2012年7月9日月曜日

日本での留学生活

       
 最近、「異文化理解」や「異文化交流」など割と身近によく簡単そうに言われていることばについて改めて考えさせられるような出来事がありました。
 今年6月下旬、東京大学人文社会系研究科の外国人留学生・外国人研究員等の懇談会が本郷キャンパスの山上会館で開かれました。60人余りの留学生が参加したかと思います。当日の会場で本当に一言も日本語で言えない人がいれば、ものすごく自由に日本語で話せる人もいました。将来日本で長期的に勉強を続ける人もいれば、情報収集のために短期的にいる人たちもいました。(ちなみに、人文社会系研究科の外国人の中では研修生が大半を占めています。)外国人留学生って一人ひとり個性が本当に鮮明だということは印象的でした。私自身は留学生でいながらそう感じること自体何だか変だと思いながら…近頃、なんだか日本人と一緒にいる時は居心地がいいってことに気付きました。
 今年で来日7年目となった私は、知らず知らずのうちに日本文化、日本生活に慣れて行きます。最初の頃の悩みや不安等がどんどん忘れられていきます。この間の外国人留学生懇談会で、来日当時の記憶が蘇ったかのようでした。当時、日本語をいくら自由に話せても、なかなか日本の特有の表現を理解できないことは沢山あり、言語の壁だけではなくコミュニケーションの「壁」だとか、地域・国に対する先入観等のミスアンダスタンディングによるショックなど、時にはとても傷つく事もありました。
 具体的に、コミュニケーションの「壁」と言えば、言葉で真っ直ぐに感情や考えを表現する多くの外国人にとっては日本特有な文脈での表現、「阿吽の呼吸」だとか、「空気」だとかはなかなか理解し辛くて、偶に我々にとっての議論や交流が衝突や喧嘩として捉えられたりすることもあるのでしょう。⇒「喧嘩をしない日本人」⇔「“KY”の外国人」

続き

BS

3 件のコメント:

  1. 海外に滞在していて、「KYであることに違和感を持たれない」のは楽だなあと思ったことを思い出しました。
    続き楽しみにしてます。
    mihousagi_n

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  2. こういう話題に、日頃からとても興味を持っています! 

    山本七平の『「空気」の研究』という本があります。
    まだ読んでいない本ですが、「空気」という判断基準を持つ(拘束される)日本人、
    日本社会についての考察がされています。

    留学生や外国人の中にいると、当たり前の基準がそれぞれに異なり、違うということが
    普通なのだと理解できますが、このことを知る機会が日本では少ないように思います。
    意識せずにいて、ある時に自分と周囲が当たり前と思うことについて、そう思わない人が現れると、驚いたり違和感を感じたりすることが確かにあります。

    投稿の続き、私もとても楽しみにしています!
    (青・さいとう)

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  3. 日本のある種の「窮屈さ」には、日本人でありながら辟易する事があります。
    かといって海外に盲目的に憧れている訳でもなく、とりわけ外国に行くと自分の日本人らしさ(アイデンティティー)を再確認する事がしばしばあります。
    どれが良い、悪いで図れるものではないですし、結局は「1人の人間として他者と向き合う時自分はどうありたいのか」が一番大事なのだと感じています。
    他者を尊重しながら自分を活かす事が出来る人が真の意味での「グローバル」な人材なのかもしれません。

    あと、本題とはずれますが、今回の投稿しかり、B.S.さんの語学力と日本社会への理解度の高さに毎度の事ながら驚かされます。国は違えど、外国語で海外の事象を研究しようとする者の1人として、見習うべき点が多くあります。
    (M.O)

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