本日、現在参加しているIWL(Institute for World Literature)の前半が終了しました。
二週間にわたって”Comparing Copies” のコースに参加し、「オリジナルはコピーに勝る」という一般的見解に疑問を呈するような作品を見ました。講師の方が現代中国詩の専門家でしたので、以下のような作品が挙がりました。
(例:good morningは「徳のある人間は孤独であっても平穏である」という中国語に“変換”)
「ある文学作品が翻訳によって、その作品が生まれた特定の領域を越えて受容されるとき、それは世界文学と呼ぶことができる」とは、このセミナー全体の主催者の一人であるDamrosch教授の論ですが、多言語性が核となる上記作品は当初から「特定の領域」を越えた/持たないのではないかとの疑問がわきます。二葉亭四迷がツルゲーネフを翻訳することで、近松門左衛門とは違う表現方法を近代日本文学にもたらしたように、翻訳は単に一言語から一言語への変換作業ではなく、創作行為の根幹となる場合もあります。
(私は講義で多和田葉子『容疑者の夜行列車』について話しました。日本語の言語遊戯をふんだんに取り入れた、ヨーロッパを旅する主人公の話です。登場人物の会話は仏語や独語のはずなので、それを日本語に“訳した”本作は翻訳書の文体を模しているともいえます。すなわち本作は何らかの“原書からのコピー”であるという印象を受けます)
このセミナー全体のテーマである世界文学とは、グローバル化に従って世界中の文学に触れる機会が従来に比べ格段に上がったことで生じた概念を指します(日本にも古くから「世界文学全集」はありましたが、その主な中身は欧米文学の翻訳でした)。けれども、それが具体的に何を指すのかは未確定であり、「比較文学と世界文学とはどう違うのか?」「出版市場で勝負できるのは(原語であれ翻訳であれ)結局英語ではないか?」などといった問題もあがりました。
さて、上に挙げた作品にはすべてリンク先があるように、今回のセミナーではインターネット時代の文学に注目が集まりました。機械翻訳や電子媒体を用いた作品は、紙媒体の文学と同じように読めるのか?ネット上で飛び交う”Global Englishs”(英語を母語としない人々の言葉。同一言語とは言い切れません)はこれからの文学にどう影響するのか?様々な疑問が挙がり、それを各国の研究者と話し合うのは(私は聞くので精一杯でしたが)なかなかできない体験でした。国際的セミナーはこのためにあるようです(もちろん九月の国際学会も)。
最後に一つ。今回取り扱ったような作品が日本から出てくることはあるのかという疑問を持ちました。中国詩は長い伝統を持つだけに、何がlocalでありuniversalなのかについての問いが先鋭化して、“中国性”を保った(あるいはそれをあえて選ばない)作品を意識する傾向にあるようです。対して日本はより大きな影響力を持った文化と上手に融合する道を歩んできました(和魂漢才、和魂洋才、和洋折衷)。日本語は英語・中国語のような国際公用語ではないため、海外に向けて日本語で表現する必然性も低いです。似たような作品が日本にもあれば面白いのに、という程度の感想から生まれた疑問ではありますが、私自身がこの二週間で「日本国内で、日本語以外で表現する機会はどれくらいあるか」「日本ではGlobal Englishを意識することもなかった」と感じたことも関係しています。
次週からのセミナーは”Translation in Asia”です。特に日本語が他言語にどう訳されているのかについて考えてみたいです。
(N.N.)
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