうちから発見することが第一歩なのだと強く感じ、
今後の自分の勉強や研究、さらに生活のあり方を
改めて見つめ直す良い機会になりました。

単にまだまだ勉強不足であることに加え、
こうしたことにはもっと疑問符ばかりが飛び交い、
答えに近づくことはできていません。

しかし、初歩の問い中のさらに初歩の部分に
立ち返ることができたかと思っています。

今後もぜひいろいろな事例や論文から学び、
自分のちょっとした興味や日常からの刺激にも敏感になって
上記の問を深めたり、
答えに向かって歩みだしたりしていきたいです。

ただ、今回の反省点は、コメント用紙には質問を書いても
その場で発言ができなかったことです。

ゼミや他の授業の場で、もっと修行していきたいと思います!

動画配信という街おこしにおける手段


先日偶然つけていたテレビを見ていて、心打たれ目を離せなくなった映像をご紹介したいと思います。




これはグランドラピッズという街のイメージアップビデオです。
グランドラピッズは、アメリカ合衆国中西部のミシガン州にあり、州都であるデトロイトに次ぐ規模を持った古くから栄えた街でもあります。
その街から2011年5月に生まれたのが、上記のミュージックビデオ"The Grand Rapids LipDub"です。
このリップダブとは、音楽に合わせて口パクをしながら映像を撮影したビデオのことで、2006年頃に生まれた言葉だと言われています。

さて、このミュージックビデオでは、Don McLeanの"American Pie"という曲に合わせて、5000人もの一般市民がリップシンキングをしながらパフォーマンスを披露している姿を、グランドラピッズのダウンタウンを背景にワンカットで撮ったものです。

そもそも、このミュージックビデオを撮るきっかけになったのは、ニューズウィーク誌の「アメリカの死にゆく都市ベスト10」という記事で、グランドラピッズは第10位に選ばれてしまったことでした。
地元の人たちはそんな記事に対して反発し、FacebookTwitterなどを通じて様々な意見を出し合い、地元を盛り上げようと必死になりました。
そんなときに出たアイディアのひとつが、グランドラピッズの素晴らしさを伝えるリップダブ・ビデオを作ろう!」というものだったのです。
3ヶ月にも及ぶ準備を経て制作されたこのミュージックビデオは、地元のローカルテレビ曲や映像プロダクション、警察署や消防署、地元の企業など様々な人たちが協力し参加したそうです。
制作費も地元の企業などから寄せられ、40,000ドルの予算が集まったと言います。

映像からは、街の人たちの気持ちが痛いほどに伝わってきます。
テレビで流れたのは映像の一部だったにも拘らず、私は感動して涙してしまいました。
街を誇りに思い、その魅力を伝えようと一致団結して撮影に取り組んでいる人たちの姿を見て、心に熱いものがこみ上げてくるはずです!
みなさんもぜひご覧になってみてください。

(tantaka)

2013年5月17日金曜日

桃紅百年

友人に「百まで生きてNHKの『百歳バンザイ!』に出たい!」と豪語しているのがいます。こんな先行きの暗そうな世の中でどうして?とたずねると、「こんな世の中だからこそ、どうなるのかこの目で見たい。好奇心!」との答えです。

そんな友人とお誕生日がちかく、おひつじ座同士の篠田桃紅さんが今年百歳を迎えました。「抽象画家、水墨作家、美術家、書家、エッセイスト、肩書は自分でもよくわからない。」と書いている通り、傍目にはジャンル分けがむずかしいかたですが、「十七、十八歳のころ、甲骨文字の拓本を初めて見て、非常に心惹かれた。」という言葉に表されているように、太古の人がかたちから文字を生み出していく営みに心惹かれ、ずっとかたちへの好奇心から墨による表現を繰り返してきた人とすると、「画家」とか「書家」とかの分類こそが窮屈だなと思わせてくれる存在です。プリミティブで好奇心旺盛、百歳まで筆をとり続けてきた原動力はその姿勢にあるのかなと思います。

今回は、百歳記念ということで各地で開催の篠田桃紅展について報告いたします。

 ■伊勢丹アートギャラリー(3月に開催)

開催期間中、一刻も早く行かなければなりません。なぜならばギャラリーなので、どんどん売れたものがはずされていってしまうのです。私が見ていたときも次から次へと作品が壁から下ろされていきます。景気が良いのか…アベノミクスおそるべし…と思っていたら安倍首相夫妻からのお花が届いていました。オープニングレセプションにはご本人がいらしたそうで、仕事で行けず悔しい思いをしました。

