2013年1月16日水曜日

Archiving Cane by Loo Zihan-シンガポールにおける表現の自由を表現活動を通じて訴える試み

Archiving Cane展のオープニングで再演パフォーマンスの映像に見入る観客

 みなさまご無沙汰しております。昨年はシンガポールでは中々キャッチすることの出来ない日本各地や世界各国からの情報に大変刺激を受けました。本年も徒然にシンガポール便りをお送りしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

 さて、中国の報道の自由を巡るニュースが世間を騒がせている昨今ですが、シンガポールも言論統制の厳しい国として有名です。芸術文化も例外にもれず、これまでに治安維持法(Internal Security Act)のもとで数々の芸術家が活動を制限されてきました。近年、政府は検閲によって活動を抑えるのではなく、National Arts Council (NAC)からの助成の有無という「より洗練された管理の手段」を使って表現の自由をコントロールしているといわれています(滝口健「シンガポール演劇と公共圏-統制とクリエイティブティの「共犯関係」」『公共劇場の10年』(2010)参照)。同時に、かつて政府によって拘束されたり、公民権を剥奪された芸術家の作品を再評価する動きも出てきています。今回はそうした潮流の一つとして、かつて過激なパフォーマンスを理由に活動を制限されたアーティストの作品を再演し、その過程をアーカイブ化した試み、Archiving Caneをご紹介します。

 1994年、22歳のシンガポール人アーティストJosef Ngと20歳の美大生が、猥褻罪に触れるパフォーマンスを行ったとして、10年間にわたり表現活動を行う権利と助成を受ける権利を奪われる事件が発生しました。”Brother Cane”と題されたJosef Ngのパフォーマンスは、ゲイの男性を逮捕するためのおとり捜査と逮捕者の実名報道への抗議を目的としたものでしたが、上演中に公衆の面前で陰毛を剃ったこと、臀部を晒したことが猥褻罪とみなされたのです(題名は12名の逮捕者が鞭打ちの刑に処されたことに由来)。Josef Ngの作品と政府の対応は世間の注目を集めたものの、当時のマスメディアの論調は「風俗を乱す下品な芸術は無用」として芸術家の活動制限を支持するものでした。

 それから18年後の2012年2月、28歳のシンガポール人アーティストLoo Zihanがこの問題作を一夜限りで再演する”Cane”と題したパフォーマンスを行いました。この作品は単にJosef Ngのパフォーマンスを再現するものではなく、"Brother Cane"事件を報じたシンガポールのマスメディア、Josef Ngが裁かれた法廷での供述書、パフォーマンスの再演(ライブと録画)、観客との討論という6つの"アカウント"を用いて、94年から現在に至るまでのシンガポールにおける表現の自由を巡る様々な見解を立体的に提示するものでした(⇒映像)。

  そして2012年12月、Loo Zihanのプロジェクトは”Archiving Cane"と名づけられた展覧会で幕を閉じます。会場となったのはシンガポールにおけるオルタナティブスペースのパイオニア・The Substation。展示物に同性愛やヌードに関するものが含まれるとして21歳以下入場は禁止されました。この「R21」の烙印が、安全清潔なシンガポールで珍しく怪しげなことが行われるらしいという好奇心を刺激し、オープニングの夜にギャラリーの前で開場を待つ学生や芸術関係者の列は静かな熱気に満ちていました。

 18年前に起こり得なかった芸術家と公衆の対話、そして表現の自由を巡る議論をもう一度喚起しようと開催されたこの展覧会には3つの仕掛けがありました。一つ目はFacebook上に作られた現在進行形のアーカイブ、二つ目はLoo Zihan本人や批評家が表現の自由と規制を論じた120ページに及ぶ冊子、そして三つ目はインターネットを通じた資金調達です。

 官民ともに積極的にFacebookを活用しているシンガポール。"Archiving Cane"のFacebookページでは事の発端となった1994年のパフォーマンスとそれにまつわる新聞報道を中心とした出来事がウォール上に時系列で表示され、現在まで続く緻密なアーカイブを形成しています。展示の準備の様子や観客の反応などもリアルタイムに反映され、主催者側と観客の双方向のやり取りも可能です。しかしソーシャルメディアが盛んなシンガポールにおいて「171いいね!(2013年1月16日現在)」は決して大きな数字ではなく、Loo Zihanが意図した公衆との対話の場となるには至っていないようです。

