2012年6月7日木曜日

空き缶回収機と文化行政

みなさんは「空き缶回収機」をご存知でしょうか。あるいは「くうかん鳥」と言い換えればピンと来る方もいるかもしれません。かくいう私も、空き缶回収機を実際に利用したのは学齢に達しているかいないかという頃なので、もはやセピア色の思い出です。

空き缶回収機とは、空き缶を投入すると現金やクーポン券などがもらえる機械で、地域環境美化や資源リサイクルの推進を目的として設置されました。まとまった情報が乏しいため私の憶測も多分に含まれるのですが、この機械は現在よりもリサイクルに対する意識が低かった時代の所産なのかな、という感じがします。
たとえば福井県坂井市の事務事業評価結果(平成21年度)をみてみると、空き缶回収機事業の今後の方向性として、「市民の資源リサイクルに対する意識も熟していると考えられること」などから「順次撤去」するとあります。最近、(私自身の狭い世間に限れば)回収機を目にすることはほとんどないことからも、その役割を終えつつあるのかもしれません。
もっとも、現在でも空き缶回収機を活用している自治体はもとより、新たにこれを設置する自治体というのも確認されます。回収機設置にはさまざまな行政目的が考えられるわけで、新たに設置する自治体においては市民の環境意識がいまだに成熟していない、と結論付けるつもりはまったくありません。

さて、ここまでお話ししてきたところで、空き缶回収機と文化がどのように結びつくのかと疑問に思われたかもしれません。それは一般的に文化行政が、狭義の芸術文化を対象とする行政と考えられているからではないでしょうか。しかし、文化行政とはタテ割りの個別行政分野を意味するものではなく、行政全体への文化的視点の導入を目指すものです。くわしくは『文化行政とまちづくり』(田村明・森啓編, 1983, 時事通信社)などをご参照いただければと思いますが、人間的なうるおいや豊かさという質を求めた美しい環境づくりもまた、自治体文化行政の実践といえます。私は、この空き缶回収機についてそうした視点から捉え直してみたいと思いました。
……ちょっと強引な展開だったでしょうか?笑

▽平成21年度事務事業評価 公表シート(福井県坂井市)

