2013年2月28日木曜日

2013年2月のフランス便り(4)― 劇場風景二題


 今週帰国しました。欧州文化首都の記事に写真を添えましたので、そちらもご覧ください。2月最後の今日、以下は滞在中のメモからです。

 パリでは日中のほとんどを国立図書館で過ごしていました。「フランソワ・ミッテラン図書館」の研究者用閲覧室はとても快適で文献サービスも行き届いているけれど、たどりつくまでが結構たいへんな構造で、駅から延々と歩き上り下りも多いです。そんな訳で、地下鉄などでバリアフリー対応をみかけないことがつねに気にかかっていました。

 夜は劇場へ。オペラ・ガルニエで入手した席は、Logeの三列目(三列目から椅子が高くなるので見えます)。可動式の椅子で20人弱を収容する広さのボックスでした。この日この桟敷には重度の麻痺がある車椅子の女性と、入口までは車椅子でボックス内では杖を使っていた年配の男性がいたのですが、彼らが入ってくると周囲はすばやく自分の椅子をもちあげて動かし、通りやすいよう配慮しました。そしてさらに声を掛け合いながら少しずつ席を移動して、全員がよりよく舞台を見られるよう調整したのでした。古い劇場の固定席は間隔が狭い。段差のないLoge席が使いようによってはバリアフリーになることを知って感心。しかし、席の位置が価格差と連動する劇場で、日本だったらこれほど臨機応変にみずから他者のために動くかしら、とも考えるところでした。同じ状況で、案内の人が周囲に「申し訳ありません」とか言ってしまわないでしょうか。私たちはチケットを購入して「お客様」になってしまわないでしょうか。病や事故はいつ誰に訪れるかも知れず、老いは確実に皆に訪れます。誰でもいつまでも当然に舞台を楽しめる日常がある社会がいい、とあらためて思った夜でした。

 もうひとつ印象にのこる劇場風景は、演劇の観客年齢層の若さ。今回は思うところがあり、音楽ものだけではなくなるべく演劇も観ようとしましたが、ネット販売分完売の演目が多かった。コメディ・フランセーズ仮設劇場平日夜の「病は気から」は、小さいこどもを連れた家族や先生に引率された高校生グループで賑わっていて、みんな笑いにきているかのようでした。ヴィユー・コロンビエ座「エルナニ」は劇場窓口でもまったく席がとれず。聴くことができた「コメディ・フランセーズにおける<闘い>」をテーマにしたフォーラムは聴衆の大半が高校生と先生でした。「演劇とは対立を舞台にのせるもの」という定義から始まった公開討論は、一夜目が劇作上の論点を、二夜目は社会での受容を論じるもの。コメディ・フランセーズの長い歴史のなかで作品とエピソードに欠くことはなく、さまざまな方向から<闘い>を捉えることができて面白かったです。参加した高校生たちは、次はきっと観客として舞台をみて自ら考えるようになるでしょう。

ふたつの劇場風景に接し、舞台芸術への<愛>が社会のなかで空間的にも時間的にも伝わって共有される場面をみたようでした。2013年2月のフランス滞在はあっという間に終わってしまいましたが、印象的な場面が深く記憶に残る点で、短いなりによい所もあったと今は思っています。

(ykn)

2013年2月27日水曜日

欧州文化首都と東アジア文化都市

春休み、まだまだある!なんてたかをくくっていたら、あっという間に3月が目の前で焦っていますsweetfishです。

今回の投稿は、yknさんがマルセイユの欧州文化首都について話してくださっていたので、
それに関連して。
ここのところ、アルバイトでずっと欧州文化首都に関して調べており、学生のうちに本物を見たい!と思っていたので、羨ましいです。
ちなみに、2013年のもう一つの欧州文化首都は、スロバキアのコシツェです。

日本では、欧州文化首都はあまり知られていませんが(旅行代理店のパンフレットでは、ほとんど紹介されていません)、30年以上も続けられている本事業はヨーロッパではかなりのブランド価値が認められているようで、年々応募都市が増えているそうです。

そして今、日中韓では「東アジア文化都市」が始まろうとしています。
すでに、文化庁では2014年度の開催都市の募集が始まりました。
http://www.bunka.go.jp/kokusaibunka/east_asia_bosyu/index.html


東アジア文化都市は、欧州文化首都と同じく、1年間を通じて催しが行われます。
こちらも、何年かしてノウハウが蓄積されたら、ぜひ中小規模の都市でも開催してほしいですね。
日本中だけではなく、アジア各国からも注目される機会なんてほとんどありませんから。
一過性のイベントに終わらせないためには、地域のたゆまぬ努力と楽しむ為の工夫が必要ですが、それを行ってこそ地域がかわると思います。
また、地域だけでなく、国や県からのサポートのあり方も問われますね。

どこが選定されるにせよ、楽しみです。


(sweetfish)

2013年2月22日金曜日

リオデジャネイロのマラカナ村闘争



皆さん、

こんばんは。MPです。


今年の1月までリオデジャネイロ市の最も有名な競技場のすぐそばでは、ブラジルの先住民のグループが``Nao a demolicao, sim ao tombamento``というモットーで知事と戦った。このモットーは日本語では「破壊反対、登録賛成」となる。

