写真1:紐で囲まれたエリアごとに各墓石を ワークシートに記録していく。墓石は二つで一組。 遺体はHeadstoneとFootstoneと呼ばれる墓石 の間にメッカの方向を向いて埋葬されている。 |
Jalan Kuborの設立年代ははっきりと分かっていませんが、1822年に英国植民地政府が作成した地図には既に”墓地”として登場しています。現在新規の埋葬は行われていませんが、新しいものでは1950年代に造られた墓石もあるようです。墓地は1819年に建てられたスルタンの王宮*近くに位置し、33,900㎡(サッカーコート五つほど)の敷地には15,000基の墓石があります。しかし木製の墓石は朽ちかけ、石造りの墓石も倒れたり地面に埋もれたりして劣化が激しい現状です。私がこの墓地の存在を知ったのは、昨年のブキット・ブラウン華人墓地を紹介する展覧会で行われた、Dr. Imran bin Tajudeen(シンガポール国立大学建築学部准教授)の講演でした**。当時Imran氏は個人的に墓地の調査を行っていましたが、シンガポールの歴史にとって重要な意味を持つ大量の墓石たちが調査されることもなく風化していく様に危機感を抱き、記録調査の必要性を訴えていました。その後、政府(国家遺産局 National Heritage Board)がImran氏ら専門家に記録調査を委託することを決定***。2013年12月からシンガポール国立大やマレー・ヘリテージセンター等の専門家と市民ボランティアによる調査が始まりました。
毎週末ガイドツアーが行われているブキット・ブラウン華人墓地と異なり、一人では入りにくい雰囲気だったJalan Kubor。調査ボランティアとしてならじっくり内部を見物できると思い私も参加してきました。12月から4月まで行われた調査に参加した一般ボランティアは30名以上に上るとみられ、それに加えて周辺のイスラム系学校の生徒が学修の一環で参加することもありました。一般ボランティアにはマレー系の人々が多いように感じられましたが、地域の歴史や遺産に関心のある華人系やユーラシアン系市民の姿も見られました。
写真2:記録を始めるにあたりマレー・ヘリテージ センターの学芸員が筆者の名前を例に書いてくれた 各文字の特徴。上からローマ字、ジャウイ文字、 ブギス語、ジャワ語。 |
今回の記録調査の目的は、墓地の歴史を明らかにし、個々の墓石を写真に収めてデータベース化するというもの。私の参加した回では各墓石の特徴をワークシートに記録していくという作業を行いました。シートには、墓石の大きさ、造形の特徴、素材、碑文の言語などの項目を記入するようになっており、一口にマレー墓地と言ってもその内部は多様性に富むJalan Kuborを実感することができました(写真1)。
Jalan Kuborの埋葬者の全貌は明らかになっていませんが、スルタンの子孫のほか、リアウ、ジャワ、パレンバン等周辺地域からやってきてシンガポールで財を成した人々など多岐にわたると考えられています。墓石には19世紀の交易で使われていたブギス語の他、ジャワ語、ジャウイ文字(マレー語やインドネシア語を表すアラビア文字)、時には漢字も刻まれています(写真2)。墓石のデザインも、東南アジアのムスリム墓地に一般的な複雑な石彫とは異なり、簡素化されていたり、アチェ式とジャワ式の混ざったようなものも散見されます。
Jalan Kuborはマレー系の遺産を象徴するKampong Glam地区とインド系を象徴するLittle India地区という二つの歴史遺産保存地区に挟まれた場所に位置します。保存地区の外にある墓地は都市再開発庁(Urban Redevelopment Authority)が1998年に発表したマスタープランでは、すでに再開発予定地区に指定されていましたが、なんとか今日までその姿を保ってきました。政府が調査に乗り出したことは地元の歴史・遺産愛好家に歓迎されましたが、同時に、「いよいよ墓地の開発が始まるのではないか」という懸念も強まった模様です****。小さな島国であるシンガポールでは国土利用は最重要課題の一つであり、これまでも”死者(墓地)は生ける世代(団地や商業施設等)に道を譲るべき”という考えのもと再開発が行われてきました。昨今の国民の遺産保護への関心の高まりを受け、政府も記録調査などの行動にでていますが、デジタル化されたデータベースだけでは、歴史の積み重なった現実の場所と同じ役割りを果たすことは出来ません。建築物の場合、リノベーションして別の施設として再利用する道も残されていますが、墓地はそうした使い道も難しく、公園化するにしても”誰の墓を残すのか”、”これまで行われてきた宗教儀礼はどうするのか”といった問題も生じると考えられます*****。
”何を残すのか”という議論では、Jalan Kuborはこれまで政府の文化政策で”マレー系遺産”としてひとくくりにされてきたKampong Glam地区の多様性を再考するきっかけとなりそうです。調査チームのImran氏は、現在シンガポールに見られる人種別区画(中華系、マレー系、インド系、その他)は人工的なものであり、実際には雑多な民族が共生していたことを指摘し、Kampong Glam地区を拠点に現在の国境線を超え交易を行っていた様々な民族の歴史を多層的に掘り起こそうとしています******。Jalan Kubor墓地の調査結果はいったん政府に手渡され、選別されたのちに一般公開される見込みで、調査ボランティアも不用意に墓石の写真を公開することは控えるように言われました。再開発の前にJalan Kuborの記録が残されたのは幸いですし、市民参加の調査で墓地の歴史がシンガポールの人々に共有されてきたのは喜ばしい出来事です。しかし今回の調査がどのような形で世に出るのか、そして墓地はいつその姿を消してしまうのか、といった課題も残されており、シンガポールの遺産保護をめぐる動きの一つとして、今後の動向に注目していきたいと思います(齋)。
*現在王宮はマレー・ヘリテージ・センター(2004年設立)として再利用されています。
**講演の概要と記録映像はこちらから見ることができます。
***調査の様子を伝える地元紙Berita Harian(マレー語)の記事を紹介するシンガポール国立大のブログ。
****市民の懸念を伝える地元紙Strait Times(2014年1月6日付)
*****Jalan Kuborの王家の墓は墓石に黄色い布が巻かれていることで識別できます。布は定期的に交換されており、今日まで墓参りを続けている人々がいることがうかがえます。
******Imran氏らは、シンガポールの歴史から見落とされている様々な物語を発掘するSingapura Storiesという活動を行っています。先月もシンガポール南部の島々にかつて存在した漁村の歴史を紹介するセミナーが行われました。機会があればこちらもご紹介したいと思います。
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