久々のおにぎりがウマー!となっているsweetfishです。
実は大町へ行った直後、個人旅行でドイツ、オーストリア、チェコへ行っていました。
記憶を手繰り寄せて、大町への自身三度目の訪問について書きます。
発表会では、滞りなく終わって良かったなあということと、これからこの会がどのように行政、市民の活動に波紋が広がって行くのか、見ていてとてもわくわくしました。
そして、交流会では何人かの市民団体の方や、大町でお店を経営している方、さらには市長さんとまでお話させていただくことが出来て、私自身、奮い立つような思いがしました。
初めて会った一学生に、しっかり私の目を見ながら、ご自身の夢や人生について熱く語ってくださる人がこんなにいる町なのか!と、感動しました。
私が話した方々は、ご自身の芯がしっかりあって、だからこそ魅力的だなと思いました。
また、前回の大町訪問の際にお話した方も、覚えていてくださったり、市長さんが私の地元をご存知だったりと、嬉しいことも多かったです。
大町の人を多く知るにつれ、ここの冬が、寒くて暗いという形容詞が似合わないんじゃないか、と思うようになりました。
まちの魅力を形作るのは、古い建物や美しい風景ではなく、どんな人がいるか、だと思います。
人を動かすには、小手先のテクニックではなく、まず自分が自分のことを話せること。そしてお互いを知って行くこと。
どんな経験がどう繋がるか、分かりません。だから、話してみよう。
当たり前かもしれませんが、まちづくりにも、何事にも、それが大事なことなんだとひしひしと感じた一日でした。
(sweetfish)
2013年3月24日日曜日
2013年3月21日木曜日
Programa Cultura Viva (I)
2003年1月にルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ(Luiz Inácio Lula da Silva)がブラジルの大統領になった。ルーラは労働党(Partido dos Trabalhadores)のリーダであり、同党はブラジルの左派の最も重要な党である。70年代から社会主義の革命を要求した労働党は(ルーラは1989年、1994年、1998年に大統領候補者だった)、2000年代についにブラジル共和国の政権をとるまで上がった。ルーラの任期(2003年~2010年)は貧困対策また社会政策の成功した事業が実施されたとして世界的に評価された。ルーラは文化振興を重視したこともブラジルで評価されている。大統領になって初期に、文化省の大臣として有名な歌手、ジルベルト・ジル(Gilberto Gil)を任命し、文化省の中の改革やブラジル文化支援システムを変革することを目指した。ルーラ大統領のプログラムで重視された社会戦略の側面が文化政策にも影響したとも言える。ジル大臣は歌手であるだけではなく、長年ブラジルの文化コミュニティの様々なところでプロデューサーとして活動してきていた。バイア州(Bahia)のサルヴァドル市(Salvador)のグレゴリオ・デ・マトス基金の会長であり、本基金はサルバドル市の文化基金であり、文化部の役割を果たしているものでもあった。その後、同市の議員に選ばれて、4年務めた。文化領域での長い経験を経て、ジルはブラジルの文化支援における様々な話題について、大臣に任命される前から直接に触れてきていた人物であった。文化大臣として選ばれた時、ルーラ大統領は「文化省を自分の舞台と同じようにして下さい。」と言った。ジルが大臣を務め始めて、80年代からのブラジル政府の新自由主義の影響のもとで、文化省は国民に対する文化的責任から離れ、文化と市場とを強く結びつけた政策を長く行った結果、ブラジルの文化環境が民間に依存することになったと言える。
2006年7月6日にはブラジル文化省は“生きている文化事業”(Programa Cultura Viva)を設置した。現在の文化省においてもこのプロジェクトは最も重要と言われている。Cultura Vivaの目的は、基本的に「文化市場」にアクセスがないあるいはそのアクセスが限られている人々に、観賞だけではなく、創作することや、創作したことを発表・頒布すること、他領域の文化消費から自らの文化理解にフィードバックを得るための機会を獲得することなどのチャンスを提供することである。2003年からのルーラ大統領の任期においてブラジル政府では社会戦略がますます重視されたことに合わせて、文化へのアクセスにも社会の下層の人々が参加するための道が作られ始めた。
