ところが仕事でカナダの婦人宣教師のことを扱うようになったとき「なんだかおもしろい女性の生き方だな」とにわかに興味がわき、研究を進めたくて文化資源学科に通うようになりました。そしていよいよ調査ということで必要に迫られてカナダに行くことになりましたが、「私のカントリー」との再会かぁ、くらいのテンションでの旅立ちとなりました。期待は大いに裏切られました。
カナダ在住30年以上のカナダ合同教会引退牧師A先生の完璧な計画のもと、トロントでの過密スケジュールがスタートしました。教会の礼拝参加、4回にわたるカナダ合同教会の重鎮・スタッフたちへのインタビュー、アーカイブでの資料調査などなど、その間にもカナダの文化施設訪問、文化イベントへの参加、A先生によるカナダ社会のレクチャーと、集中講義を受けているようなものでした。
よく「アメリカは人種のるつぼ、カナダは人種のモザイク」と言われますが、すべての異人種が「アメリカ化」してしまうアメリカに対して、異人種がそのままの文化を保ちながらモザイク的に存在しているのがカナダだそうです。今回の調査対象であるカナダ合同教会の姿勢にもそのような傾向は反映されていたように思います(それについては小林ゼミ合宿の修論発表でまた詳しく話すことになるかと思います)。「Diversity」という言葉がカナダの文化政策として掲げられていますが、「何の多様性なのか?」というと、それは「マイノリティーへの出来る限りの想像力」なのではないかと思った日々でした。
滞在直後から町が変に虹色だなと気づき始めました。町のバナーもレインボー、店のディスプレイもレインボー、ホテルもレインボー…そして教会もレインボーに染まり、教会説教でゲイ&レズビアンの話が始まりました。これは日本のキリスト教団にとってはかなりな衝撃の事態なのだそうですが、カナダ合同教会では20年以上前に同性愛者を聖職者として着任させるかどうかをめぐって、教会を二分するような論争があったとのことでした。結果、合同教会はそのことを認め今に至っています。日本のように同性愛の文化が連綿と存在していた文化圏とは違って、キリスト教社会でのそれは厳しい差別との闘いの歴史があったため、町に翻るレインボーの氾濫はその反動を感じさせました。この話を聞いて、「過剰過ぎるマイノリティーへの共感」と評した先輩もいました。いわゆるヘテロの人がいたたまれなくなるくらいの平等性の先鋭化だと。実際に見られませんでしたが6月20日からトロントで行われたワールドプライドがどのような様子だったのか興味深いところです。
トロントの中心部にあるトロント大学の神学部エマニュエルカレッジでの光景も印象的でした。キャンパスには磔刑の彫像が設置されていましたが、それは女性なのです。神学部の真横で女性の磔刑像が飾られている…これもかなり衝撃でした。やはりこれも20年ほど前に問題になったそうですが、「今、人類の中で苦しんでいるのはまさに女性である」ということで撤去されることはありませんでした。
『赤毛のアン』のアンはコミュニティーの外側からやって来るいわば移民のような存在で、アンは宗主国イギリスの文化をキッチュに模倣しながらもやがて成長するにつれカナダ的な現実に回収されていくという読み方もあるようです。私は「私のカントリー」的な世界を「少女のようでいて、ふてぶてしい安定感」があって、「自分の夢こそ永遠の少女の夢!」みたいな自己中心性があるのを真にこわいと思い、アンを勝手に「夢見る少女至上主義者」の代表のように決めつけていましたが、「私のカントリー」はどうやら雑誌だけの世界だったようです。アンのアングロサクソン的世界は先住民、ヨーロッパ大陸の他の地域からの移民、アジアからの移民という他者の存在に「気づかざるをえなかった」ようです。「気づかざるをえなかった」のはおそらく宗主国イギリスとの関係もあり、ふてぶてしく自己中心性に拘泥できなかった国の有り方にも起因するのかもしれません。数週間の滞在で簡単に断定するのはおこがましいですが、「マイノリティーへの出来る限りの想像力」が時には過度の平等性に走りつつも、「出来る限り」という誠意を持って、完全に到達することは永遠に出来ない他者へなんとか近づいてみようと努力するカナダのdiversityの力、その想像力に大いに興味がわきました。
(Mube)
これにもびっくりしました! |
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