 上の写真の受付机に並んでいる白い冊子はギャラリーを訪れた観客に無料で配布されました(後日主催者によりネット上にも公開されました/PDFダウンロード)。Loo Zihanは実演と並んで文章による表現を重視しました。冊子には本人の他、批評家やアーティストがシンガポールの芸術と検閲について論じた記事が掲載され、2月に行われた再演パフォーマンスの台本なども収録されています。更にこの冊子は単なる批評集ではなく、観客を”Cane”プロジェクトの目撃者・共同制作者として巻き込んでいく仕掛けでもありました。観客は入場時に受付で身分証明書のコピーをとられます。年齢確認かと思いきや、各自の身分証明書のコピーはその場で冊子に綴じこまれ、観客に手渡されるのでした。また、同じコピーはギャラリーの壁にも貼られていって、観客が増えるにつれ壁が身分証明書で埋めつくされていき、展示への注目度が一目瞭然となるしくみになっていました。

 政府の助成に申し込むも却下されたLoo Zihanらは、展覧会の費用をKickstarterというアメリカの資金調達サイトを使って賄うことを目指し、会期中に寄付を呼びかけました。9日間で目標金額の8割近くを集めたようですが最終的にはZihanと主催者側の意向により募金は中止されました。Zihan自身や関係者が出資した金額も含まれていたため、そうした形で成功を演出するのはプロジェクトの意に反するとの判断からだそうです。目標の6000米ドルに達せず、Kickstarterのルールに従い一銭の支援も得ることができませんでした。しかし”Achiving Cane”のように観客との対話を目的としたアートプロジェクトでは、個々人が活動への支持を寄付を通じて表明できるクラウドファンディングの仕組みを利用することは有効でしょう。シンガポールやマレーシアの他の芸術団体もこうした手段で活動資金を集めているのを目にしました。またLoo Zihanは展覧会の冊子に寄せた文章で、公的支援なしにはアーティストが破綻してしまう現状を厳しく批判しており、政府の助成に代わる財源としてネットを使った資金調達を行うこと自体が、彼のパフォーマンスであるとも言えます。

 このように、Loo Zihanは資金調達から活動記録、政府への申請まであらゆるプロセスをパフォーマンスの一部として実施する中で、国の力で表現者が社会から消えてしまう現実と、そうした政府のコントロールから抜け出すための新しい可能性(SNSやクラウドファンディング)を示唆しました。Loo Zihanの取り組みは、芸術的な質は別としてJosef Ngの伝説的なパフォーマンスに肖って名前を売ることには成功したとする見方もあります。一見グロテスクな写真や映像に込められた切実なメッセージは、広くシンガポール社会に響いたとは言い難いかもしれません。しかし少なくとも"Archiving Cane"を目撃した当地の芸術家たちは、今後もこの不自由な環境を自覚しながら作品を生み出していくのでしょうし、社会と対峙する緊張感がシンガポールの芸術の魅力の一端を担っていることは確かでしょう。"美しく安全なシンガポール"を目指す文化政策がぶつかる芸術の毒との葛藤は、社会が豊かになるにつれて、ますます増えていくように思われます。そんな中、過去に禁止されたの表現活動の再評価・再解釈の動きは大変興味深いものでした。(齋)

追記:Loo Zihanのプロジェクトはシンガポールのアート業界に少なからぬ衝撃をもたらしたようで、複数の芸術関係者が、シンガポールの表現の自由を語るときに彼の試みに触れていました。今後の彼の活動にも注目が集まっています。

2 件のコメント:

  1. 刺激的な記事投稿、ありがとうございます。
    現代美術の面白さの一つとして、ありきたりな言い方ですが「現代社会を反映している」点があると思いますが、今回ご紹介頂いたパフォーマンスはまさにそうした時代と地域社会及びそこにおける通念の移り変わり(あるいはかわり難い部分)を示していると思いました。
    ご質問頂いたタグの件ですが、今まで特に細かい基準を定めて運用して来たわけではなく、ただ投稿者が複数いる事から結果的に細分化され過ぎたため、先日現ゼミ生でまとめさせて頂いた次第です。他の方からもタグの使用法については幾つかご指摘・ご質問があり、読みやすさという点でも一度大まかな基準を定めるべきかと考えております。
    取り急ぎ、タグの種類の減少についてのご説明させて頂きました。(M.O)

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    1. コメントありがとうございます!私も現代美術の魅力の一つは、同じ時代の空気を吸っているアーティストが、社会や人々の様子をどんな形で表現に落とし込んでいくかを現在進行形で目撃できる点だと思います。シンガポールではコンセプチュアルになり過ぎず、ヒリヒリするような熱いメッセージを込めた作品に出会えるので面白いです。
      タグの件、ご回答頂きありがとうございました。整理されて読みやすくなりました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。(齋)

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