ではCultura Vivaはどのように行われているか。基本的には社会の中にある市民の様々なグループやコミュニティなどが自らの文化活動を応援することをCultura Vivaは目指している。
Cultura Vivaの定義は単純ではないが、そこにこのプログラムの特徴や力があると言われている。Cultura Vivaは一つの取り組みではなく、全体的な方針であるから、異なるところに当てはまる多様性がある。例えば、ある先住民の村には伝統言語の伝承があり、その村がPonto de Cultura(文化拠点)になれば、文化省からの支援を通じてその文化事象に関する対策を作り、実施する可能性が生まれる。またある公立学校ではラジオ放送プロジェクトがあり、その学校がPonto de Culturaになっていてコミュニティの教育拠点の一つである学校のプロジェクトが支援を獲得することが出来るようになった。Ponto de CulturaはCultura Vivaにおける最も評価されている事業で、競争的に採択された事業体が、180,000レアル(約870万円)を5回の分割で6ヶ月毎に支給され、応募した際のプロジェクトをその通りに実施していく。
つまり、Cultura
Vivaの「文化」の内容は決まっていない。それを決めるのは活動を主催する市民たちであると言える。実際に本プログラムに決められていることはその目的と対象のみなのである。文化省のホームページによると次の通り:
目的
・ 文化イニシアチブと文化機関を承認する
・ 社会的・経済的プロセスを強化する
・ 文化の創造、成果、発表を増加する
・ 文化のプロモーションや流通の独立を促進する
・ 芸術や文化と文化の交流を促進する
・文化活動のための場(スペース)の数を増やす
・芸術に関する社会的なネットワークを促進・強化する
・国立文化システム(機構)(Sistema Nacional de Cultura)のコミュニティをベース(基本)として政策の構成をたて、文化のエージェントとして適正を与える
対象
・大都会また小さな町に関わらず、収入が少ない(低い)層や、公共サービスが不安定な地域の住民
・社会的弱者である若者・成人
・公立学校の基礎教育課程の学生
・基礎教育に携わる講師や教育学コーディネーター.
・ブラジルの歴史遺産、文化遺産、自然遺産が認められる地域の住民
・先住民コミュニティ、農村コミュニティ、独立奴隷キロンボの末裔のコミュニティ
・社会的・文化的疎外の対策を発展させる文化エージェント、アーチスト、プロデューサー、学術研究者と社会活動家
このCultura Vivaがどのように革新的であるかを理解するために、それ以前にブラジルで行われていた主な文化支援の取り組みを知る必要がある。それについて次回に触れたい。
MP
参考
Barbalho,
Alexandre, outros, (Org.). Cultura e Desenvolvimento: perspectivas políticas e
econômicas, EDUFBA, Salvador, 2011
Boris
Fausto, História do Brasil, Editora da Universidade de São Paulo, 2012
2013年3月20日水曜日
晴れ渡る大町
今回ようやく大町へ行くことができた。詳細はM.O.さんが記してくださったので、ここでは個人的な感想を述べたい。
日本一標高の低い千葉県育ちの私としては、周囲を山に囲まれているだけで随分気分が違う。実際大町のどこへ行っても山があった(カレンダーや絵画などにも)。気温はまだ肌寒かったけれど、青空と山々が見事なコントラストをなしていた。
一日目のフォーラムでは タイムキーパーをしていたため、若手職員の発表を詳しく聞く余裕がなかった。続く市民発表は聞けたので、その時メモしたことを以下に。
・多くの人々が「肩書を外して」「一緒に議論して」「連携しよう」ということを目標に掲げていた。それがキーワードになるということは、現状がそうなっていないことの表れでもある。
・市民発表は予定の時間を超えた。それは市民が行政に自分たちの活動を知らせる機会が今までなかったからこそ、今回より多くのことを伝えたいという気持ちの表れだったともいえる(面白くてためになりそうなものがたくさんあった)
。
・やはり大町のイベント量は全国的に見ても非常に多いそうだ。事例案として、現代の祭りとしての水都大阪が出ていた。単純な比較はもちろんできないにせよ、その量は大阪を引き合いに出せるくらいには多いということである。