 
■岐阜現代美術館「篠田桃紅 百の譜 19501960s

この美術館は鍋屋バイテックの敷地内にあって、財団法人岐阜現代美術財団が運営する、世界でも有数の篠田桃紅コレクションを持つ美術館です。かねてから行きたいところでしたので、名古屋から名鉄で鵜沼まで行き、そこからタクシーに乗りましたが…遠かったです。山一つ越えてたどりつくと、間違えた入口から入ったので、休日出勤の鍋屋バイテックの社員の方が案内してくれました。特殊ねじなどの機器部品の専門メーカーである鍋屋バイテックは桃紅作品を300点以上所蔵しています。おそろしくおしゃれなオフィスの壁にはあちこちにリトグラフの桃紅作品がかけられていました。

そして美術館にたどりつき、なかなか今まで見たことのなかったニューヨーク滞在時代の作品に出会えました。そんなに大きな展示空間ではなく、展示数も多くはありませんでしたが、じっくりと間近に作品を見られました。入場者は間違って来てしまったらしくすぐに帰って行った家族のほかは、おじさんが一人見ているだけでした。


 ■関市 篠田桃紅美術空間 「篠田桃紅 百の譜 1990-」

こちらは関市の市役所の7階にあります。篠田桃紅の父が岐阜市の出身、関市出身の祖母のもとに育ったことなどから、関市の文化整備事業の一環として篠田桃紅美術空間が設置され、展示が行われています。

以前は多治見からかなり複雑な経路で長良川鉄道に乗ってここに来ましたが、田んぼの中に突如としてそびえたつ関市市役所庁舎が印象的でした。今回は岐阜現代美術館からタクシーで旧市街を通って向かいましたが、タクシー運転手さんいわく、路面電車が廃線になってしまったことで車以外の関市へのアクセスが困難になってしまい、お決まりのごとく有名大手ショッピングモールが完成したのちは旧市街がシャッター商店街になってしまい、かえって市役所と病院があるエリアの田んぼが開拓され、住民移動が始まっているとのことでした。

休日でがらんとしている市役所に到着し、休日入口から会場に向かいましたが、見学者がほかにいません。作品は1990年以降から最近に至るまでの大作ぞろいで、すばらしいです。自分としては人を気にせずじっくり作品鑑賞できるのでありがたい限りですが、ここはどういう経営なのだろうか?と気になったので係の方にたずねてみました。

市長の提案のもと2003年に開設された篠田桃紅美術空間でしたが、「一般にあまり知られていないような」作家の展示に対して市民から批判の声があがったため、市は指定管理者制度によって岐阜現代美術財団に管理運営をまかせ、場所を提供しているだけというのが現状とのことでした(Wikipediaの情報ですが、岐阜現代美術館の開館によって、美術空間は鍋屋バイテック会社のコレクション展示場になっていると関市議会で指摘があり、企業のコレクションに庁舎のフロアを提供、経費負担するのでは市民に説明がつかないとのことで、閉館の危機にさらされていたらしいです)。当日、会場にいらしたのも財団法人のスタッフさんでしたが、百歳ブームでNHK「日曜美術館」で紹介されたり、新聞や雑誌などの報道で、ようやく市民にも理解が広がり、見学者も増えているとのことでした。

私のようなファンにとっては、篠田桃紅美術空間は個人コレクターに私蔵されてしまいがちでなかなか見られない桃紅作品に出会えるとても貴重なところで、近ければ毎週でも通いたいくらいですが、市民にとってのそこはまた別の意味を持っているのでした。しかしながら、桃紅コレクションを充実させ、庁舎の美術空間への批判が起これば財団による管理体制に移行しすべての運営を引き受け、展示を続けている鍋屋バイテックはすばらしい企業だなと思うのでした。
 

 

■菊池寛実記念 智美術館「百の記念 篠田桃紅の墨象展」

こちらは東京虎ノ門です。526日(日)まで開催ですので、みなさまも是非ご覧になってみてください。私はこれからなのですが、百歳まで生きたい友人に声をかけようかな~と考えています。

                        ※文中引用は『桃紅百年』世界文化社より    (Mube)               

       