2012年6月6日水曜日

埼玉県富士見市①ー文化振興条例制定に際して


M.Kさんご投稿「文化振興条例の現在」記事内で話題にあがっていた埼玉県富士見市。「埼玉県内で政令市を除いて初の条例制定都市」(同県ではさいたま市に続く)として、並々ならぬ意気込みで取り組んでいるそうです。
そこで、これから注目すべき市の一つとして、富士見市の概要を複数回に渡って投稿してみたいと思います。
<基礎情報>
面積:19.70平方キロメートル(県全体の面積に対し0.51%)
立地:埼玉県の東南部、首都30キロメートル圏に位置。東は荒川を隔ててさいたま市に、北は川越市・ふじみ野市に、西は三芳町にそれぞれ接している。
南西部武蔵野台地の大半は住宅地・畑作地帯で、北東部荒川低地は荒川と新河岸川の2つの一級河川を擁する水田地帯。南西部は東武東上線沿線から発達した市街地がある。
人口(平成24年年4月1日現在):107,243人(男性53,271人/女性53,972人/世帯数45,402世帯/人口密度5,444人/km²/ うち外国人登録者割合約0.015% /流入人口10,749人/流出人口41,727人)
※但し、流入人口(他地域に常住し富士見市に通学・通勤)と流出人口(富士見市に常住し他地域に通学・通勤)は平成17年国勢調査より。
※人口は増加しているが、平均年齢も上昇傾向が見られる。
産業(平成18年10月1日現在):非農林漁業従業者が大部分を占める。従業者数は多い方から、卸売・小売業、サービス業、医療・福祉、飲食店・宿泊業、製造業、建設業の順。
<市の歴史>(下線部:行政区域の変遷)
明治22年4月:町村制が施行され、鶴瀬、南畑、水谷の各村が出来る
昭和31年9月30日:「昭和の大合併」により鶴瀬、南畑、水谷の3村が合併し富士見村が発足
昭和32年11月:日本住宅公団による東武東上線沿線初の公団団地、鶴瀬第一団地の入居開始(230世帯)
昭和37年7月:日本住宅公団鶴瀬第二団地の入居開始(1,070世帯)
昭和39年4月1日:富士見村が町制を施行し、富士見町が発足
昭和41年9月13日:人間尊重都市宣言
昭和45年:人口増加率で全国2位を記録
昭和46年4月:学校3校(勝瀬小学校、上沢小学校、本郷中学校)が同時に開校、町の予算の54%が教育費(=学校建設費)に充てられる
昭和47年4月10日:富士見町が市制を施行し、富士見市が発足
昭和48年8月:現庁舎完成、同年9月3日から業務開始
昭和52年9月30日:スポーツ振興健康増進都市宣言
昭和57年4月10日:市制10周年、富士見市民憲章、市の木及び市の花の制定
昭和57年7月:第一回ふじみ市民まつり開催
昭和62年7月19日:富士見市非核平和都市宣言
平成12年4月10日:環境に優しい都市宣言
平成14年11月1日:富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ開館
平成17年10月:「ふじみ市民まつり」が「産業祭」「環境フェア」と統合し 「’05富士見ふるさと祭り」に
そして今年4月10日は市制40周年!
※「平成の大合併」では上福岡市、入間郡大井町(現ふじみ野市)、入間郡三芳町との合併が協議され、住民投票の結果、富士見市では合併賛成が上回ったが、上福岡市・大井町では住民投票成立の条件とした投票率が規定に満たず不成立、三芳町では住民投票は成立したものの合併反対が賛成を上回ったため、合併協議は中止。
※市章は、中央に富士を置き、周囲に3本の川(荒川、新河岸川、柳瀬川)と旧3か村(鶴瀬、南畑、水谷)の合併を意味した円を配し、富士見市を象徴したもの。(昭和41年制定)
<諸宣言>(以下宣言年順)
昭和41年9月13日「人間尊重宣言都市」
概要:健康で、人を尊重し社会への貢献を果たす町民形成を目指す
昭和52年9月30日「スポーツ振興健康増進都市宣言」
概要:健康で明るいまちづくりを目指し、健康増進と交流・連帯の輪醸成のため市民が主体的にスポーツに親しむ都市を宣言
昭和57年4月10日「富士見市民憲章」
概要:自然の恵みと永い伝統に育まれた人情豊かな富士見市民は、ふるさとの限りない発展としあわせを願い、以下5点をまちづくりの心構えとして市民はたゆまず努力する。
1. 人の心といのちを大切にする、2. 自然を愛する、3. 健康で仕事に励みしあわせな家庭をつくる、4. きまりを守り、助けあい、平和なまちを作る、5. 教養を深め、文化のかおり高いまちを作る
昭和62年7月19日「富士見市非核平和都市宣言」
概要:広島・長崎の過ちを繰り返さぬ様、平和憲法を大切にし、世界の平和と安全を脅かす核をもつ全ての国に「今すぐ核兵器を捨てよ」と訴える富士見市民の宣言
平成12年4月10日 「環境にやさしい都市宣言」
概要:武蔵野台地と荒川低地が出会う豊かな自然の中で、人の営みと自然が調和した文化と歴史を育んできた富士見市が、近年の生活様式の変化に伴う自然環境の悪化に際し、人と自然の共生を目指す環境にやさしい都市を宣言
長くなってしまいましたので、続きはまた次回。

今回の投稿の最後に、条例に関する追記報告です。
富士見市は「(仮称)富士見市文化芸術振興条例(案)」に対し、平成24年3月21日~平成24年4月20日にパブリックコメントを募集し、7件の意見があったそうです。
内容としては、
・文化・芸術表現の振興とその内容への不干渉という立場を盾に、平穏な市民生活が阻害される場面(騒音問題等)に対する行政の対応がなされていない、何らかの留保措置あるいは市民生活擁護の言及が必要なのではないか:1件(市民の相互理解の中で問題が解決される事を望む、との富士見市からの回答)
・基本法35条を根拠にしているが、文化芸術振興条例を策定する意義が明確ではない:1件
・市民に「義務」を課しているように受け取れる:1件
・会議録によると、文化芸術振興条例等策定検討委員会の委員で出席が1回しか確認出来ない委員がいるが、そのケアをどのように行ったのか明記されていない;1件(対応しました、との富士見市からの回答)
・富士見市文化芸術振興条例等策定検討委員会の会議録が公開されたのが遅かったため、意見を出すのが困難だったという理由で募集期間の延期請求:1件
・意見募集のやり方が有効性を欠くという理由で募集のやり直し請求:2件
*上記の意見に対し、富士見市側に特別な対応は無し。
そして、今月行われる第三回定例会に議案第39号「富士見市文化芸術振興条例の制定について」が提出されます。


主要参考ウェブサイト
富士見市 http://www.city.fujimi.saitama.jp/index.html(2012年6月6日アクセス)

(M.O)

