2012年5月30日水曜日

偏り、差違

(い)さんが書いてくれた経験は、私自身もよくします。
それを「偏り」と表現すればいいのかどうかわかりませんが、私はやはり「差違」と「受容の仕方・あり方・歴史」のように考えています。
私も先週、あるクラシックの公演で、舞台は異常なほどに盛り上がっているのに、観客が冷静なのに違和感を持ちました。ただその場面が終わった後には、大きな拍手が起きたので、観客が喜んでいたり、満足していたのは間違いありません。ただ、おそらくその団体の本拠地で公演したら、観客も一緒になって熱狂的に盛り上がっているのではないかと思います。実際に本拠地で観客として経験することは、引越公演の場合は、まず体験できません(だからこそ現場に行くのです)。そもそも周りの観客と箱が違うから当然なのです。美術の方ではサイトスペシフィックということが言われますが、生きた人間が舞台にのって観客と交流しながら公演をする舞台芸術こそがまさにそうものであると私自身は思っています。
そこで、こういう問題を考えるときに、いくつか考える視点があるかと思います。たとえば、日本における西洋芸術の受容の在り方を考える視点、たとえばクラシック音楽は「お勉強的」に受容されてきたのではないか、という見方です。たしかに、明治以降日本は西洋から導入された芸術ジャンルについて、教育で受け入れてきた経緯はあります。ただ、日本でも舞台というもの自体を「楽しく」「盛り上がって」受容してきた歴史は十分にあるので、やはり演目の内容それ自体に今ひとつ盛り上がれない文化的差違があるのではないかという視点。いや、内容は十分に共有できているのであるが、受け止めた感情を外に向けて表現することが日本人は下手なのではないかといった日本人論の視点、あるいは一人で来ている観客が多くて、隣の人と交流できないのではないかと観客行動の視点。いやいや、本来そのようなタイプの公演は、もっと観客と舞台とが交流しやすい規模の密度の濃い空間を必要とするのではないかという視点、そもそも国で補助をされて低額で公演が供給されている現地と、日本において引越公演のチケットを購入してくる観客とでは、観客(階)層が異なるという視点。引越公演として行うことと、文化交流で行うこととの違いという視点等々。実はまだまだあるのですが、考え出すと面白くて止まらなくなります。
(M.K)

0 件のコメント:

コメントを投稿