2013年5月15日水曜日

義経一行の向かった先は


 加賀の国・安宅の関を抜けようと白紙の勧進帳を天も響けと高らかに読み上げ、関守・富樫との緊迫した山伏問答をやりあい、主君である源義経を杖で叩き、見事一行の関の通行許可を勝ち取る文武両道の豪傑武蔵坊弁慶。能においては『安宅』、歌舞伎では『勧進帳』としてよく知られるこのエピソード。山伏に扮した義経一行が安宅の関を抜け向かった先が出羽の国・羽黒山であることは、あまり知られていないのではないでしょうか。
 『安宅』『勧進帳』の原作である、義経とその主従を描いた軍記物語『義経記』には、義経一行が安宅の関を抜け出羽の国・鼠ヶ関へ上陸し羽黒山へ参拝するエピソードが語られています。(一昨年観覧した市川海老蔵復帰公演の『勧進帳』で「羽黒山」という科白を耳にした記憶があるのだが調べても『勧進帳』の台本に「羽黒山」という言葉が見当たらないので困惑してはおるのだが…。)
 羽黒山・月山・湯殿山からなる出羽三山は古くから山岳信仰の対象ではあったのですが、出羽(いでは)神社が創設され修験道の道場として開かれるようになったのは、飛鳥時代になるとされています。崇徳天皇の第三王子・蜂子皇子が出羽の国、現在の山形県鶴岡市由良の海岸にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸しました。この後蜂子皇子は、海岸から三本の足を持つカラスに導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われています。八乙女浦は現在も古い地名として残っており、アクセスが困難であるため観光資源としては活発ではありませんが、歴史ある場所として地元民に大切に守られています(私もその地元民のひとりですが)。また皇子を導いた三本足のカラスは言わずと知れたヤタガラス(八咫烏)であり、「国を導く者」であるとしてサッカー日本代表のユニフォームの胸部に刺繍されるエンブレムに代表される日本サッカー協会のシンボルマークとして、また陸上自衛隊中央情報隊等のシンボルマークなどにも採用されています(神武天皇を熊野国から大和国へ導き、日本という国を生むきっかけを演出した天照大御神によって送られたカラスも八咫烏であると言われています)。
 また、西に位置するお伊勢様、伊勢神宮を意識するように東に存在する出羽三山を詣でることを「東の奥参り」とも称したそうです。つまり「伊勢参宮」を「陽」、出羽三山を拝することを「陰」と見立て“対”を成すものと信じられ、一生に一度は必ずそれらを成し遂げねばならない、という習慣が根強くあったのだそうです。
 昨日のゼミで「羽黒山・月山・湯殿山それぞれに神社がある」という話に対し少し濁した変な反応をしてしまったことを説明しますと、確かに三山それぞれに神社はあるのですが、実はそれらすべてが羽黒山の山頂に「羽黒山三神合祭殿」としてひとつの建物にまとめられて合祀されているのです。つまり、三山それぞれにひと柱ずつ三柱の神は祀られているのですが、建物としてはひとつの場所に合わせて祀られている、というのがわかりやすい言い方になるのです。
 修験道は古来の山岳信仰や仏教、道教、陰陽道などが混合して成るものであり、出羽三山神社も「神社」と名乗ってはいますが仏教的な要素も多く含んでいます。有名な即身仏もそういった仏教系の修行であり、天台宗の羽黒山・月山派ではなく真言宗の湯殿山派で行われたものであるそうです。真言宗と東北地方との関係性も調べていくと非常に奥深く興味深いものです。

 義経一行はもちろんこのあと奥州平泉へ向かうことになるわけでありますが、その経路として出羽の国・庄内を経由したことで、現在の庄内地方には多くの義経・弁慶ゆかりの地が残されているというわけなのです。
 昨年度ゼミ合宿の行き先が安宅の関を持つ加賀の国であったことから、義経・弁慶の後を追い、出羽の国へ参ってみるのも一興ではありませんでしょうか。

 (志)

次代を担う子どもの文化芸術体験事業について

今年度初のブログ投稿になります、M.Hです。

現在アルバイト先の業務で、平成24年度に行われた「次代を担う子どもの文化芸術体験事業」の事業調査として、参加されている団体の代表の方に集まっていただき、事業に関して議論していただくグループインタビューに参加しています。
今回は、その場に参加して感じたことを中心に書こうと思います。

「次代を担う子どもの文化芸術体験事業」とは、「小学校・中学校等において一流の文化芸術団体による巡回公演を行い、又は小学校・中学校等に芸術家を派遣することにより、次代の文化の担い手となる子どもたちの発想力やコミュニケーション能力の育成を図り、将来の芸術家の育成や国民の芸術鑑賞能力の向上につなげることを目的とした事業です。」(「次代を担う子どもの文化芸術体験事業」ホームページより)

文化庁が選定した文化芸術団体が、学校の体育館などでオーケストラや演劇等の公演、そして鑑賞指導や実技指導などのワークショップを行う、という巡回公演がこの事業の一つの特徴となっています。

