2014年3月29日土曜日

学問の持つ負の力

 先日、こんな記事がネット上に掲載された。
 
◆ハンセン病患者標本:熊本大「医学倫理上、問題」最終報告(毎日新聞 20140324日 2205分)
 熊本大医学部の前身の熊本医科大が九州療養所(現・国立ハンセン病療養所菊池恵楓(けいふう)園、熊本県合志(こうし)市)の入所者の遺体から骨格標本を作製していた問題で、熊本大の調査委員会(委員長=竹屋元裕医学部長)が24日、最終報告を発表した。骨格標本は患者や遺族の承諾を得ずに作製されたとして「医学倫理上、問題がある」とした。
 熊本大医学部によると、同大に残るハンセン病患者の解剖名簿には1927〜29年に43体を解剖し、うち20体で骨格標本を作製したとの記録があった。遺体はすべて九州療養所の入所者で、解剖については入所者の承諾書を得ていたが、標本作製の承諾書は今回の調査では見つからなかった。同大は「承諾を得ず、九州療養所との密接な共同研究体制の下で作製されたと考えられる」と結論づけた。
標本の目的については、中心的に関わった熊本医科大病理学教室で助教授、教授を務めた鈴江懐(きたす)氏(故人)が「ハンセン病患者にはやせた人が多い」と主張していたことから、罹患(りかん)者の体質的傾向を証明するためとした。
 記者会見した竹屋委員長は「標本を大学訪問者に誇示するなど故人への配慮を欠いていた。現代の元ハンセン病患者などに精神的苦痛を与えたことに深い反省と遺憾の意を表する」と陳謝した。
 国のハンセン病問題検証会議元副座長の内田博文・神戸学院大法科大学院教授(刑法)は「ハンセン病罹患と体質の関係を調べていた背景には優生思想がある。医学界はこの反省を糧に、患者の権利の法制化に取り組んでほしい」と話した。
(ここまで引用)
 
 この記事を見て問題だと思ったのは、これが重大な人権問題であると同時に、このような行為を生みだしたものは一体何だったのかということである。大掛かりな作業を伴っていることからも、単にこの骨格標本作成に直接関わった個人の問題だけに帰するには、無理がある。研究者個人の倫理観という枠組みだけでなく、研究者にこのような研究態度をとらせた力学について考えてみたいと思う。
 この問題を理解する上での補助線として、例えば坂野徹(2005)による日本における人類学史研究がある。その目的は「帝国日本の植民地や太平洋戦争中における人類学者の調査研究の全体的特徴」(P8)を明らかにすることにあった。この研究の中で明らかになったことのひとつは、アイヌ民族に対する近代日本の人類学のあり方である。
 例えば、小金井良精は、「1888(明治21)年夏に実施した北海道での調査旅行中、アイヌの骨を集めるため、墓荒らしを何度か行っている。小金井は、アイヌが付近にいない場所を探して、墓場から骨を掘り出し、みつかったときには嘘をついたりしながら、骨の蒐集を」(P182)続けていた。当時の人類学において、アイヌ民族は研究対象でしかなかったことがわかる。
このような発掘という名の「墓暴き」を通じて進められてきた人類学研究は結果的に、アイヌ民族の地理的な近接性から、「日本人種において最も重要な民族」(P501)として強力に同化政策を推し進めることに寄与していくが、一方で、アイヌ民族に未開、野蛮といったレッテルを貼ることは、集団としての日本人の自己同一性を不安定に陥れることにもなった。このように、人類学研究が結果的には、大東亜共栄圏という幻想の共同体の中の矛盾を顕在化させてしまうという危うさが存在したのである。しかし、こうした矛盾を顕在化させないよう、この問題には言及せずに人類学研究が進められることになった。
 たしかに、坂野が指摘するように、近代日本における帝国主義や植民地主義に適合した人類学研究が、他者の人権を傷つけたり、民族差別を生みだしてきたりしたことは、事実である。しかしながら、戦前・戦中の思想的背景だけに、この問題の所在を求めることもまた危険である。植木哲也(2008)が、近代以降行われてきたアイヌ墓地発掘について、「総動員体制から解放されたはずの戦後の教育研究環境で、再びアイヌ墓地は発掘された。発掘を行わせたのは、帝国主義や軍国主義ではなく、研究そのものだった」(P112)と指摘するように、帝国主義や植民地主義とは別に、学術研究が本質的に内包する暴力性もまた問題となる。
 ここで冒頭の「ハンセン病患者標本」問題に立ち戻るならば、優生思想を含めた学問が持つ暴力性を、標本の対象となったご本人や御遺族の感情を無視してまでも標本を研究者に作らしめた要因として、私たちは理解することができる。したがって、過去の特異な思想的背景、あるいは戦前・戦中の学術研究の未熟さとして、この問題を片付けることはできない。近代から連綿と蓄積されてきた、学術研究がもつ危うさについて、そこに関わる誰もが常に意識すべきであろう。
 ただし、これは学術研究という場に限定される問題なのかという疑問が、一方でわいてくる。フーコーが指摘するように、暴力性は近代社会制度の中に広範に認められる。植木がアイヌ墓地の発掘を可能にしたものとして、帝国大学という制度や和人たちの協力を挙げているように、発掘調査や学術研究を直接的・間接的に関わる近代に形成された諸制度にも私たちは着目すべきではないだろうか。
 それは、たとえば文化行政や文化財保護行政についても同様の構造が存在するのではないかと筆者は考えている。文化財保護行政に限ってみても、埋蔵文化財の発掘調査や自治体史編纂の民俗調査の中に権力性は存在しないと、果たして言いきれるのか。アカデミズムと行政という主体の違いはあっても、調査という行為に潜む問題点は無いと言えるだろうか。この問いについては、別稿で改めて考えてみたい。
(ま)
 
<参考文献>
植木哲也(2008)『学問の暴力-アイヌ墓地はなぜあばかれたか』春風社
坂野徹(2005)『帝国日本と人類学者 : 1884-1952年』勁草書房

 

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