2013年3月9日土曜日

シンガポール演劇界のパイオニアKuo Pao Kun回顧展



 シンガポールの芸術文化の礎を築いた劇作家・Kuo Pao Kun(郭宝崑、1939-2002)の没後10周年にあわせて、昨年から今年2月にかけて彼の名を冠したフェスティバルが開催されました。Kuoが設立した劇団・The Theatre Practice(実践劇場)が主催するこのフェスティバルでは、国内外の劇団がKuoの戯曲を再演したほか、国際会議や学校と連携した教育プログラムなどが実施され、Kuoの戯曲をまとめた全集も出版されました。今回はそのひとつ、シンガポール国立博物館で開催された回顧展”A Life of Practice Kuo Pao Kun”と、会期中に上演されたドキュメンタリー演劇をご紹介します。

 Kuo Pao Kunは今やシンガポールのパフォーミング・アーツを特徴付ける要素となった多文化の融合や、バイリンガルもしくはそれ以上の数の言語によるパフォーマンスを最初に試みた劇作家です。回顧展ではKuoの生涯とシンガポールの舞台芸術の歴史を併記した年表、Kuoの手記、公演のパンフレットや記録映像などが展示され、一人の人間の一生、劇作家としての業績、そしてシンガポールの演劇界の発展を同時に辿ることができました。多くの観客が関係者のインタビュー映像に長時間見入ったり、学生が上演記録を見ながら声を上げて笑うなど、来場者が展示に引き込まれている様子も見て取れました。

 展示会場で私たちが目にするKuoの生涯は実に波乱に富んでいます。幼い頃に中国からシンガポールへ移り住み英語と華語のバイリンガルとして育ったKuoは、60年代から70年代にかけて急速な工業化と経済発展を目指すシンガポール社会の弊害を批判する華語演劇を次々と発表。文化大革命やマラヤ独立運動などの影響を受けたこれら左翼的な作品は共産主義の広がりを警戒する政府の弾圧を受け上演が禁止され、1976年には妻のGohとともに治安維持法によって身柄を拘束されてしまいます。一度は拘禁され、公民権を剥奪されたKuoでしたが、80年代に入るとシンガポール初のバイリンガル演劇を上演、その功績が認められ1989年には政府から文化勲章を授与されました。90年代にはシンガポールを代表する劇作家として海外のアーティストや伝統芸能とコラボレーションしながら画期的な作品を制作、後進の育成にも力を注いでいます(詳しい経歴は下記参照)。

 今回の回顧展は一人の芸術家の評価を巡る歴史としても大変興味深いものでした。そして、資料として客観的に展示されたKuoの生涯に、命を吹き込んだのがTheatreWorksによるドキュメンタリー演劇です。展示だけでなく最も近くにいた人物の目を通してKuoの生涯を見つめてみたい、という回顧展キュレーターの言葉が示すとおり、この作品は妻・Goh Lay Kuan(呉麗娟、1939-)とKuoの対話を描いたものです。展示会場の中心部に円形に組まれた客席の中心で二人が向かい合うような形で上演が進行しますが、直接言葉が交わされることはありません。Gohの台詞がオーディオ・アーカイブに基づく語りであるのに対し、同等の記録が残っていないKuoの台詞は手紙や戯曲によって構成されていて、一方の発した台詞に対し他方が応えるような場面は起こり得ないのです。Gohの臨場感あふれる言葉を通して観客は戯曲の背景にあった社会状況や当時の生活をうかがい知ることができましたが、何よりも見るものに訴えかけたのは彼女の怒りのエネルギーでしょう。当時は上流家庭しか触れることのできなかったバレエの世界に魅せられた彼女が感じた貧富の差による不平等、教育制度に対する批判、そして自らの表現が政府の一存で日の目を見ることなく消されてしまうことに対する怒り・・・展示品だけでは読み取りきれない激しい感情を生身の俳優を通じて再現する試みは、演劇という芸術の持つ力を存分に見せ付ける、劇作家の回顧展に相応しい企画でした。

 60年代に端を発するKuoやGohの鋭い批判精神は現在のシンガポール社会でも色褪せることなく、むしろますます力強く我々に訴えかけるように思われました。これまでもご紹介してきたとおり、シンガポールでは政府が進める開発によって有形・無形を問わず様々な文化遺産が消失の危機にあり、草の根でそれを守ろうとしている人々が居ます。今年2月には政府の発表した人口政策と移民受け入れに対し、過去に例を見ない規模の抗議集会が開かれました。90年代から注目が集まったシンガポールの市民社会運動は、政府が先取りして理想の市民社会像に国民を誘導するのではないかと予測されました。Kuo Pao Kunの生涯は回顧展を通して先取りされた市民社会像の一つとして描かれたのでしょうか。TheatreWorksの舞台や熱心な来場者の反応を見る限りでは、シンガポールの社会にはそれとは違う方向に向かおうとしている力があるように感じられました。(齋)


Kuo Pao Kun(郭宝崑、1939-2002)
中国河北省出身。10歳のとき父親が会社を経営するシンガポール(当時は英国植民地)へ移住。華語劇団で俳優として活動した後オーストラリアで演劇を学び、1965年にシンガポールへ戻るとダンサーで振付家でもある妻のGoh Lay Kuan(呉麗娟、1939-)とともに当地初の舞台芸術の学校・Singapore Performing Arts School(後にPractice Performing Arts Schoolに改名)を開校。演技やダンスの指導にとどまらず、在校生が貧しい村落に滞在し、そこでの生活を作品に反映させていくような教育を行った。1976年からの4年間、治安維持法によって拘禁生活強いられる。演劇界に戻ったKuoの作風は、直接的に政治問題にコミットするものから複合社会や多文化主義の中でゆれるシンガポール人のアイデンティティを描くものへと変化。86年には初のバイリンガル劇団・The Theatre Practice(実践劇場)を設立、彼の代表作となる多言語の戯曲を上演。90年代には伝統芸能とコラボレーションしながら歴史や記憶のあり方に焦点を当てた作品を制作、日本で取材した太平洋戦争の記憶をもとにした"The Spirits Play(霊戯)"などを発表。1990年にはシンガポール初のインディペンデント・アートスペースThe Substationの初代芸術監督に就任し、実験演劇から伝統芸能、パンクのコンサートに至るまで様々なプログラムを実施。Kuoの学校やSubstation、そしてアジア各国の文化から学ぶTheatre Training & Research Programmeは、今日国内外の芸術文化の最前線で活躍する数多くのシンガポール人アーティストを育てた。

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