グループインタビューにおいて、論点の一つは「学校で本公演・ワークショップを行う意義」でした。この点に関して、文化ホールでの開催とは異なり、いつも利用している体育館に、その日一日だけバレエや能、歌舞伎、オーケストラなどの舞台が作り上げれられることを通して、子どもが文化芸術をより身近に感じることができるという点が挙げられました。そして意見の中で最も印象的であったのが、生徒とより近い距離で公演を行うことで、ダンサーや演奏者の意識に変化があったという意見でした。ある程度大人になると、つまらなくても愛想笑いをしたり、ごまかしたりできる。しかし、子どもの正直な反応をとても近い距離で感じながら公演を行うことで、ダンサーや演奏者自身、バレエや演奏を通して自分が何を伝えたいのか、という問いを持つようになり、また彼らが関わっているジャンルだけではなく、より広い視点で社会と文化芸術の繋がりについて考えるようになったそうです。この事業の本来の対象であった子どもたちだけでなく、団体員にもこのような影響があったことも、巡回公演を行う意義の一つではないでしょうか。

また、本公演とワークショップを一体で行う意義について、事業費の効率化という問題はあるものの、ワークショップと本公演がそれぞれ予習、実際の学習というステップとして機能しており、ワークショップを通して子どもたちが本公演の内容をより理解しやすくなるということ、そして文化芸術に関する教員たちの知識を補うことに繋がるという指摘がされていました。

この議論を受けて、復習として鑑賞後のフォローアップも大事なのではないか、と感じました。子どもたちが文化芸術を体験・鑑賞することを通して何を感じ、発見したのかを言語化し、他のメンバーと共有することを復習として行うことで、他者との繋がりを見出したり、文化芸術の楽しさを改めて考えるきっかけになるのではないでしょうか。

ただの鑑賞授業ではなく、実際に通っている学校を舞台に文化芸術を体験し鑑賞するというこの事業を通して、今後社会における文化芸術の位置づけや人々との関わり方が変わっていくのではないかという可能性を感じました。

M.H
次代を担う子どもの文化芸術体験事業
http://www.kodomogeijutsu.com/

2013年5月14日火曜日

皇居遠足と台湾映画


 神田祭に参加されたみなさま、お疲れさまでした。

 先月のことになりますが、文化資源学会の遠足に参加しました。「皇居一周今度は時計回りで」と題された第51回は、参加全員が蘊蓄なり思い出なり何か一言を語るという趣向。ランナーとすれ違いながらひたすら歩き、歴史、劇場、図書館、噴水、都市整備、植樹などなど、各コメンテーターの関心によって多様な視覚から切り取られた風景を共有する、味わい深い土曜の午後でした。「春風の遠足」のはずが本降りの雨で、とても寒かったですけど。

 今もひときわ印象に残るのは、戦前日本における観光を研究テーマとされる方の解説です。植民地統治策の一環として、台湾からとくに原住民族の部族代表者を招いて日本各地の軍施設や名勝地を回る観光旅行が行われていたことを紹介され、「宮城を前にやはり涙した」旅行者の様子などが記されている当時の文献に言及されました。

 というのも、偶然ですが、ちょうど前日に台湾映画「セデック・バレ」(魏徳聖監督作品2011年)を観たところだったからです。日本の植民地支配下にあった台湾中部の山村・霧社で、先住民が日本人134人を殺害した武装蜂起、「霧社事件」(1930年)を扱った作品に、未知の歴史をつきつけられて考えさせられました。この中で、誇り高く、常に猛々しく戦闘的なセデック族の頭目(主人公)が、躊躇と怖れをみせる唯一の場面が、「文明国」日本への招待観光視察旅行を回想するシーンだったのです。

 ひじょうに上手い要を得た脚本だと思いました。「文」と「武」という風に対立させて語られるけれど、文化の認識の在り方は武力以上に他者を抑え込む力になるのだという一点が強く意識に残っています。ここからもう少し掘り下げたいところですが、またあらためられればと思います。ただ、見慣れた風景がちょっと違って見えてくるようなきっかけでした。

(ykn)

