群馬音楽センター |
高崎駅西口を降りてしばらく歩くと、群馬音楽センターにたどり着く。1961年に造られたとは思えない、とてもセンスの良い建物だ。
この群馬音楽センターは、高崎市民オーケストラ(現群馬交響楽団)の活動拠点として計画された。1956年に群馬県が文部省から音楽モデル県の指定を受けたのを契機として、婦人会や青年団などによって「音楽センター建設推進委員会」が立ち上げられ、市内には「はやく高崎に音楽センターを建てよう」といった横断幕が掲げられた。こうした市民による音楽センター設立運動は、やがて実現することとなる。
設計は、チェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。総工費3億3500万円のうち3分の1が市民や企業からの寄付だった。同時期の文化ホール建設が、官主導で行われたのに対して、市民の建設推進運動によって音楽センターが建設された過程こそが、高崎の文化行政を特徴づけていると言える。
手前は十五連隊の碑。左奥は高崎城東門跡。(写真が暗くてすみません) |
しかし、筆者が指摘したいのは、この土地の記憶である。ここは近世には高崎城として政治や軍事の中心地であった。近代に入ると、城跡は陸軍省の管轄となり、1945年の終戦までの大半を陸軍歩兵第十五連隊が駐屯していた。十五連隊は、1884年の秩父事件の鎮圧にはじまり、日清・日露戦争から太平洋戦争まで出動し、これに伴って高崎は軍都としてのイメージを確立していくこととなる。高崎駅前には、十五連隊所属の兵士の家族が逗留する宿泊施設が立ち並んでいたと聞く。
戦後、この地に群馬音楽センターが設立される際には、十五連隊の兵舎が取り壊された。この様子を『高崎市史』に掲載された写真から私たちは知ることができる。つまり、高崎は軍都から文化都市へと変貌するのである。
戦後の文化政策の一面は、こうした戦間期までの都市のイメージを転換させることにあったのだ。「オーケストラの街」の成立は、単に行政だけが描く理想像ではなく、当時の高崎市民にとって共通した想いであった。この想いを具現化したものが、群馬音楽センターであったと筆者は考えている。
次回は、現在の音楽センターを取り巻く状勢についてレポートしてみたい。
(ま)
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