 現在ブラジルでは、2014年のワールドカップ開催の準備が行われている。その結果、競技場、各チームのための寮、地下鉄、練習センターなどが全国に建設されている。あちこちに新たな建物が現れる一方で、古い建物が破壊される。ワールドカップを開催することに必要となるインフラを整えることにつれ、都市開発が早く進んで、風景がますます変化する。リオデジャネイロ市にはブラジルの最も有名な競技場、マラカナ(Maracana)競技場がある。1950年に開かれたブラジルワールドカップの決勝戦がこの競技場に行われ、ブラジルはウルグアイに負けたのだった。改修のために、来年にもマラカナでは最後の試合が開催される。現在マラカナには大きな工事が計画されていて、そのプロジェクトにおいて対象は競技場自体だけでなく、その周辺にも様々な工事を施す予定があり、ショッピングセンターや駐車場を建設するためにマラカナの周辺にある建物を破壊する必要がある。しかしながらその周辺には、1862年に建設された大邸宅が残っている。
その大邸宅は1950年代から70年代の終わりまで「先住民博物館」として使われていた。先住民博物館(ポルトガル語ではMuseu do Indio1950年代にインディオ文化やインディオについての研究を代表する人類学者Darcy Riberioによって、1953年に設立された。その前1910年から行政の公共サービス窓口としての「先住民保護サービス」も同館にあった。先住民博物館はブラジルで最初の正式な「先住民」を中心とする博物館だった。1978年には同館は別のところに移動し、建物が残った。博物館は移動したにも関わらず、その建物はインディオにとって重要なところとなった。
 1978年まで先住民の博物館であった建物は、リオデジャネイロ州の公共サービスの様々な目的で利用されたが近年廃墟になり、2006年には先住民が建物を占拠した。そしてマラカナ村という名前を付け、そこでリオデジャネイロに先住民文化の拠点を作ろうとした。先住民は、その建物を「文化センター」にすることを目指した。実際に7年前から「マラカナ村」はリオデジャネイロでの先住民の文化の拠点になった。毎月の最初の土曜日に先住民の文化祭を開催し、料理、踊り、昔話、先住民芸術などを通じて村の維持に当たる経費の一部分を支えることが出来ている。マラカナ村自体は先住民の文化そのものとも言えるだろう。そこに生活している人々は先住民コミュニティの生活様式を都会の中に果たしている。
 マラカナ村の人々は現在リオデジャネイロの市民の応援を得て、昨年の10月から裁判所で建物を破壊しないように、またそこに住んでいる先住民を退去させないように闘っている。現在でも毎日マラカナ村のリーダー達はリオ市のあちこちに行って活動をアピールし、市民の応援を要望している。11月の終わりに裁判所は建物を壊さないこととインディオを退去させないことを決定したが、リオデジャネイロ州の知事はその決定を訴えてキャンセルすることが出来、12月の終わりにはまたインディオが負ける恐れがあった。しかし今年の1月から、市民、ブラジルの文化庁や国連の批判も受けたリオデジャネイロ州知事は、マラカナ村の建物を文化財として登録することに決め、インディオの意思が勝った。それにも関わらず、村はそこに継続するかどうかはまだ不明だ。文化財登録は決まったものの、インディオが留まれるかどうかについてはまだ決まっていない。実はマラカナ村の建物だけでなく、今回のプロジェクトでは、マラカナ競技場の周辺を民間化することが決まっている。現在、民間化のプロセスが始まっており、競争入札で選ばれる会社や企業グループがマラカナ競技場とその周辺の責任者となる。民間化後においてはマラカナ村の保存や修理は民間の所有者の責任となり、村の将来はまだ不明である。同時にマラカナ周辺に以前からあった学校やスポーツセンターも壊す予定があるため、インディオだけでなくそこに住んでいる市民が今回のプロジェクトに対して非常に反対している。
 さて、世界的に期待されているワールドカップへの準備は、ブラジル国家表象であるサッカー(ポルトガル語ではFutebol)を中心に進むものの、同国家の先住民国民アイデンティティや文化財保護の問題を社会の中に浮き出させている。これからもリオデジャネイロだけでなく全国に、似た問題が闘争の対象になるのではないか。

マラカナ村の闘争は長く、昨年からインディオが何回もディベートを行った。ネットで公開されている。
以上のリンクで見ることが出来る。




Indio(インディオ)ラテンアメリカに住む先住民(百科事典(電子辞書版より)

2013年2月20日水曜日

2013年2月のフランス便り(3)― マルセイユ=プロヴァンス2013欧州文化首都


 M1のみなさん、文化資源学フォーラムお疲れさまでした。そして大成功とのこと!おめでとうございます。

 土曜日、私はマルセイユに向かっていました。欧州文化首都(Capitale Européenne de la Culture / European Capital of Culture)は、EU加盟国内の都市を毎年選定し、そこで一年間にわたって集中的に文化プログラムを展開する事業。1989年のパリ、2000年のアヴィニョン、2004年のリールに続き、マルセイユ=プロヴァンス地域(プロヴァンス地域圏内のマルセイユを中心とした複数の都市圏の連合体)がフランスで2013年の「首都」となりました。オープニング・イベントでは、約40万人が開幕を盛大に祝ったと報道されています(1月15日付ル・モンド紙)。ところが実際に足を運んでみるとマルセイユ中心部はまだ工事現場だらけ。イベントなども夏が本番のようです。


 この週末のマルセイユ=プロヴァンス地方は青い海と青い空がうつくしい快晴で、コートもいらない暖かさでした。

二日間の滞在で見たのは、

J1の<Méditerranées>(地中海世界展)
マルセイユ港湾局提供の倉庫を文化首都に向けて整備した「J1」は、広大な展示スペースと複数のギャラリー、書店、カフェなどがある出入り自由のパブリック・スペース。地中海への視界が開ける新スポットは、港湾地区に人の流れを呼び込む仕掛けのようです。メイン展示は「地中海人」のアイデンティティを喚起する<Méditerranées>(地中海=複数)。オデュッセイアの漂流のように、トロイ、カルタゴ、アテネ、アレクサンドリア、ローマ、アンダルシア、ヴェニス、ジェノヴァ、イスタンブール、アルジェ、チュニスの古代と現代を展示物と映像で経験し、ふたたびマルセイユの現実にもどる趣向です。展示の向こうのガラスごしに本物の地中海が広がっているのが妙所で、「マルセイユはパリではなく地中海をみているのだ」と宣言するかのような展覧会でした。



Friche de Belle de Maiの現代美術展<Ici, ailleurs>(ここ、他所)
会場はBelle de Mai 地区のFriche(“荒れ地”)。閉鎖された煙草工場は、地元劇団の占拠によって90年代にレジデント・アーティストの活動の場に生まれ変わりました。選ばれた約40人の地中海世界出身作家の作品展示は、建物屋上から市街と地中海を一望できるパノラマ・ツアーつき。