5月11日(土)と12日(日)に震災ボランティアに行ってきました。

こんばんは。Showです。
私は、震災ボランティア団体に中心メンバーとして所属しています。
5月11日(土)と12日(日)は宮城県南三陸町に訪問しました。

東北地方は、東京と違い、とても寒かったです。東京は土日は温かかったそうですが、南三陸町はお昼の時間でも7℃しかありませんでした。

今回の訪問で行ったことは、
(1)新メンバーの南三陸案内
(2)現地住民の生の声、被災した時のコト、現在のコト、将来のコト
(3)学会発表に向けた調査研究(地域住民にインタビュー)
(4)新プロジェクトの為のニーズ調査
(5)南三陸のおいしいものを食べる!(南三陸は漁業の街です)

私はもう何度も現地を訪問しているのですが、被災した方々の生の声は本当に心に響きました。
言葉で言い表すことが出来ません。今は、時間もお金も制限された状態ですが、一所懸命やりたいと思いました。
現地の人をしっかり考え、十分なコミュニケーションを取り、現地のニーズと私たちの団体のシーズをマッチさせたウインウインの活動をしていきたいです。

以下、今回初参加メンバーの感想です。
ちょっと長いですが、とても良い現地訪問感想文なので是非読んでみてください。

2013年5月11日、
東日本大震災が起きてから2年2ヶ月が経つ日に、私は初めて被災地南三陸町を訪れました。震災時に波にのまれた土地から、いまだ多くの方が住む仮設団地を巡らせていただきましたが、実際に訪れ見たことで、報道等では分からない被災地今現在の日常の空気を感じられたように思います。
現地の生活は震災から2年経ち、移動販売や、通信販売のおかげで生活必需品等は手に入れられる環境、自家用車を持つ人も多く、活動範囲は広がり、子どもたちも元気に仮設団地の集会所で遊んでいたこと等から正直、外から一見すると一瞬、問題ないように思えました。しかし、住民の方々から足腰の弱いお年寄りは仮設住宅から出ることなく毎日を過ごしている状況や、医療設備の整った病院も近くにない状況にあるなどの話を聴いているうちにまだまだ問題はたくさんあることに気づかされました。
それでも今は南三陸町の人々は力を取り戻し、自ら色々と活動できるようになってきた段階だと思います。そして、その段階に応じてボランティアも活動を変化させなければならないというのが私の意見です。今回の訪問は、ボランティアの在り方と何が本当に求められているのかを考えるきっかけとなりました。話をしていただいた仮設団地の皆様、そして貴重な体験を与えてくれたUT-OAK震災救援団の皆様、本当にありがとうございました。
東京大学 K.F.
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「何をしに行くの?」
南三陸町を訪れることを友人に伝えると、返ってくる言葉は大体こうでした。
それは決してネガティブな意味では無く、純粋な疑問から発される言葉でした。震災発生から2年経ち、復興の足音が大きく近付いて聞こえるように思われる中で、東京から出向いて行って一体何ができるのかという疑問が出てくるのは自然なことであるように思いました。
今回南三陸町を訪れるに前に「復興支援とは何なのか」を改めて考えてみました。東京で耳にする「復興支援」は時が経つにつれ徐々にその性格を変えていきました。震災発生から数ヶ月は専ら炊き出しや瓦礫除去などの「復興支援」が主流でしたが、それからしばらくすると電車の吊革広告には東北旅行の宣伝が目立つようになり、「復興支援」としての観光旅行がすっかり定着しました。少なくとも私にはそう受け止められました。その頃からでしょうか。「復興への道のりは遠い」という言葉が絶望感ではなく、妙な安心感を伴って聞こえるようになりました。観光に行けるということはインフラが十分に回復したということであり、そこには物資もあり、宣伝できる観光資源があり、あとは観光業の活性化により地元経済の循環を加速させることが出来れば復興は時間の問題だと思うようになりました。私自身、震災直後は「復興支援」として炊き出しなどのお手伝いをしましたが、それから1年もすると観光客として宮城を訪れるようになり、そのことに対して違和感を持つこともありませんでした。私の中での「復興支援」は何時の間にか「観光」に読み替えられていたわけです。そういうわけで「(南三陸町へ)何をしに行くの?」と言われたとき私自身も上手く答えることができませんでした。震災を忘れたわけではありません。想像力の限界でした。今回南三陸町を訪れた私を待ち受けていたのは頭をガツンと打つようなショックではなく、砂を噛むような現実でした。ただ、復興への道のりの果てしなさを、何度も何度も噛み締めました。

「復興が何を意味するのかは人によって違う」
夜、集会所でお話をして頂いた方の言葉です。こうして文字にすると何ということもない言葉も、実際に被災した方の口から語られるとその重さが違いました。・・・。正直に言うと、今回の体験をあまり文章にしたくありません。文章にするとこぼれ落ちてしまうものがあまりにも多く、その場で感じた思いや聞いた言葉もひどく薄っぺらいものになるように感じてしまうからです。