・ 「僧職系男子」「バル」という言葉に説明が必要だった会場に正直「おや?」と思った。これらの言葉は私にとっては自明であり、会場の多くを占める人々が私とは年代が違うことを一瞬失念してしまっていたのである。これは些細な例だけれども、多くの人が関わるプロジェクトにあたっては当然ジェネレーションギャップ
は生じてくるし、逆に欠かせないとも思った。
・全体を通して、文化ホールや図書館などの既存の文化施設を活かそうとする案が一度も出されなかったことが気になった。
フォーラム後の懇親会では大町でカフェを営んでいる方、市民発表で防災キャンプに関して話していた方をはじめ、多くの方と話すことができた(食事では蕎麦と信州リンゴが気に入った)。
その中でここに書くべきと思ったのは、「大町を何とかしたいと感じ、行動しているのはIターンした人に多い」「昔から住んでいる住民から『これ以上何かをしてほしくない』と言われたこともある」
という発言であった。
二日目の市内見学
・長大な商店街は聞いた通りシャッターを下ろした店が多かった。だが私にとってはスーパーで買い物をするのが基本であり、「商店街」そのものに一種のワクワク感を覚える。開いている店では昔ながらの菓子パンからフキノトウ、親戚の子(幼稚園)のためのセーラー服まで、予想外に買い物をした。
・「麻倉」は元々機械など全くない、それゆえ人間が何かを作ることが文字通り命がけだった時代に建てられたらしい(なにせ巨大な梁を人力で持ち上げるのである)。その話を聞きながら、後世に残していきたいのは単に建物だけではなく、その精神も含めてなんだなと思った。
私自身はまだ一つの場所に居を定めて暮らそうという感覚が希薄で、なおかつ千葉に対する思いもさほど強くない。しかしいずれ「ある土地で、どのように暮らすのか」ということを考えざるをえない時が来るだろうし、今回の訪問はそれに対する重要なヒントとなる気がする。とはいえ、まだ一泊二日分の時間しか過ごしていない。今後も訪れたいというのが今の実感である。
(N.N.)
歌舞伎の世界
皆が大町の報告をしている中、自分も報告をしなきゃと思いながらも、
今日は久しぶりだった歌舞伎観覧について書きます。
私は歌舞伎を午前の部と午後の部を一日まとめてみる、即ち朝から夜まで歌舞伎の世界を味わう一日を、何があってもかならず一ヶ月に一回は作ってきました。
2009年から1年余りに渡って行われた歌舞伎座での「さよなら公演」の時までは。
でも歌舞伎座が2010年4月、4度目の建て替えへと入ってからは、なぜか歌舞伎への興味も少し減り、平成中村座や演舞場、国立劇場などをまわりながら、ぼちぼち歌舞伎をみるようになったのです。
恥ずかしいですが、特に今年に入ってからは『隅田川花御所染』(於:国立劇場)が初観劇でした。
久しぶりの歌舞伎観劇でもあり、福助さんがメインで出演する演目だったのでワクワクしながら劇場に行きました。
でも、公演時間になっても隣の席を含め、がらんとした劇場内の風景から、なぜか寂しくなり、うまく華やかな歌舞伎の世界に入り込むことが出来ませんでした。
もともと三月歌舞伎公演には客が他の時期と比べ少なめであると国立劇場のMさんから言われましたが、それにしても例年と比べ今年は特に客が少ないような気がしました。
個人的にはその理由について(正かどうか分かりませんが^^;)次のように考えてみました。
まず、勘三郎さんと団十郎さんがお亡くなりになったことで楽しみをなくしてしまったこと(自分がまさにそうですが、かなりのショックを受けた一人でもあります)、四月大歌舞伎(於:歌舞伎座)公演の前にちょっとひいてる状況、またこの時期、東京で国立劇場を含め四ヶ所の劇場にて歌舞伎公演が行っていることで、歌舞伎観客が分散していることなどがあるかなと思いました。
歌舞伎座新開場でもあり四月大歌舞伎のチケット売りはかなり良いらしいですが、個人的には値上がりしたチケットの値段をみて、ふん、と思った次第でもあります。
ともかく、歌舞伎座を含め、歌舞伎界での地殻変動が起こっている(個人的感覚)この時期こそ、歌舞伎界を元気付けるためにも、歌舞伎を支えている人々の力がもっと必要ではないかと思います。
宣伝のようになってしまうかも知れませんが^^;、25年ぶりの舞台でもある通し狂言『隅田川花御所染』をみにいって、次世代を担っていく若手俳優らを励ましてあげてください。
今月26日まで上演します。