<Matamore>
Friche中庭のテントで上演された移動サーカスは、1月から2月にかけてのひと月に50演目が延べ200回も上演される<Cirque en Capitales>の一環としてのプログラム。この日は満員御礼だったので、開演直前まで待ってキャンセル券を入手して見ました。でも、観客の熱狂ぶりに私は今ひとつついていけなかった。

カンティニ美術館の<Matta>展
数年にわたった改装工事が完了し、この週末にリニューアル・オープンしたマルセイユ中心部のカンティニ美術館で開催中のチリ出身のシュルレアリスト、マッタ(1911-2002)の大規模な展覧会。異文化のなかで生きることで自己を確立し、戦争、内戦、植民地問題、学生運動などの同時代史に対峙しながら創作した画家の発言もちりばめられて、たいへん興味深かったです。

そして、バスで30分ほどのエクサンプロヴァンスで
<L’art en endroit> (場のアート)
作品と設置場所のコンテクストが互いに響き合うことが意図されたアート・プロジェクト。表玄関の大噴水から伸びる並木を覆う草間彌生の水玉模様がメインストリートの表情を一変させていました。地図をみながら10数か所の作品をめぐる散歩の第一の魅力はエックスの街のさまざまな表情に出会うこと。週末限定で作品の傍らに立ち、訪問客と対話するメディアトゥール(médiateurs – 直訳だと仲介者)の多くは大学で文化メディエーションや美術史を専攻した若い女性で、質問すると自分の見解で応えてくれました。




 欧州文化首都2013年のシンボル的存在、マルセイユの「ヨーロッパ・地中海文明博物館MuCEM」(le musée des Civilisations de l'Europe et de la Méditerranée)は六月開館予定だそうで、Rudy Ricciottiによる斬新な建築が港のサン・ジャン要塞と空中歩道で結ばれてその姿を表わしたところでした。自然史博物館、美術館、天文台がある19世紀建築ロンシャン宮(Palais Longchamps)の修復工事完了も初夏になるようです。


 四月には音楽イベントも始まり、続いて六都市で大道芸(街頭演劇的なarts de la rueの日本語がこれでよいのかは迷うところ)イベントもさかんに繰り広げられるそう。プロヴァンスの夏には、もともとエクサンプロヴァンス音楽祭やロックダンテロン音楽祭などもあり、おおいに賑わうことでしょう。

 現地を見て、今回の文化首都の顕著な特徴は、複数都市圏の連合プロジェクトでありながら巨大設備投資がマルセイユに集中していることではないかと感じました。植民地政策とともに経済発展を遂げ、その終焉後に多様な文化的背景をもつ人々を受け入れ、21世紀には地中海世界の中心を標榜しつつ国やEUの政策を引き寄せて公共事業を呼び込むたくましい港湾都市。

 「J1」は2004年欧州文化首都でリール駅近くに誕生した郵便物区分所の転用によるアートセンター「Tri Postale」に倣ったとのこと。その後リールでは活動を永続させるアソシアシオンが結成され、欧州文化首都から10年ほどを経た現在、都市のアート・シーンはますます活性化しています。マルセイユ=プロヴァンス欧州文化首都の真価が問われるのも、実は祭りのあとなのかも知れません。

(ykn)

2013年2月19日火曜日

お手紙の話

下の記事でM.Oさんが書いておられるように、第12回文化資源学フォーラム「地図×社会×未来 わたしたちの地図を探しにいこう」は、無事に閉会しました。こちらのゼミの中でも、急遽お手伝い頂いた先輩方や、当日足を運んでくださった先輩方がおられます。小林先生にも、直前の直前まで(!)厳しいご指摘と温かいご指導を頂きました。この場を借りて、お礼申し上げます。

さて、昨日は研究室にこもって、フォーラムでお世話になった方々へのお礼状書きに精を出しておりました。ふと気づくと、最近手で文字を書く機会がとても少なくなり、ましてお手紙となると、本当にめったに書かなくなったなぁと思います。少し前に、世代間ギャップを扱ったテレビ番組を見ておりましたら、60代以上のタレントさんたちが、「最近の若者は手紙を書かない」というので憤っておられました。ここまでは、よくある”最近の若者”像なのですが、それ以上に印象的だったのは、10代~20代のタレントさんたちが「でも、毎年年賀状だけは出す」と口々に言っていたことでした。確かに「あけおめメール」の普及と同時に、年賀はがきを書く枚数は減りましたが、年始に何らかのメディアを使ってお互いの無事を祝い合う、コミュニケーションのあり方それ自体は、脈々と受け継がれているように感じます。

検索したら、ちょっと面白いウェブサイトを見つけました。作家や画家や漫画家などの著名人の年賀状や、世界各国の年賀状が紹介されていて、目に楽しいサイトです。見ているうちに、来年は手書き年賀状に挑戦しようかな、などと気の早い決心をしてしまいました。

年賀状博物館
http://www.nengahaku.jp/

昨日のお礼状書きの際、必要があって時候のあいさつを調べましたが、今の季節は、「晩冬の候」「余寒の候」「春寒の候」「梅花の候」などが使えるそうです。毎日寒いですが、早く春が来ますように、という気持ちを込めて、「向春の候」を選びました。感謝の気持ちが伝わるといいなと思います。

(mio.o)

2013年2月18日月曜日

The Falling Soldier


先日、 Robert Capaの『崩れ落ちる兵士(Loyalist Militiaman at the Moment of Death, Cerro Muriano, September 5, 1936)』を扱った沢木耕太郎推理ドキュメント「運命の一枚~“戦場”写真 最大の謎」(NHKスペシャル、2013年2月3日放映、2月7日再放送) を見ました。