震災後、震災についての言説や体験談がインターネットに溢れ、震災を経験していない人でもネットの上で追体験ができるような状況にあります。実際に訪れたことがなくても、南三陸町の実態をよく知っているかのような感覚を得ることさえできるかもしれません。しかし実際に現地に行ってそこで直接得た感想と、二次的な感想とではやはり決定的な違いがあります。今回それを強く感じました。これは上手く自分の思いを文章化できない言い訳でもありますが、しかしやはり私の文章を読むより、実際に南三陸町に足を運んでみてください。
震災の傷跡が残る場所も多く訪れました。南三陸町の現在を伝えるためにも写真を沢山撮って帰ろうと思っていましたが、実際に目にし、ここで沢山の人が亡くなられたのだと思うと、とてもカメラのシャッターを切れませんでした。
今回の訪問で私が何か南三陸町の役に立てたかと問われれば、殆ど何もできていません。観光客以上のことは出来ませんでした。先ほど述べたように私はこれまで「復興支援」を「観光」に読み替えていましたが、今回の訪問で「観光」が本当に「復興支援」になるのだと感じたなら、きっと今このような思いを抱いてはいないはずです。自分も「復興支援」に携わったのだという満足感を持って帰路についたはずです。もちろん、「観光」も「復興支援」には違いありませんが、今回の南三陸町訪問を通じて「観光」以外の形で「復興支援」に携わりたいと思うようになりました。

「何をしに行くの?」
実際に南三陸町に訪れたあとでもこの問いに答えるのは難しいです。きっと、「これをすれば役に立つはずだ!」という独りよがりの思い込みではなく、南三陸町の方々とお話を繰り返す中でニーズを発見できなければ真の意味での「復興支援」にはならないからだと思います。そしてその確信を得るには、私にはもう少し時間がかかりそうです。

今回の訪問では本当に多くの方の好意に触れる機会を頂きました。夜は集会所で24時前まで(!)お話をしていただき、翌日の聞き取り調査でもいきなりの訪問にも関わらず皆さんに快く質問に応じていただきました。
また必ず訪れます。ありがとうございました。
東京大学 A.T.

今回の感想を書いたブログ
http://utoak.sitemix.jp/

2013年5月13日月曜日

伊達眼鏡にだって、目が無え!

入学1か月、ようやく校内PCの電源のつけ方がわかったpugrinです。
(それまで誰かがログオフした後のPCを狙って使っていました。)

わたしは大体外に出るときは眼鏡ネをしておりまして、
しかしその前に必ずコンタクトレンズをしているのです。
つまり伊達眼鏡をしているわけです。

スッピン隠しやなんかでかけているうちに、
メガネをすることで精神的に落ち着くような気がしてきたので
いくつかのメガネを使い分けてファッションとして使うようになりました。
ちなみに自転車通学の際なんかは風や塵をよけられて便利です。
コンタクトレンズをした目にゴミが入ると大変痛いですので)^o^(

ということでふと
伊達眼鏡っていつから流行したんだろう、と考え書籍を紐解きました。
「眼鏡の社会史」白山晰也
白山眼鏡の社長さんです。
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ざっくりまとめると、
そもそも眼鏡は誰が発明したか不明です。
というのは、13世紀のヨーロッパ、ということは記録があっても
当時そうした自然科学の研究は、錬金術=悪魔の仕業の類と考えられたため
迫害を恐れて、きちんと記録に残っていないわけです。

では日本に伝わったのは、というと
大西博士という人が大正時代に研究したところ
フランシスコ・ザビエルが贈答品として持ち込んで伝わった、
ということが通説となっています。
その後ヨーロッパからの贅沢な輸入品として珍重され、
しかしだんだんと日本でも製法が広まり、
それなりに普及していくのですが、

西洋ではすぐに
眼鏡を使う人=学問をする人=偉い人≒金持ち
というような図式でもって
眼鏡が学者のステータスシンボル、
金持ちの社会的地位象徴として扱われたのに対し

日本ではしばらく
眼鏡を使う人=細かい作業をするひと=職人
というように、より実利的な扱いであったのです。
というのは、当時の錦絵や南蛮屏風に描かれた
眼鏡の使用方法の表現から推測されたことです。