2012年6月5日火曜日

公共劇場の10年―舞台芸術・演劇の公共性の現在と未来

今日はさまざまな視点から「公共劇場」を考えてみることが出来る文献を紹介したいと思います。

『公共劇場の10年―舞台芸術・演劇の公共性の現在と未来 』(伊藤裕夫、松井憲太郎、小林真理編、美学出版、2011.1)です。

「劇場」「演劇」「舞台芸術」の公共性とはなにか。これからの劇場は、どのような方向性を模索していかなければならないのか。舞台芸術・演劇の現状(日本,フランス,ドイツ,シンガポール)と未来について,「公共性」をキーワードにまとめている本です。

bangulより

芦原(あわら)温泉と花柳界のいま

現在、8月に行われる研修旅行の行き先を調査中です。その中で、候補地の一つとして、福井県の「芦原(あわら)温泉」が挙げられていました。有名な温泉地なので、ご存じの方も多いと思われますが、私自身は「どこかで聞いたことがあるような気がする」程度の認識でおりました。

ところが、先日調べ物をしていた際に、「あわら温泉」の名前をどこで目にしたのか、不意にはっきり思い出しました。以下は、2010226日付のアサヒ・コム(朝日新聞が運営する情報サイト)の記事です。


福井県あわら市は国の緊急雇用対策の基金を利用し、あわら温泉の芸妓(げいぎ)を募集して育てる事業を始める。「関西の奥座敷」と称される同温泉の芸妓も今や15人まで減っており、市は「若い女性はぜひ応募して」と呼びかけている。基金を所管する厚生労働省地域雇用対策室によると、「芸妓とは珍しい」という。

 16歳以上の5人を、3月下旬から全国で募る。市は、基金から県を通じて交付される1800万円を新年度予算案に計上。芦原温泉芸妓協同組合に事業を委託する。芸妓はお座敷に呼ばれた際に「花代」を受け取る歩合制だが、今回は約14万円の「月給」が保証され、日本舞踊や長唄小唄などを学ぶ。

 同温泉の芸妓は、開湯(かいとう)100周年だった1984年に170人いたが、客の減少やコンパニオンの台頭などで激減。市観光商工課の担当者は「花柳界が消滅の危機にひんしており、最後の一手。雇用対策と地域振興の一石二鳥の効果を期待している」と話している。(足立耕作)



舞妓さん芸妓さんと言えば、京都の祇園が一番に思い浮かべられるかもしれませんが、京都では祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒、嶋原の六花街が、東京では、新橋、赤坂、神楽坂、芳町、向島、浅草の六花街が、現在でも存在しています。九州の博多や長崎も有名ですね。こうした大都市以外にも、各地の温泉地などで、現在でも活動されている見番や芸妓組合が多数あります。ただし、こうした花街の文化は衰退傾向にあり、人材不足に悩んでいる現状です。

あわら温泉でも、おそらくそうした事態があったものと思われます。ただ、この計画はうまくいかなかったらしく、この後20116月頃に、この事業に募集して採用された芸妓さんたちが、みな月給の低さを理由に退職してしまったというウェブニュースが流れました。本来は、「オモテの文化」に対比される「ウラの文化」として存在していた花柳界の文化を守るために、公金で事業が行われたというのは、非常に興味深いケースであると感じました。

ちなみに、現在も芦原温泉芸妓組合は活動をしており、唄・三味線・鳴物等の稽古の様子を一般に公開しているようです。その他にも、「芸妓・舞妓変身体験」といった観光客向けのプランも実施しており、花柳界の文化が徐々に「オモテの文化」になりつつあるという印象があります。「伝統」と観光資源の関係など、今後もう少し調査を続けてみたいと思います。


あわら市観光協会/芦原温泉芸妓組合の紹介ページ
http://awara.info/d.php/165629

若草会(芦原温泉の若女将の親睦団体)

ざ・花柳界(全国の花柳界の情報を集めたサイト)

(mio.o

2012年6月4日月曜日

タイムトラベル


 先週、とても久しぶりに児童文学を手にしました。―山中恒『ぼくがぼくであること』(1969年刊行、現在は角川文庫所収)。

 「おかあさんのように人を愛することもしないで、めさきのことだけで結婚し、ただ自分の気分のためにだけ、子どもを勉強へ追いやり、(中略)一流会社に入れて、なにごともなくぶじにすごしたいというおとなたちが、この不正でくさりきった社会をつくってしまったんだよ。その責任はおかあさんにもある!」という強烈なセリフが投げつけられた文脈を知りたいがためでした。

 新聞に寄せられた書評記事(本田由紀「60年代の日本を知る―YAヤングアダルトのためのブックサーフィン」朝日新聞2012年5月27日)に引用され、「成功へのレールは、エゴや欺瞞の枕木の上に乗っているように感じられていたのです。」と時代の一面を鮮やかに切り取っていた言葉です。実際に読んでみると、指摘された当時の若い感性が描かれる一方、この「おかあさん」はたしかに社会を構成する大人だけれども、こうした生き方を彼女に少なからず強いた社会への批判が同じくらいの比重で描かれているように思いました。