あまりにも有名でありながら、あるいは有名であるが故に、謎に包まれていた写真に関して呈された推論は、earthshakingで大変興味深かったです。それを踏まえて改めてマグナムの結成を思うと、なんとも言えない気持ちになります。
一方で、あの時代を生きた人達にあの一枚が与えた衝撃を思うと、今更その真偽は取るに足らない事であるとも感じました。あの写真に隠された真実があったからといって、当時の人々が受けた衝撃は消せないし、私たちにとってのCapaはCapaのままです。

そう思うと、写真というメディアのおかれている特異な環境を改めて感じます。

さて、放送された番組は、現在横浜美術館にて開催中の「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展(3月24日まで)に合わせて放映されました。私も是非展覧会に行ってみたいと思います。

そんな訳で、展覧会ウェブサイトのイベント欄を眺めていたところ、CapaのドキュメンタリーやCapa自身が撮影アシスタントを務めた映画の映像上映と並んで、宝塚歌劇団宙組によるキャパの半生を綴ったミュージカル『ロバート・キャパ 魂の記録』の公演記録映像上映というのを見つけました。

全然知らないので素人の第一印象ですが、写真家をテーマにしたミュージカルって珍しくないですか?
そもそも、写真を撮るという行為をアウトプットとしての写真画像に頼る事が出来ないミュージカルの中でどのように描くことが出来るのか、かなり興味あります。
バックスクリーンに写真画像を映すとか?でもそれってちょっと白けますよね。。。
どなたか、この公演をご覧になった方いらっしゃれば是非教えて下さい!
(M.O)

第12回文化資源学フォーラム「地図×社会×未来 わたしたちの地図を探しにいこう」実行委員雑記


この度は、 第12回文化資源学フォーラム「地図×社会×未来 わたしたちの地図を探しにいこう」にご来場頂き、誠に有り難う御座いました。
御登壇頂いた方々、インタビューでお世話になった方々、研究室の先生・先輩方、その他ご協力頂いた全ての皆様に、この場をお借りして改めて御礼申し上げます。

今回のフォーラムについては、報告書を作成しフォーラムのウェブサイトに掲載する予定です。是非ご覧になって下さい。

さて、報告書の完成を目指す間、こちらのブログでは個人的な所感などを書きたいと思います。

改めてこの1年弱を振り返ると、それはフォーラムの準備期間とも重なります。
正直なところ、自分の研究とは直接関係のないテーマについて、これだけ長い時間をかけて議論することになろうとは、入学当初は思いもしませんでした。

私は、地図についての知識やフォーラム企画・運営の経験も無く、また自分の研究調査のため年末年始には日本を離れたりと、実行委員のメンバーには迷惑をかけてばかりでしたが、皆に助けられ、教えられながらなんとか開催にこぎ着けたわけです。

その過程を通じて、私たちが面白みを感じているのは対象そのものというよりはむしろ、対象を通じて見える社会やその思考プロセスであり、その限りにおいてあらゆる可能性がある事と、だからこそそれを人に伝えるためにはしっかりした根拠と工夫が必要だという事を学びました。
ついでに、Prezi(プレゼンツール)と社会調査法の基礎の基礎についても齧る機会を得ました。
それと、独り言が多くなりました。

運営側ではありますが、フォーラム当日には、異なる立場から地図についてご講演頂いた3名の方々が本フォーラムのアプローチを通じて「繋がっていく」感覚に単純に興奮しましたし、会場からフォーラムのタイトルについての質問を含む積極的なレスポンスを受けた事にも感動しました。

余談ですが、コーディネーターのPくんはこのフォーラムを通じて地図界隈の方々に名前が広まった様です。良かったですね。

地図のフォーラムを終え、私たちは学生発表でMPくんが熱弁してくれた様に「わたしたちのチーズを探しに」いってきます。

来年度はどんなフォーラムになるのでしょうか?
是非、来年度の文化資源学フォーラムにもお越し頂きます様、宜しくお願い申し上げます。
(M.O)

2013年2月15日金曜日

1942年2月のシンガポール- the Battle of Pasir Panjang Commemorative Walk

 2月上旬はシンガポール国民の8割に相当する中華系の人々が春節(旧正月、今年は2/10)を祝うため、買い物や掃除、帰省ラッシュ、初詣など行い日本のお正月さながらの賑わいとなります。また2月14日のバレンタインデーには男性が女性に花を贈る習慣も広がりつつあるようで、街中では花束を手にしたカップルを見かけることもしばしは。しかしそう遠くない過去を振り返ると、1942年の2月は日本によるシンガポールの占領が始まった時期だということに気づきます。今回はそんな時節に開催された戦争史跡を巡るツアーThe Battle of Pasir Panjang Commemorative Walkをご紹介します。


1.ツアーはこのHeritage Trailに沿って進んだ。
 The Battle of Pasir Panjang Commemorative WalkはRaffles Museum*のスタッフが年に一度だけ開催する、歴史遺産と自然の散策ツアー。Pasir Panjanとはマレー語で長い砂浜を意味します。シンガポール東南部に位置し国立大学(NUS)のキャンパスがあるこの地域は現在Kent Ridgeと呼ばれ、海側は一面埋め立てとコンテナターミナルで砂浜は見る影もありませんが、市街地のビル郡とタンカーの浮かぶ海が一望できる地形はここが軍事的な要所だったことを物語っています。1942年2月8日シンガポールに上陸した日本軍は、同月13日、このPasir Panjang地域でシンガポール最後の戦いのひとつとなる激戦を繰り広げます。今年のツアーはNUSと国立アーカイブの協力のもと2月9日に行われ、お正月前の早朝にもかかわらず年齢も国籍も様々な20名以上の参加者が集まり、約5キロの散策(写真1)に向けて出発しました。