しかし、文明開化とともにこれがガラリと変わります。
日本でも眼鏡が学者、金持ちのシンボルとなっていくのです。

モダーン乙彦(このネーミングセンス!!!)
こと荻原乙彦の「東京開化繁昌誌」に
「又文人墨客は旧弊維新相半す、或いは除塵埃の眼鏡を掛けて...」
という一説があります。
つまりヒゲをはやして西洋風に気取った文人の小道具として
眼鏡が登場しています。

また、明治22年にはトンボ眼鏡と呼ばれた大型眼鏡が大流行したようです。
これも
「眼鏡は近視又は老眼の者が、補助の必要上、掛くべき物であるに、
いつしか肉眼に何等の欠点なき者までが掛ける事になつた、
それは虚栄のために素通しの金縁眼鏡を掛けて威張るとか、
勉強読書のために近視眼に成つたらしく装ふなどであるが、...」とあり、
そのころにはすでに実用の眼鏡というより
恰好をつけるための伊達眼鏡が大流行していたことがわかります。

こうした流行は、単に文明開化で
西洋風にすることそのものが流行したというだけではなく、
実際に学問をして、視力が落ちて、眼鏡をかけることになった人に
あやかりたいという気持ちがあったからのようです。

それは官員でした。
官員は安定した生活が営める俸給生活者で、徴兵も免除されたので、
庶民はその地位に憧れ、小道具だけでも真似したいと願って
そのステータス・シンボルとして眼鏡にスポットライトが当たったのでした。

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さて、振り返って現在の眼鏡はどうでしょう。
特に眼鏡をしているからと言って必ずしも博学だとか、金持ちだとか決まってはいません。
伊達眼鏡もかなりデザインが多様化していて、
西洋風に見えるとか頭がよく見えるとかということには限りません。
有名人が変装(?)のためにかけている眼鏡が流行したり、
頭がよく見える、ということ自体遊び心としてファッションに取り入れられる場合もあります。
視力だけについて言えばコンタクトレンズがあり
眼鏡がなくとも矯正することができますから、
眼鏡は腕時計と同じくらい、
使うかどうかについても自由度の高い実用品というわけです。

わたしは今4つの伊達眼鏡を持っていて、
その日の気分で取り換えて使っています。
ふだんと違う変身気分を味わいたいから、
という派手な伊達眼鏡もありますし、
単に落ち着くから、というシンプルな伊達眼鏡もあります。

いずれにしろ眼鏡は「こうなりたい」「こうだったらいいのに」
を叶える簡単な小道具として
明治期以降に流行してきたことがわかりました。
単に実用的なだけでなく、精神面の補助もしてくれるような存在。
さあ、わたしは明日はどの伊達眼鏡で登校しましょうかね。

2013年5月10日金曜日

WALK IN. DANCE OUT.


瀬戸内国際芸術祭夏会期と大原コンテンポラリーの会期、重ねて欲しかったと密かに思っているM.Oです。

さて、「5月7日、ストックホルムに面白い施設がオープンした」というニュースを見つけました。
その名も、ABBA THE MUSEUM。
1970年代半ばから1980年代初頭にかけて音楽シーンを席巻し、ポピュラーミュージックジャンルの確立に貢献したスウェーデン出身のグループ「ABBA」。
1983年に事実上の解散を迎えた後も度々リバイバルブームがおこり、ミュージカル「マンマ・ミーア!」がロングラン公演、日本でも近年劇団四季のミュージカルとして再解釈され上演されていました。(私は観ていません・・・)

当時の衣装や広報備品、その他様々なコレクションが展示されているのですが、 このミュージアムの売りは何と言っても、「ABBAの5人目のメンバーになりきれちゃう」こと。
ホログラムを用いて再現されたステージでバンドと一緒にあの伝説的な衣装を身にまといながら歌ったり、実際に使われた機材を持ち込み再現したポーラースタジオ(そこでABBAサウンドが生み出された)で歌ってみたりできるのですが、それらは入場券に記載されたIDナンバーを入力してウェブページからダウンロード出来るのです。
そんなミュージアムですので、トップページのキャッチフレーズが「WALK IN. DANCE OUT.」
ちなみに、より正確に「なりきれる」様に、ウェブサイトでは来館前に名曲の歌詞を確認してくる事をお勧めしています。(歌詞紹介とYou tubeリンクが貼ってあります)

他にも、メンバーのBennyのスタジオにおかれたピアノと連動して動くピアノがあったり(Bennyがピアノを弾くと、ミュージアムのピアノも独りでに音を奏でる)、館内には色々な工夫が成されています。

