2013年5月15日水曜日

義経一行の向かった先は


 加賀の国・安宅の関を抜けようと白紙の勧進帳を天も響けと高らかに読み上げ、関守・富樫との緊迫した山伏問答をやりあい、主君である源義経を杖で叩き、見事一行の関の通行許可を勝ち取る文武両道の豪傑武蔵坊弁慶。能においては『安宅』、歌舞伎では『勧進帳』としてよく知られるこのエピソード。山伏に扮した義経一行が安宅の関を抜け向かった先が出羽の国・羽黒山であることは、あまり知られていないのではないでしょうか。
 『安宅』『勧進帳』の原作である、義経とその主従を描いた軍記物語『義経記』には、義経一行が安宅の関を抜け出羽の国・鼠ヶ関へ上陸し羽黒山へ参拝するエピソードが語られています。(一昨年観覧した市川海老蔵復帰公演の『勧進帳』で「羽黒山」という科白を耳にした記憶があるのだが調べても『勧進帳』の台本に「羽黒山」という言葉が見当たらないので困惑してはおるのだが…。)
 羽黒山・月山・湯殿山からなる出羽三山は古くから山岳信仰の対象ではあったのですが、出羽(いでは)神社が創設され修験道の道場として開かれるようになったのは、飛鳥時代になるとされています。崇徳天皇の第三王子・蜂子皇子が出羽の国、現在の山形県鶴岡市由良の海岸にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸しました。この後蜂子皇子は、海岸から三本の足を持つカラスに導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われています。八乙女浦は現在も古い地名として残っており、アクセスが困難であるため観光資源としては活発ではありませんが、歴史ある場所として地元民に大切に守られています(私もその地元民のひとりですが)。また皇子を導いた三本足のカラスは言わずと知れたヤタガラス(八咫烏)であり、「国を導く者」であるとしてサッカー日本代表のユニフォームの胸部に刺繍されるエンブレムに代表される日本サッカー協会のシンボルマークとして、また陸上自衛隊中央情報隊等のシンボルマークなどにも採用されています(神武天皇を熊野国から大和国へ導き、日本という国を生むきっかけを演出した天照大御神によって送られたカラスも八咫烏であると言われています)。
 また、西に位置するお伊勢様、伊勢神宮を意識するように東に存在する出羽三山を詣でることを「東の奥参り」とも称したそうです。つまり「伊勢参宮」を「陽」、出羽三山を拝することを「陰」と見立て“対”を成すものと信じられ、一生に一度は必ずそれらを成し遂げねばならない、という習慣が根強くあったのだそうです。
 昨日のゼミで「羽黒山・月山・湯殿山それぞれに神社がある」という話に対し少し濁した変な反応をしてしまったことを説明しますと、確かに三山それぞれに神社はあるのですが、実はそれらすべてが羽黒山の山頂に「羽黒山三神合祭殿」としてひとつの建物にまとめられて合祀されているのです。つまり、三山それぞれにひと柱ずつ三柱の神は祀られているのですが、建物としてはひとつの場所に合わせて祀られている、というのがわかりやすい言い方になるのです。
 修験道は古来の山岳信仰や仏教、道教、陰陽道などが混合して成るものであり、出羽三山神社も「神社」と名乗ってはいますが仏教的な要素も多く含んでいます。有名な即身仏もそういった仏教系の修行であり、天台宗の羽黒山・月山派ではなく真言宗の湯殿山派で行われたものであるそうです。真言宗と東北地方との関係性も調べていくと非常に奥深く興味深いものです。

 義経一行はもちろんこのあと奥州平泉へ向かうことになるわけでありますが、その経路として出羽の国・庄内を経由したことで、現在の庄内地方には多くの義経・弁慶ゆかりの地が残されているというわけなのです。
 昨年度ゼミ合宿の行き先が安宅の関を持つ加賀の国であったことから、義経・弁慶の後を追い、出羽の国へ参ってみるのも一興ではありませんでしょうか。

 (志)

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