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_l/2012/3116.html?lan=j
また、サントリー美術館にて今月いっぱいまで、歌舞伎座新開場記念展として「江戸の芝居小屋」が展示中です。
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2013_1/?fromid=topmv
そこもよってみてください。
私も歌舞伎観劇後、よったのですが、なかなか面白い展示でした。
特に、自分の最近の関心研究対象である「検閲」のつながりとして、当時検閲された歌舞伎台本も展示されていたので、目をひかれました。
(bangulより)
今日は久しぶりだった歌舞伎観覧について書きます。
私は歌舞伎を午前の部と午後の部を一日まとめてみる、即ち朝から夜まで歌舞伎の世界を味わう一日を、何があってもかならず一ヶ月に一回は作ってきました。
2009年から1年余りに渡って行われた歌舞伎座での「さよなら公演」の時までは。
でも歌舞伎座が2010年4月、4度目の建て替えへと入ってからは、なぜか歌舞伎への興味も少し減り、平成中村座や演舞場、国立劇場などをまわりながら、ぼちぼち歌舞伎をみるようになったのです。
恥ずかしいですが、特に今年に入ってからは『隅田川花御所染』(於:国立劇場)が初観劇でした。
久しぶりの歌舞伎観劇でもあり、福助さんがメインで出演する演目だったのでワクワクしながら劇場に行きました。
でも、公演時間になっても隣の席を含め、がらんとした劇場内の風景から、なぜか寂しくなり、うまく華やかな歌舞伎の世界に入り込むことが出来ませんでした。
もともと三月歌舞伎公演には客が他の時期と比べ少なめであると国立劇場のMさんから言われましたが、それにしても例年と比べ今年は特に客が少ないような気がしました。
個人的にはその理由について(正かどうか分かりませんが^^;)次のように考えてみました。
まず、勘三郎さんと団十郎さんがお亡くなりになったことで楽しみをなくしてしまったこと(自分がまさにそうですが、かなりのショックを受けた一人でもあります)、四月大歌舞伎(於:歌舞伎座)公演の前にちょっとひいてる状況、またこの時期、東京で国立劇場を含め四ヶ所の劇場にて歌舞伎公演が行っていることで、歌舞伎観客が分散していることなどがあるかなと思いました。
歌舞伎座新開場でもあり四月大歌舞伎のチケット売りはかなり良いらしいですが、個人的には値上がりしたチケットの値段をみて、ふん、と思った次第でもあります。
ともかく、歌舞伎座を含め、歌舞伎界での地殻変動が起こっている(個人的感覚)この時期こそ、歌舞伎界を元気付けるためにも、歌舞伎を支えている人々の力がもっと必要ではないかと思います。
宣伝のようになってしまうかも知れませんが^^;、25年ぶりの舞台でもある通し狂言『隅田川花御所染』をみにいって、次世代を担っていく若手俳優らを励ましてあげてください。
今月26日まで上演します。
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_l/2012/3116.html?lan=j
また、サントリー美術館にて今月いっぱいまで、歌舞伎座新開場記念展として「江戸の芝居小屋」が展示中です。
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2013_1/?fromid=topmv
そこもよってみてください。
私も歌舞伎観劇後、よったのですが、なかなか面白い展示でした。
特に、自分の最近の関心研究対象である「検閲」のつながりとして、当時検閲された歌舞伎台本も展示されていたので、目をひかれました。
(bangulより)
2013年3月19日火曜日
大町を訪れて
朝食が<りんご+チーズ&はちみつトースト>になっているyknです。
先週の大町訪問、日帰りした前回より格段に心に残るものとなりました。
魅せられた、という方が実感に近いかも知れません。
まず何よりも「人」に。
そしてさまざまなものが動き始める「タイミング」に遭遇したことにも。
バージョンアップされた市職員発表と、行動する市民の発言を聞き、さらに懇親会で身近にお話させていただくと、まちはやはり人で成り立っているという基本がとてもよく見えました。そして、ここに集まっているのは、人口約3万人規模の市ならではのヴィヴィッドな変化を起こせる人たちだと予感しました。
