2014年7月31日木曜日

夏休み8000字の課題

文化資源学M1に課される8000字の課題、まだ書き始めていませんが、苦しんでいます(笑)
関心を持っていることはあるのですが、それを自分がうまく扱えるのか、それを取り上げて研究になるのか、さっぱり分かっていません。

文化資源学に進学してから、私の意識の内に顕在化し、引っ掛かっていることがあります。
それは「言葉の侵略性」ということです。
響きは無駄にかっこよさげですが、たとえばこういうことです。

・私自身、上京してから標準語に染まってしまった。心を許せる(私が標準語で話すからって、心を許せないわけではないですからね笑)人には山口弁で話せるけれど、普通は頼まれたって話さない。地元の友人や家族と、東京の公の場で方言丸出しで会話するのは恥ずかしく感じる時すらある。標準語が私自身の語り方の自由を侵略している。被害妄想?
・上記と類似するが、やはり言葉の権力関係。私は中高6年間、地元山口県からお隣の広島県に通学していた。個人的には、山口弁と広島弁はかなり違う。学校では広島弁で友達と話す。それはよいとして、自宅でも、山口弁を話す両親に対して敢えて広島弁で応答する。そうした場面における私の心境は、(思春期ということも多分に影響したはずだが)間違いなく誇らしいものであったし、広島弁のほうが上位であると感じていた。言葉の隠れた(あるいは明瞭な)権力構造への問題意識。
・主に民放バラエティ番組に関して、外国人の発言に対して為される吹き替えの声色選択に、少なからぬ民族イメージの反映が感じられる。例としては、英国紳士の発言にあてられるのは低く落ち着いた男性の声である一方で、東南アジアの同年代の男性の発言には多少品のない印象を喚起する声があてられる、など。そのことの是非はともかくとして、マスメディアによる吹き替え音声の声色選択が、視聴者の話者集団に対するイメージを誘導するものとなりうることは間違いないだろう。私は常々この気持ち悪さに違和感を感じていた。放送の中立性を確保することの限界という論点。
もちろん声色だけではない。私の引っ掛かっていることを拡張すれば、語彙の選択(性別の違いだけでなく、職業的な違いや、社会的地位の違いを反映した選択)もその話者が属する集団に対するイメージを反映するものであり、かつ視聴者の聞き方を一定方向に差し向ける危険性を孕む。
・日本が戦時中、韓国などに対して行った日本語教育。言葉の侵略そのもの。

以上、非常に漠然としていますが、私が「なんだかなぁ」と思っている事柄です。
言語政策に関心を持っているといっても、行政レベルの施策というより、もっと偏在する個人レベルの言語政策に注目しています。
特にやってみたいと思っているのは上の箇条書きの3つめ「吹き替え音声の声色選択」です。
ただ、どのテレビ局のどの時期のどの番組を調査するか、ということもベストな選択をできていません。
さらに、研究を通して明らかにしたいことも、ある程度私の中に存在しているような気はするのですが、ぼんやりとして見つけられていません。
吹き替えにおける語彙や接尾辞について、古巣のやり方ではなく、文化資源学的なアプローチは取れないものかと思案しております。

上に書いたこととはまた異なりますが、「公共文化施設への評価制度」も、院試の際にぶち当たった問題とつながり、関心を持っています。
私の文章を読んでくださった方からのアドバイスや叱咤激励などいただければと思います。

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