2.土着の植物が生い茂る道路。
政府の進める芝生を使った緑化では
ここまでの多様性は確保できないとのこと。
出発点はClementy road近くに位置するUniversity Cultural Centre。2月13日に南下してきた日本軍18師団とこの地域を守備していた第一マレー連隊、英国第二砲兵連隊、第44インド旅団との間で戦闘が始まった場所といわれています。今回のツアーを引率した生物学者N. Sivasothi aka Otterman氏は、臨場感あふれる語り口と客観的な視点で戦時中の歴史から生態系までを幅広く紹介してくれました。またNUSの初期の校舎については建築学者が、キャンパス内の自然やPasir Panjangがまだ砂浜だった頃の記憶は幼少期を当地で過ごした地域の方々が雄弁に語ってくれました(写真2)。国の土地利用計画が先月発表されたばかりということもあり、持続可能で土着の生態系を維持できる開発と環境保全に関してもガイドと参加者の会話は盛り上がったのですが、なんといっても我々日本人に重く響いたのは戦時中の記憶でした。
3.NUSのキャンパス内に残るイギリス軍の
見張り小屋の廃屋。通常は立ち入り禁止。

 開発の過程で丘を削り海を埋め立ててきたシンガポールにありながら珍しく丘陵の地形が残っているNUSの敷地を歩きながら、暑さの中戦った各国の兵士たちに想いを馳せます。NUSキャンパス内に現存する英軍基地の遺構を巡り(写真3)、大学に隣接するKent Ridge Parkへと歩みを進めた私たちは、急な階段を息を切らして登り、高台の上に立つ記念碑にたどり着きました(写真4)。ここはPasir Panjangの戦いで最後の拠点となったBukit Chandu(アヘンの丘)と呼ばれる場所。記念碑は数的劣勢にもかかわらず二日間にわたって日本軍の侵攻を食い止めたマレー連隊と隊を率いたAdnan Saidi中尉の功績を伝えるもので、英語、中国語、マレー語、タミル語、日本語で解説が書かれています。
4.Bukit Chanduに立つ記念碑。

 Bukit Chanduからユーカリの大木が植わっている坂道を下ると、緑が美しい森を見下ろす吊橋のようになった遊歩道に出ます。爽やかな風が吹き抜ける遊歩道の中程には戦史を伝える解説パネルが(写真5)。遊歩道から見えるアレクサンドラ病院は、戦時中アジアで最も優れた技術と設備をそなえる英国の軍事病院でした。2月14日の午後、Bukit Chanduでマレー連隊を破った日本軍はこの軍事病院を襲撃し無抵抗の入院患者や医療関係者200人余りが虐殺されたとの解説がなされています(ツアーガイドが、虐殺を遺憾に思った日本の司令官が後日謝罪に訪れたと補足してくれましたが、謝罪の事実は文書や博物館の展示では確認できていません)。

5.軍事病院での虐殺を解説するパネル。
吊橋遊歩道を渡ると、ツアーの終着点・Reflections of Bukit Chanduが見えてきます(写真6)。National Archivesが運営するこの戦争記念館はPasir Panjangの戦い60周年を記念し2002年にコロニアル様式の邸宅を改装してオープンしました。内部には戦時中の遺留品が展示され、数少ない生存者の語りと当時の映像が日本軍の上陸からシンガポール陥落までの過程をドラマチックに伝えています。Kent Ridge Park(Bukit Chandu)の記念碑も、この記念館も、今回のツアーなしに訪れたら国のために命を散らした愛国者達のヒロイズムのメッセージとして私たちには演出過剰に映ったかもしれません。しかし肉親を戦争でなくしたシンガポーリアンや戦後この地に住み続けてきた人々と対話をしながらの散策の後では、一般化された戦争の悲劇ではなく個人の記憶としてまず耳を傾けるべきだという気持ちが勝りました。5時間近くにわたる散策の後で疲れきっているに違いないほかの参加者も同じ思いを共有したようで、記念館の展示を熱心に鑑賞していました。

6.戦争記念館の概観。
日本語のオーディオガイドも貸し出している。
当地の日本人学校ではシンガポール攻略と占領時代の歴史についてかなり詳細な授業が行われるそうですが、仕事で移住した日本人の中には東南アジアの戦史に触れずに帰国してしまう人も多いのではないでしょうか。多くの人々が日本食やポップカルチャーを愛好し、日本語学習者も多いシンガポールは、日本人にとっても居心地のいい環境です。シンガポールがビジネスの拠点や旅行先として注目を集める今だからこそ、好意的な側面だけでなく、多くの犠牲を生んだ第二次大戦と中華系住民やゲリラの粛清が行われ、シンガポール人が「暗黒の日々」と呼ぶ日本の占領期の歴史に意識的に向き合っていく必要があると痛感したツアーでした。今回の散策に参加した日本人は私と友人の二人だけでしたが、71年前シンガポールが昭南島となった2月15日に、この活動と史実を共有したいと思いこれを書いています。みなさんがシンガポールにいらっしゃる際、この遠くない昔の記憶を少しでも思い出していただけたら幸いです**。(齋)
 
*The Raffles Museum of Biodiversity Research (RMBR) 1998年に設立された研究機関。シンガポールの創設者で優れた博物学者でもあったスタンフォード・ラッフルズと1849年に彼の意思により設立された自然史博物館にちなむ。現在はNUSの一部として当時の自然史関連の所蔵品を管理、自然科学の調査研究を行い、ギャラリーで成果を展示している。  
**シンガポールにおける第二次世界大戦と日本占領期の歴史については国立博物館や、イギリスのArthur Percivalが山下奉文に降伏宣言をした旧fフォード工場でも展示を見ることができます。

2013年2月11日月曜日

手段的な芸術の捉え方について


去る2月6日、「文化庁長官と語ろうの会 ~芸術は社会に役立つか~」という会が東京藝大上野校地第一講義室にて行われ、その際に用いられたスライドがネットを中心に物議を醸した件について。

私はその場に居なかったので、発言やスライドの一部があたかも文化庁長官の主張の要旨そのものであるかの様に取り上げられてしまうネットの危険さを考慮しつつ、文化経営学専門分野に所属する者としてチェックしていました。