懇親会で隣席だった市職員の方が「桜守」のボランティアをはじめると自己紹介をされたところ、その直後、「どんな活動?」「いいね!」「行きます!」「どこで?」と水面の波紋のような静かな輪が彼の周りに広がりました。それは草競馬が行われる河川敷の辺りだそうですが、「あの場所のあの風景」が鮮やかに共有されていて、ひと声をきっかけに、実際に身体を動かして大切に手を入れて行く気持ちがつながったのです。ふつうのことだと思われるかも知れないけれど、今の私の日常にはない、羨ましい場面でした。
あの日あの場に居た人たちは、老若男女・職業を問わずみな、この地で他者とともによりよく生きていきたい、人生と地域を豊かにしたい、そのために自分も何かしたい、という気持ちをもともと潜在的に持っていた人たちだったろうと思います。フォーラムは、そうした個人の意志を引き出して自他ともに認めあうきっかけだったのではないでしょうか。
市役所が「地域文化コーディネーター事業」を開始した年に、まったく別の道筋から「おおまちラボラトリ」の活動が始まった偶然も大きいと思います。今の大町市が、何かが変わる、何かがはじまる絶好のタイミングに遭遇していることを知り、とても心が騒ぎました。
これまでにゼミの活動を通して出合った文化のまちづくりを担う「市民」は一様ではなく、発言力のあるcity fatherタイプもあれば、具体的な事業(文化会館の設置、アートプロジェクト実施など)を契機に行動を始めた市民グループもあり、さまざまです。とても個人的な印象ですが、大町の場合は、それぞれの分野で「いかに」生きるかをテーマにする個人がゆるやかにつながってまちの未来をつくろうとしている印象を受けました。
言葉にするのが難しく、一言でまとめようすれば違うものになってしまいそうですが、二日間でお話させていただいた方々の人となり、「わちがい」にみる丁寧な暮らしのしつらえ、「原始感覚」のクールさ、ディテールに本質を追究する「麻倉」の活動、「西丸震哉記念館」の知的なくつろぎ・・・これらに通底する心地よいものを何と呼んだらよいでしょう?人の精神と感覚の両方に働きかけてくるものです。
ゼミ学生としては最後の訪問でしたが、きっとまた伺います。
大町でのゼミの今後の活動にも、ずっと注目しています。
(ykn)
2013年3月16日土曜日
将来の自分へ
M.Oさんが詳らかに報告してくださった今回の大町訪問、私からは市民フォーラム(パネルディスカッション)で個人的に考えたことを記します。これは将来の自分が迷ったときに立ち返るための心覚えでもあります……が、あとから振り返ると自分でも恥ずかしい作文になっているかもしれません。みなさんには、これから社会に巣立つ世間知らずの書生論として受け取っていただければと思います。
パネリストとして参加した若手職員のみなさんに対し、小林先生が繰り返し問われていた、というか私の耳に強く残っている問いかけは、「行政職員として何ができるか」というものでした。若手職員グループ発表では、魅力的で元気なまちづくりを市民の目線から考えることはできたが、その次を考えてほしいと。
その問いかけの意図を汲んでいるかどうかわかりませんが、「地域のためにやりたいこと = 行政職員としてすべきこと」は必ずしも一致しない、というのは私も以前から肝に銘じておきたいものだと考えていました。つまり、市民(民間)にもできることはなるべく市民に任せ、行政にしかできないことは何かを考える、そのトレーニングを積むことが特に若手行政職員には大切なのではないでしょうか。
さらにいえば、この法治主義社会において行政職員がすべきことは何か、という問いかけが必要であるように思います。日本が法治主義社会であるという事実は、見過ごされがちですが職分の根本にかかわることです。法治主義社会の中で行政だからできること、それゆえに行政がすべきことに挙げられるのが、制度環境整備なのだと思います(このあたり、立法と行政の関係が不明確になっていますが、えーっと、文学部出身なので……汗)。
環境整備というと、かつてはハードの環境整備に目が向きがちで、それが急務だった時代は(極端にいえば)それだけでもよかったのかもしれませんが、一通りのハード整備が落ち着いた現代において、今度はソフトの環境整備がより中心的な課題になっています。しかし、市民活動を下支えする制度環境整備というのはハコモノを設置するようには単純にいきませんし、その点で行政職員に求められる役割はより難しくなっているようにも感じます。個人的な話ですが、さあ厄介な職業を選んだものだ、と思ったり思わなかったり。
>将来の自分
キミは「行政職員として何ができるか」という問いかけ、今も大切にしていますか?
