2014年7月14日月曜日

文化資源学会とプリミティブへの目覚め

先日12日(土)、文化資源学会に参加してきました。
文化資源学会デビューですが少し遅刻して突入しました(笑)

研究発表では、研究ってこういうことなのかとしみじみ学ばせていただきました。
内容は勿論専門的ながら、知識のない者にもその面白さが届くところなど今後見習いたいです。

そして今回の学会で最もウエイトを占めていたのは神田明神の話題。
特に印象的だったのは、神田明神の神輿に関して
木下先生が「つくりもの」に言及なさったことです。

私は無意識に「つくりもの」を否定的に捉える向きがあるようです。
昔から存在していた伝統的なものこそが「正当」であり、
新しく創作された文化は文化と言えるものではなく、
「まがいもの」「如何わしいもの」だと考えていたのです。
そもそも文化はいつから伝統になるのかという問題もあるのですが。

ですから先生が「つくりもの」感溢れる神輿を取り上げられたことは衝撃でもあり、
自分の凝り固まった頭をもっと解していく訓練が必要だと痛感しました。

なんだか讃えてばかりのブログになっちゃいそうなのでちょっと切り替えます()

タイトルにも書いたように、プリミティブへの目覚め(?)もひとつの大きな収穫でした。
目覚めというと語弊があり、正確には、目覚めの発見と言った方が良いかもしれません。
いずれにしても「原始的なるもの」「一般に受け入れられにくいもの」「奇妙なもの」「関わるとなんかヤバそうなもの」、それでいて人間にとって「根源的なもの」 を自分が面白がっていることに気付きました。

荒俣先生が、崇徳上皇や平将門の怨霊のために神社や天皇までもが心を砕いたというお話をされたのが、おそらくひとつのきっかけでした。
現代の私たちが科学的に見れば、笑い飛ばせるようなことかもしれませんが、当時は国家レベルで大真面目にそのようなことをやっていたのです。
当時としてはそれが当たり前の対応であり、さらに天皇は天災が起これば自身の徳でもって防げなかったことを国民に謝罪したのです。

しかしそこには、現代の科学的論理と同等に敬意を払うべき、まったく別のロジックが存在するのだと思います。
このような一種原始的な発想というのは、否定して退けるべきものではなく、より人間存在の核の部分を発露したものです。
そういう意味で、いくら合理的な論理が地球上を席巻しても、現代の私たちの中に迷信じみたものはある程度存在するもので、これは否定されるべきものではないと思います。
今年度の文化資源学フォーラムのテーマ案で惜しくも選択されなかった「妖怪」でも、こうした部分に光を当てており、私の中で科学的論理とは異なるロジックという視点が活性化されていたのかもしれません。

さて、「原始的なるもの」といえば大町の原始感覚美術祭ですが()
アーティストがイニシアチブを取って始めた美術祭であり、その場として大町が選ばれた、ということだけでなく、
「ヤバげなもの」が具現したときに、それを「奇妙」と感じる人々との間に何が起こるのか、
初めは拒絶があるかもしれない、けれどなにか化学反応が起こり根源的なことに光を当てるかもしれない、
という「不思議な場」の作用にも私は関心を抱いているように思います。

原始感覚美術祭についてはまだまだ勉強不足で、そもそも現物を見ていません。
ドイツでの発表に向けて、問題意識を持ちながらこの美術祭を掘り下げていきたいと思います。

(risaia)

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