2012年5月29日火曜日

ズレから見えてくるもの。


こんにちは。社会人学生(い)です。
インターゼミで発表した後、その経験をつらつら反芻していたら、すっかり出遅れてしまいました。
先日のインターゼミは、一応文化政策というくくりはありながら、バリバリに実務的な内容から、霞を食うような問題設定まで、実態は多様で、他流試合に近いものがあったと思います。私は、学部は比較的方法論が確立している分野を専攻しており、職場でも日々の問いの立て方や範囲はおのずと限りがありますから、インターゼミで思いもかけぬ方面から飛んでくる質問は、新鮮な体験でありました。
インターゼミの経験から感じたことは、共通のバックグラウンドを持たない人同士での意思疎通の難しさです。日常生活においては、共通のバックグラウンドを持たない人と議論する機会は必ずしも多くありませんが、ひとたび何か問題が生じれば、私たちは否が応でも見知らぬ人たちと意見を交わさなければなりません(誰かが何とかしてくれるのを待つなら別ですが…)。そしてこのような場合、どのように議論を進めていくかを決めることが、すなわちある主張の立場を強化する可能性があることも、考慮しなければなりません。
何だか堅くなってしまいましたが、これは別段赤の他人同士の議論に限るものでもなかろうと思います。例えば、私はこの週末、とあるヨーロッパの伝統音楽のコンサートを聴きに行きました。会場はすばらしいホールで、聴衆は椅子に深々と腰をかけ、音に臨んだのですが、演奏されたのは美しくも湧き立つようなダンス・チューンだったのです。トラッド好きとしては、ここで踊らないまでも、リズムを取って奏者に応えたいところです。けれどもクラシックの愛好者の中には目を閉じて音に没入せよという意見の人もいるでしょう。実際、大多数の聴衆は身じろぎもしませんでした。
これを、ある音楽との関わり方が、会場の構造によりある特定の方法に偏ることになった例と考えることもできます。で、その偏りは前向きの椅子席という会場の構造だけでなく、「どのように音楽と関わればよいか(聴けばよいか、ではすでに偏りです)」という教育や一般常識によっても生じているに違いありません。その偏りは、「ふさわしい関わり方のワンセット」の中では目立ちませんが、どこかにズレが生じると、目に見えるようになります。私としては、そういったズレから見えて来る文化の偏りをうまく捉えられればなあと思っているところです。

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