>将来の自分
キミは「行政職員として何ができるか」という問いかけ、今も大切にしていますか?
ところで、今春修了する私にとって、ひょっとしたらこれが最後の投稿になるかもしれません。だから言っておきます。ゼミブログが始まって1年弱、自分の考えをまとめ直すこのような機会をいただきまして、本当にありがとうございました。それから、春以降もときどきこのブログを覗きにきます、約束です。
(peaceful_hill)
2013年3月15日金曜日
大町市訪問感想(2)懇親会と二日目の見学
連続投稿で失礼します、大町市訪問感想(1)の続きです。
フォーラムの後開催された懇親会は、市長や行政職員、市民団体の方々など50名程の方にお集まり頂いていたかと思います。
私は主に、地方紙である大糸タイムスの社長及び記者の方、市の保育施設に勤務されている保育士(行政職員)の方のお話を伺う事が出来ました。
大糸タイムスの方は、「今回集まってくれた市民の方達のほとんどに取材にいったことがあるが、それを今まではばらばらに紹介していた。メディアはこれらの繋がりに貢献しなくてはならない。」と仰っていました。実は皆が「繋がりたがっている」けれど、その具体的な方策を市民や一企業レベルだけで果たすのは難しいのだと思います。
文化とまちづくりの関係について熱心に考えていらっしゃるようで、特に記者の方は熱っぽく語って下さりました。
一方で、「東京から見てー」「東京と比較してー」といったキーワードが多かった事から、自分たちのまちを相対的な視点で見る事に関心があり、また「安曇野・白馬」といった長野県で有名な他地域名や「大町のことを皆知らない」といった話題の頻出から、大町の事を外の人(特に都会の人)に知って欲しい、もっと来てもらいたいという思いがある事がわかりました。
大糸タイムス記者の方は、あるアニメのロケーションに木崎湖が選ばれて以来、年間100回も訪れた人がいるという話をして下さり、文化は「自分たちのまちの風景をそれぞれの人の中で特別なものにする力」があるのだと思うと仰っていたのが印象的でした。
そして、生徒数の激減により閉鎖寸前の美麻地区の小学校や、高齢者の外出を阻害する冬の厳しさ、産業の衰退など、現実の厳しい課題にも直面しており、そちらの方も文化面とは別に解決すべき問題であるとの認識を持っておられました。
これらの点から、原始感覚美術祭の神原さんが「私達も行政と同じ事を考えている」と仰っていた様に、行政が課題として捉えている事は民間の間でも一定程度共有されている様子が分かりました。
他方、市の保育士の方も同じ様な問題意識を共有しておられましたが、大町ラボラトリの配布資料の中に商店街の真ん中を小川が流れ、左右に緑化した道が広がるというイメージ図をご覧になった時に「これすごい、これを是非実現させたい、これがあればお年寄りもみんな日中外で楽しく過ごせる」と目を輝かせていたのが特に印象的でした。
二日目は、私たち小林ゼミ生が鳥取で行われた日本文化政策学会(3月9日-10日)のポスターセッションに向けて作成したポスターを用いて、市長に私たちの活動をプレゼンし、学生はそこから市内見学に向かいました。
訪れた場所は下記の通りです。
1)わちがい http://www.wachigai.com
2)麻倉 http://asagura.com
3)西丸震哉記念館 http://nishimarukan.com
わちがいは古民家を改修し出来たとても風情のあるカフェレストランで、暖房設備がない代わりに薪を焼べたりとあたたかな心遣いが感じられる場所でした。東京でこんなお店があったら流行るだろうな、と感じました。一方でそれぞれが独立した部屋として存在している一部を市民開放としたギャラリースペースに見に来る人はどのくらいいるのだろうと思いました。