個人的な良い発見としては、1年前の自分であればまず単純に嫌悪感を抱いて遠ざけたであろうこうした議論を、静観できる自分が居ました。

一方、あまり良くない発見としては、日本でこうした議論がおこる度にある種の気まずさを感じるという事。
芸術の重要性を語る時・語られる時、そしてそれが社会に投げかけられる時、どうしてこんなにも居心地の悪さを感じるのか。
私達の社会にはまだまだこうした事について継続的・具体的に議論し合う場が必要だと思います。
その意味で、この白熱教室は意義があったのではないかと思いました。

備忘録として、徒然でした。
(M.O)

2013年2月5日火曜日

ブラジルの文化省は「文化ヴァウチャー」を実現する。



皆さん、こんばんは。
MPです。

現在のブラジルの文化に関して、皆にすこしづつご紹介したいと思います。

現在、ブラジル文化省は「文化ヴァウチャー」(ポルトガル語ではVale Cultura)の企画に注目している。このプロジェクトの目的は文化へのアクセスを広げることだ。文化ヴァウチャーのプロジェクトは2009年に発足したが、2011年までブラジルの国会からの承認はなかったため、基本プロジェクトの修正がされて、その結果国会の承認が下りた。今年1月27日には大統領が文化ヴァウチャーを承認して、今年の7月までに実際に扱うことが出来るようになる予定がある。
ヴァウチャーは、国民一人に50レアル分を、文化と関係する商品(本、映画館のチケット、雑誌とDVDなど)を購入することに使うために作られる。形は磁気カードとして企画されている。
その文化ヴァウチャーの対象となる人々は、月の所得がブラジルの最低賃金の5倍(3,110レアル=約140,000円}までの人々となる。しかし最初のプロジェクトには公務員と退職者が対象に含まれていたため、国会での承認は難しかった。その後、プロジェクトは修正され、国会の承認を得たものの、その対象から公務員と退職者は消されざるを得なかった。
 このプロジェクトにおける一人当たりの給付額の50レアルは税の優遇制度のもとで作り出せることになっている。ヴァウチャー券は、企業がその企業の雇用者に発券する仕組みになる。そこで、雇用者に券を与える企業はその内の45レアル分について納税時に免税を受けられる。そのほかの5レアル分は給付金(券)を受ける人の賃金から差し引くこととなっている。
 しかしすべての企業が義務としてプロジェクトに参加することは決められておらず、労働者自身もヴァウチャーを受け取らない選択も出来る。これから文化省はヴァウチャープロジェクトに参加する企業を広げる交渉を始める。

2013年2月のフランス便り(2)― 土地の記憶と世界をつなぐ美術館

 モンパルナス駅近くの静かな路地奥にあるモンパルナス美術館は好きな場所のひとつ。かつて多くの外国人画家や彫刻家がアトリエを構え、知識人や作家らと隣り合って交流しながら生活したこの場所で、土地の記憶に発想を得た展示を行っている小さな民営(アソシアシオン)の美術館です。交流、混淆、文化多様性に価値を置き、土地にゆかりの作品を展示するだけでなく、フランス植民地の問題を取り上げたり、現代のアフリカやアジアの美術を紹介するなど広く世界に開かれた企画展が特徴です。



 今回は「ピサノ展」の案内をいただいて行ってみました。エデュアルド・ピサノ(1912-1986)は、スペイン内戦でフランスに亡命するものの収容所に送られ、戦時下のサン・ナゼールでドイツ軍の基地をつくる強制労働に就きます。戦後はパリを拠点に、故郷スペインの風景や人物をモチーフにした作品を多く描きました。前述の「戦争における芸術」展にもつながる内容でしたが、60点ほどの展示作品はどれも力あふれる魅力的なもので、これまであまり紹介されなかったというのが不思議です。

 レセプションで隣にいた女性は、初めてこの美術館を訪問したそうでした。子どもの時にフランスに移住した彼女、活動しているスペイン出身者コミュニティのアソシアシオンあてに招待が届いたそうです。「私はアソシアシオンを代表して来なければいけないから。ずっとパリに住んでいるけれど、知らなかった場所。思いがけない発見だった。」自分のアソシアシオンへの誇りが素敵でした。美術館は関係者を招くだけでなく、ゆかりのコミュニティを新しく巻きこむ働きかけで現実に交流の場をつくりだしている訳です。後半は満員の会場でサングリアがふるまわれ、盛り上がりました。

 1970年代の文化政策についての文章でたびたび引用されていた、ポルトガルの詩人ミゲル・トルガによる一節「普遍とは、壁のない場所 l’universel, c’est le local moins les murs」を思わせる光景に2013年のパリで出合ったと思います。とはいえ、忙しく走り回っていたスタッフを別にすると、会場の平均年齢がかなり高めだったのはちょっと気になるところでした。

(ykn)

Green Corridor Run-旧マレー鉄道路線の保存運動にみる使って守る文化資源

 常夏の国シンガポールでは、年間を通じて27℃前後という暑さにもかかわらずランニングが人気で、真夜中のフルマラソンや動物園を走る大会など数々のユニークなレースが開催されています。今回はその中の一つ、廃線になったマレー鉄道の路線跡を6000人以上が駆け抜けたGreen Corridor Runを通して、地域の文化資源を使って守る可能性を考えてみたいと思います。

国の歴史遺産に指定されたTanjong Pagar駅がスタート地点。
シンガポールの朝7時はまだ暗い。
シンガポールからマレーシアを通ってバンコクに到る路線は日本でもマレー鉄道(狭義にはマレーシア国内の路線のみを指す)の名でお馴染みです。シンガポールのほぼ中央部を南北に走る路線は、マレー半島からスズやゴムを効率よく輸送するためイギリスの植民地だった1903年から運行が始まりました。当初は船で海峡を渡っていたそうですが、1923年に半島に繋がる橋・コーズウェイが竣工すると鉄道はマレー連合州(Federated Malay States、イギリス保護領、1895–1946)が買収。マレーシアとシンガポールの独立後もシンガポール領内の路線はマレーシア鉄道公社(Keretapi Tanah Melayu Berhad)が運営し、敷地はマレーシア領となっていたのです。

