先週、とても久しぶりに児童文学を手にしました。―山中恒『ぼくがぼくであること』(1969年刊行、現在は角川文庫所収)。
「おかあさんのように人を愛することもしないで、めさきのことだけで結婚し、ただ自分の気分のためにだけ、子どもを勉強へ追いやり、(中略)一流会社に入れて、なにごともなくぶじにすごしたいというおとなたちが、この不正でくさりきった社会をつくってしまったんだよ。その責任はおかあさんにもある!」という強烈なセリフが投げつけられた文脈を知りたいがためでした。
新聞に寄せられた書評記事(本田由紀「60年代の日本を知る―YAヤングアダルトのためのブックサーフィン」朝日新聞2012年5月27日)に引用され、「成功へのレールは、エゴや欺瞞の枕木の上に乗っているように感じられていたのです。」と時代の一面を鮮やかに切り取っていた言葉です。実際に読んでみると、指摘された当時の若い感性が描かれる一方、この「おかあさん」はたしかに社会を構成する大人だけれども、こうした生き方を彼女に少なからず強いた社会への批判が同じくらいの比重で描かれているように思いました。
文化政策とはまったく関係ない本を読んだつもりだったのに、日本の自治体文化行政の歴史の背景にある時代の空気をふと吸った感覚がありました。社会の価値観が今より一元的だった時代、社会のなかの力関係がより垂直的だった時代、大樹の陰は安定していると思われていた時代・・・、メインストリームの力が圧倒的だった時代に、強者や多数派の論理だけでないより多様なものが息づいて対話する社会への希求が文化行政のはじまりと結びついていたのではないか。漠然とした想像ですが、読後感のひとつです。
(ykn)
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