この入場券があれば、ミュージアム内に設置された以下の2つも楽しむ事が出来ます。
1)スウェーデン音楽の殿堂:音楽のプラットフォーム(ミーティング・プレイス)として、企画展やギグなどを行うイベントホール
2)スウェーデン・ポピュラーミュージックの歴史展示:1920年から現在までの音楽史の展開、並びに音楽産業を取り巻くテクノロジーの発展史など
音楽シーンを彩ったスウェーデンのミュージシャンとしては、ABBA以外にも、Roxette、The Knife、The Sounds、Max Martin、The Cardigans、First Aid Kit、Swedish House MafiaやRobynといった面々がいるそうです。音楽にはあまり明るくない私ですが、この中の幾つかは、思えば、名前を聞いた事があります。

「ポピュラーミュージックが社会において果たした役割は、単にエンターテインメントに留まらず、インスピレーションや変革の源泉として働いて来た」という考えから、スウェーデンのポストカード・ロッタリーであるPostkod Lotterietはこのプロジェクトに資金援助を行ったそうです。
この施設は、自国のポップカルチャーの文化遺産としての認知を高める装置として作られたという訳です。

入場料が23ユーロ程らしいですが、今年は250,000人の集客を見込んでいるとのこと。
オープニングにはメンバーや元メンバーが駆けつけ、ファンにとってはたまらない内容だったとか。
早速ダウンロードシステムでエラー発生中の様ですが、今後どうなっていくのか若干気になります。
(M.O)

2013年5月9日木曜日

発掘調査報告書は文化財?

 日本考古学協会は、1947年の登呂遺跡の発掘調査を契機に設立された、考古学における国内最大の学会です。ここでは、登呂遺跡の発掘調査報告書を含め、全国の自治体から寄贈された発掘調査報告書など、約56千冊の蔵書を抱えていますが、これを英国のセインズベリー日本芸術研究所に一括寄贈することをいったん決定しました。ところが、2010年の臨時総会でこの案が否決され、白紙状態となりました。
 
 蔵書は都内の協会事務所で保管されていましたが、手狭になったことから、30年ほど前から千葉県市川市の市川考古博物館や都内の倉庫で保管していました。現在は埼玉県所沢市の倉庫に保管されています。

  市川考古博物館に保管していた当時、利用者は年間数人程度で、倉庫の蔵書は段ボールに入れられたままでした。その上、倉庫の賃借料に年間100万円の費用を要していました。

  このような状況を打開するため、協会では寄贈先を公募したものの、国内の研究機関からの応募は無く、唯一応募したのが、先述のセインズベリー日本芸術研究所でした。
 
 寄贈反対者の主張は、「蔵書は戦後の日本考古学の発展過程を示す文化的財産。海外放出は学問的危機」とし、「コストや保管場所の確保で難しい面もあるが、蔵書の有効活用を考えるべきだ」としています。
 
 文化資源の恩師のひとりがこの渦中にいらっしゃったので、私はこの問題に注視していたのですが、セインズベリーでは、寄贈された報告書をデジタルデータ化して、世界中からアクセス可能にすることを計画していたと記憶しています。
 
 この件は様々な問題を含んでいると思いますが、私が特に注目するのは反対意見の中に報告書自体を文化財と同等と位置付け、それが英国に渡ることを「海外放出」や「海外流出」と表現する言説が存在しているということです。

 報告書自体が書誌学的価値を持つというのであれば、話は別ですが、そもそも報告書の価値はその中身にあります。考古学的価値を問うのであれば、デジタル化などによって、世界中の誰もがアクセスでき、同じスタートラインに立つことが可能であるというのが、学問として最低限の環境整備だと私は考えます。そのうえで、資料の解釈や捉え方について議論すべきでしょう。

 その意味では、国内の機関であれ、海外の機関であれ、報告書を公開できる体制づくりが可能であれば、機関の国籍に囚われる必要はありません。むしろ、海外流出という言葉が飛び交っている時点で、近代的な国民国家という枠組みの中でしか、日本の考古学関係者の一部の方は資料の価値を判断されていないのではと勘ぐってしまいます。

 報告書だけでなく、考古資料にも言えますが、特に自治体にいる埋蔵文化財行政に関わっておられる方の中には、いかに情報を抱え込んでいるかということが、その人の学問的業績とイコールに捉えている方がいらっしゃいます。私(たち)だけが知り得ている情報は、誰もが知りうる情報にならない限り、学問的な価値あるいは地域の文化的価値は生まれないと思うのですが。

こうした閉鎖的な環境が、日本の考古学だけでなく、地域社会と向き合うべき文化財保護行政の発展にあまり良い影響をもたらさないことは確かであると考えます。

(ま)