敷地の所有を巡っては両国間で中々話がまとまらずにいましたが、2011年6月にようやくシンガポールの港(南端)の近くTanjong Pagar駅とその中の出入国審査場が、マレーシアとの国境に近いWoodlands(北端)に移転しました。そしてTanjong Pagar駅とWoodlands駅を結んでいた全長約26kmに及ぶ路線とそれを取り囲む豊かな自然は、シンガポール政府が自由に開発できる敷地となったのです。(2010年5月時点ではマレーシアとの合弁会社が共同開発を行なう予定だったが同年9月シンガポール政府が単独で開発することが決定。)

 都市再開発局(Urban Redevelopment Authority)は開発と環境保護の両立を目指すと言っているものの、線路の周辺に広がる緑と鉄道関連の歴史遺産が失われると危惧したNGO・Nature Society (Singapore)(1991設立)は2010年10月、政府に意見書(PDF)を提出。Nature Societyの主張に賛同した人々は"Green Corridor保存運動"を始めました。Green Corridor運動はFacebookウェブサイトを通じて急速に支持を増やし、都市再開発局も枕木などの撤去作業を進める一方で、路線跡を歩くイベントや再開発のアイディアコンペ、展覧会などを開催して鉄道遺産の価値をPRし始めました。2011年、美しい建築のTanjong Pagar駅は国の歴史遺産に登録され、沿線上にある小さな駅の一つで煉瓦造りのBukit Timah駅も歴史的建物として保存されることが決まり、Tanjong Pagarの駅舎を使った展覧会などが開催されました。
プラットホームでスタートを待つランナー達。

 駅舎など歴史的建造物はロケ地や展覧会場として活用しその価値を発信していくことが出来ますが、建物だけでなく線路跡全域の保存を目指すGreen Corridor運動は、26kmに及ぶ緑の回廊の魅力を多くの人に伝えるため知恵を絞りました。そうして開催されたのが今回のGreen Corridor Runです。暑い中26kmを歩いて制覇しようという人は中々居ませんが、ランニングブームのシンガポールには線路を走ろうという人なら沢山居ます。大勢の人が緑の回廊を駆け抜ける姿は、歴史や自然愛好家のコミュニティだけでなく、レースに参加しない一般の人々にも充分なインパクトを与えます。レースが好評なら次もまたやろうという機運が高まり、駅舎だけでなく線路跡全体を保存することに繋がっていくでしょう。

 レースは前述のTanjong Pagar駅からBukit Timah駅までの10.5kmの区間で行なわれました。まだ薄暗い朝7時、かつて郵便列車も停まっていたというTanjong Pagar駅の長いホームは写真のように多様なランナーで埋め尽くされました。線路跡からはほとんど枕木等が撤去されているのですが、ホームの奥には一部線路が残されており、スタート位置に向かうランナーはこの線路を見て在りし日のマレー鉄道に想いを馳せることができる仕掛けになっています。
枕木などが撤去された線路跡の道を走る。

 マレー鉄道はシンガポールのど真ん中を走っていたにもかかわらず、線路の両脇には豊かな自然が広がっています。また道中は鉄道関連の遺産だけでなく、団地の近くでは家庭菜園や愛鳥家が自慢の鳥かごを飾るポールなどシンガポールらしからぬ長閑な光景が目に飛び込んできて、ランナーを驚かせます。コースの所々には「泥に注意」「石に注意」といった標識が出ていて、参加者たちは泥だらけになりながらゴールを目指しますが、それも貴重な体験。参加者の多くはタイムを競うだけでなくコースの魅力を楽しんでいるようでした。
 そしてゴールのゲートをくぐると、Bukit Timah駅の可愛らしい駅舎と残された線路が見えてきます。マッサージコーナーもVIP席もありませんが、ランナーたちは走った疲れも忘れて、駅舎の中をのぞいたり、線路の上で思い思いのポーズで写真を撮ったりしていました。中でも古い駅名票は人気で記念撮影のための列ができるほどでした。また、Nature Societyのブースでは多くの参加者や家族がスタッフの説明に熱心に耳を傾けていました。

歴史的建造物として保存されるBukit Tima駅。
残された線路で休憩するランナー。
このように、Green Cirridor RunはNature Societyが政府に提出した意見書で描いた敷地利用案を体現したイベントでした。6000人以上のランナーとその家族、運営に携わったボランティアの数だけを考えても、多くの注目が集まったことがわかります。今年1月31日、政府は土地利用計画(PDF)を発表、旧マレー鉄道跡地は国民が余暇を過ごす”green Rail Corridor”として整備されることが明記されました(p.34)。しかしGreen Corridor運動の支持者たちの中には、線路跡全域が自然公園に指定されるまで再開発の懸念は消えないという声もあり、運動はまだまだ続く模様です。政府が強力に開発を推し進めてきたシンガポールですが、私が住み始めた2年弱の間にも様々な場所で歴史遺産や自然の保存運動が始まっています。演劇や宗教儀礼の実践に見られる工夫と同様、国の規制が厳しい中だからこそGreen Corridor Runのように優れた戦略を持って代替案を提示する市民運動が生まれてくるのではないでしょうか。2030年までに市民が自らの手で"上質の生活環境"をつかみとることができるのか、引き続き見守っていきたいと思います。(齋)

2013年2月3日日曜日

2013年2月のフランス便り(1)― 「戦争における芸術」展


 約二年ぶりにフランスにやってきたyknです。

 論文のための文献確認が目的ですが、もうひとつ大事なのは「2013年2月のフランス」を生きること。だから、私版のフランス便りはタイトルも2013年2月限定です。 三週間の短い滞在中に出会うことを、ここに書き留めていこうと思います。

 到着から一夜明けた土曜日、パリ市近代美術館の展覧会を観に行きました。L'Art en Guerre France 1938-1947。シンプルなタイトルは、1938-1947年のフランスで「戦争状態にあった芸術」とでも訳した方がよいかしらと思います。戦争の時代に芸術もまた闘っていたのだという意味もあるでしょうか。