文化政策とはまったく関係ない本を読んだつもりだったのに、日本の自治体文化行政の歴史の背景にある時代の空気をふと吸った感覚がありました。社会の価値観が今より一元的だった時代、社会のなかの力関係がより垂直的だった時代、大樹の陰は安定していると思われていた時代・・・、メインストリームの力が圧倒的だった時代に、強者や多数派の論理だけでないより多様なものが息づいて対話する社会への希求が文化行政のはじまりと結びついていたのではないか。漠然とした想像ですが、読後感のひとつです。

(ykn)

習い事と文化

こんにちは、sweetfishです。

私は5歳の頃から高校まで、箏を習っていました。
始めた当初は「日本の伝統的な文化を学びたい」と思っていた事などまるでなく、
祖母が習っていたのを見て、なぜか「やってみたい」と言いだしたことがきっかけでした。

お稽古に通わなくなってから、8年ほど経ってしまいましたが、
何とはなしに、私の所属していた流派のホームページを初めて覗いてみました。
沢井箏曲院公式HP
http://sawaisoukyokuin.com/

思いのほかしっかりとした作りのサイトでびっくりしたのですが、
邦楽の海外展開だけでなく、ロックやジャズ、オーケストラ等、
他のジャンルとの交流に積極的なのが印象的でした。

中学生の頃、一度だけ創設者の一人、沢井一恵氏の演奏を見た事があるのですが、
まるでロックバンドのギタリストのような演奏スタイルで衝撃を受けたのを思い出しました。

幼少期は漫然と習っていたものが、大人になって色々な事を知って、
改めて習い事を振り返ってみると新たな発見があるし、
「文化」のあり方の一つとして見てみると面白いなと思いました。

働きだしたりすると、昔の習い事を思い出す事はなかなか無いかもしれませんが、
もう一度触れる事が出来るきっかけ作りもあるとよいのではないかと思いました。

(sweetfish)

名古屋城が引き受ける「文化」

さて、郷土愛に満ちあふれたpeaceful_hillが今回お届けする話題は、名古屋城(愛知県名古屋市)天守閣の木造復元の動きです。

名古屋城天守閣は、1945(昭和20)年の空襲で焼失後、1957(昭和32)年の名古屋市制70周年記念事業として再建工事が開始され、2年後の1959(昭和34)年に竣工しました。現在の天守閣は鉄骨鉄筋コンクリート構造で、内部にはエレベーターが設置されています。(ここで名古屋城の写真をお見せしようと思ったのですが、あいにく手元に写真データがない、というか10年近くまともに名古屋城を見たことがないかも……。笑)

ところで今、この天守閣を戦前の木造に復元しようという動きが一部にみられます。どうやら名古屋市長が復元に積極的なようで、今年2月には「名古屋城の将来を語る市民大討論会」という木造復元に関する意見交換会が開かれました。
参加者からの意見には次のようなものがありました(上記サイトより一部抜粋)。
<賛成>
・日本の歴史的文化遺産として後世に残すためにも木造天守閣は必要
・木造天守閣は名古屋市民の未来の象徴となるので賛成
<反対>
・寄付を集めて建てられた現在の天守閣を壊すべきではない
・二度と燃えない天守閣とするためにコンクリートで造られた経緯があり、現在の天守閣を壊すのは名古屋のアイデンティティを失うことになる

名古屋城には戦前の詳細な実測図が残されており、正確な復元ができるらしいのですが、それをめぐってこれほどまでに異なる意見が出されるのを興味深く思いました。すでに記事はリンク切れになっていますが、毎日新聞にはさらに「城を本物にしてこそ、人が集まる」「質の高い文化を提供する時期。海外から訪れたいと思わせないといけない」という復元積極(賛成)派、「名古屋の50年を見守ってきた今の天守閣には固有の価値がある。まずは天守閣の再評価から行うべきだ」という復元慎重(反対)派の意見などが紹介されていました(毎日新聞20120220)。

ここで私が感じたのは、積極派・慎重派のいずれもが名古屋城の「文化」を大切にしたいと考えているということ。その「文化」の意味合いが、積極派にとっては「真正な文化」であるのに対し、慎重派にとっては「身近な経験から積み上がる文化」なのではないかと。
結論がどうなるにせよ、個人的には、戦争で焼失を経験した市民が「二度と燃えない天守閣を」という思いでコンクリート造にしたという話に(真偽のほどは別にしても)ぞくぞくっとしました。

(peaceful_hill)