 スペイン内戦翌年から冷戦開始までの10年間に創作された多数の作品を展示し、当時のアーカイヴ映像コーナーも設けられたこの展覧会で「文化政策」という言葉は一切使われてはいないものの、戦後の文化政策史を研究する私にとっては、その前に起こったことの重さを意識させてくれる展覧会でした。

 会場のパリ市近代美術館は1937年博覧会で建てられたパレ・ド・トーキョーに1942年に開設された国立近代美術館が前身です。ナチスドイツ占領下の開館時は外国人作家の作品や抽象画を一切除外してフランスの近代美術50年が展示されたそうです。その場に立つからこそという部分も今回は大きかったように思います。

 十部構成の展覧会は、1938年にパリで開催されたシュルレアリスム国際展に始まり、その年から1946年までフランス国内に存在した強制収容所で生まれた作品の数々、占領時代ヴィシー政権下の芸術家の活動、芸術家を支え続けた個人ギャラリーの活動、国土解放(リベラシオン)後の文化シーン、戦後の美術への影響など、明暗の際立つ波乱の時代をもっぱら作品そのものの展示で見せてくれました。

 全体を観終わって思うのは、政権に利用された象徴としての芸術と、同時代の収容所で生まれていた切実な芸術の間にある隔たりの大きさです。前者は芸術とくに美術が社交や公共空間のなかで大きな役割を果たしていた近代社会でこそ政策の対象となった訳ですし、後者は人類が誕生して以来普遍的でもっとも根本的な欲求が生みだすものだと感じさせられました。

 「人質」(Jean Fautier)連作展(1945年)に、後の初代文化大臣で作家のアンドレ・マルローが寄せた序文に「近代美術は、芸術の概念と美のそれが分離したときに生まれた」という一文を見て、なんだか胸をうたれました。「文化政策」の実践者が人間にとって芸術とは何かを真に問うているか、を垣間見たようでした。

 翻って、日本社会での芸術とは?などいろいろと考えさせられたのですが、さまざまに課題を再認識する展覧会となりました。

(ykn)

JAZAシンポジウム


公益社団法人日本動物園水族館協会(JAZA) 主催、 300名の定員が1週間弱で満員になった注目のシンポジウム「いのちの博物館の実現に向けて──消えていいのか、日本の動物園・水族館」に行ってきました。

【概要】
動物園や水族館の最大の魅力は、生きた本物の動物に向かい合い、体感できることです。
しかし、近年、動物園・水族館をとりまく環境は厳しく、新たな未来像が求められています。
このシンポジウムでは、動物園・水族館を「いのちの博物館」ととらえ、その果たすべき役割、課題などについて考えます。
◎開会・問題提起 「消えていいのか、日本の動物園・水族館」 山本茂行氏(JAZA会長、富山市ファミリーパーク園長)
◎基調講演──1「動物園の現状と飼育動物繁殖の問題点」 日橋一昭氏(JAZA生物多様性委員長、埼玉県こども動物自然公園園長)
◎基調講演──2「水族館の現状と問題点」西 源二郎氏(東京都葛西臨海水族園園長)
◎パネルディスカッション 
 コーディネーター 木下直之先生(JAZA広報戦略会議委員、東京大学教授)
 パネリスト:大橋民恵氏(JAZA広報戦略会議委員、NPO法人市民ZOOネットワーク代表理事)、林良博先生(JAZA顧問、東京農業大学教授)、西源二郎氏(東京都葛西臨海水族園園長)、日橋一昭氏(JAZA生物多様性委員長、埼玉県こども動物自然公園園長)、山本茂行氏(JAZA会長、富山市ファミリーパーク園長)

「消えていいのか」というタイトルの裏には、「消えてはいけない」という意識と危機感がある訳ですが、それをより深く、
・どういった経緯でこのような危機感が芽生えたのか
・何故消えてはいけないのか
・どういう部分を消したくないのか
・消えない様にするにはどうすればいいのか
といった具合に掘り下げて行く、刺激的なシンポジウムでした。

パネルディスカッションでの主な議題は、
・飼育展示動物の減少、入手、保全、繁殖の問題
・ 動物福祉
・これらの施設(主に動物園)を取り巻く構造上の問題
・公共財としての生物及び施設
・社会的地位や存在意義の不安定さ(娯楽施設か教育機関か)
・動物園、水族館の理念を示すための法律、制度の整備の必要性
などがあり、フロアからも様々な立場の方からの御意見や質問が飛び交っていました。

個人的に印象的だったのは、動物園の方々が「戦後型」動物園(復興の装置として各自治体に作られた)のシステムの限界とそれ故直面する挑戦について多く言及したのに対し、水族館は種の保全・館の運営といった側面において多少異なる立場にある、という点でした。
水族館が1987年以降、新規開館あるいはリニューアルを数多く果たし、大人も楽しめるテーマパーク化していったのに対し、動物園の方は近年そうした事例がほとんどないというデータに驚きました。
域外保全や人間形成において動物園・水族館の果たしうる役割をアピールして行く事と同時に、それらをマネジメントして行く事の重要性を改めて感じました。

「JAZAが全体のシステムの中で動物園・水族館に関する共有できる価値を広め、責任を負って行く」という山本会長の力強いお言葉もあった通り、このシンポジウムは今後日本各地を巡回して開催されます。
私達が一回限りではなく継続的な関心を持って、「いのちの博物館」の未来を議論し、より良い未来を模索する事が大切である、と林先生がおっしゃっていましたが、自分たちの社会に関心を抱く姿勢は、この「いのちの博物館」に限らず、あらゆる方面において現代社会に生きる人達が育んで行くべきものであると考えます。

今回参加された方も、残念ながら出来なかった方も、是非JAZAのウェブサイトをご覧下さい!

そういえば、日橋園長の講演の最後に出された、キジの飼育保全上の優先順位の答えは結局・・・?
(M.O)