ヒッピー運動や半農半工ブームを通じて、長野県(特に松本の方)でクラフト文化が根付いていた中、たまたま同じく工芸の盛んなメンドシーノ(アメリカ)と国際交流を行うに至ったという経緯を含め、 麻倉ではプロジェクトリーダーの小田さんにお話を伺う事が出来ました。「全体の方向性を規定するのはディテールなので、連携しようと言うだけではだめ」というお言葉は、やはり実践者の視点として重要だと思います。
倉自体が物語るものが多いだけに、下のギャラリースペースが白いパネルで覆われているのが少し残念でした。とは言え、大事な倉に直接釘を刺したり穴をあけたりするわけにもいかないので、こういう選択肢になったのかと思います。
西丸震哉記念館では、写真や標本記録など面白いものを見る事が出来ました。立地条件や施設の規模的に、単体で大きな集客を見込むのは難しい部分があるかと思いますが、原始感覚美術祭が行われる地域に相応しい資料館だと思いました。個人的には館内に展示されているイラストがとても良かったです。
最後の山岳博物館は、良い意味で予想を裏切られました。展示している資料自体おそらく貴重で、しかもそれぞれにドラマがあり面白かったです。山を楽しむ/山と共存していく上で意義のある展示資料だと思います。また、併設された動物園は山の斜面をそのまま用いて飼育展示をしており、特にカモシカについては限りなく自然の状態に近いと思われる状態で見る事が出来ます。駅から若干遠い(徒歩25分)ですが、ちょっとした工夫でもっと楽しんでもらえる施設だと思いました。
そんなわけで、あっという間の長野県大町市の訪問が終わりました。
ちなみに、初日の懇親会で出た信州リンゴ、二日目のイタリアンレストランで出た信州リンゴピザがとても美味しかったです。特にピザの方は、りんごとはちみつ、胡椒とチーズだけというとてもシンプルなものでしたが、りんごの柔らかな甘さと胡椒・チーズの組み合わせがマッチしており、皆大絶賛でした。
私にとっては今回が初めての大町市訪問でしたが、実際に現地に行って行政・市民の方達とお会いしまたまちに触れる中で改めて一年間の活動を振り返る機会になりました。
今回のフォーラムを受けて「今後どうしていくのか」という事を今一度真摯に考える一つのターニングポイントに大町市は来ていると思います。市はどのような方向へ進んでいくべきで、そのためにはなにをすべきなのか、また小林ゼミ生としては何ができるのかを私達も再考するときにあると感じました。
(M.O)
(M.O)
2013年3月14日木曜日
大町市訪問感想(1) 若手職員発表会+市民フォーラム
3月12日から13日にかけて、小林ゼミで昨年度より関わらせて頂いている長野県大町市に伺いました。
初日は雲一つないすっきりとした晴天に恵まれ、地元の方でも「滅多に見れない」という程美しい山並みを見る事が出来ました。
すぐに市庁舎に移動し、今回の目的である、「大町市を魅力的で元気なまちにするプロジェクト 若手職員発表会+市民フォーラム」運営のお手伝いにあたりました。
「様々な人の思いを坩堝に入れてかき回し、そこから新しいものを得たい」という牛越市長の御挨拶の後、若手行政職員8グループによる発表(大町でなにができるかについて)が行われました。
それぞれの案に、どれだけの実現可能性がありまた効用が見込めるのかという部分は別にして、各班の方々がこの発表を準備する過程で大町にある様々な資源や市民活動の存在に気付き話し合う機会になったという事が分かり、それだけでも良い機会になったのではと思いました。
続いて、大町ラボラトリの方々の発表が行われました。
まず、ラボラトリの活動内容(まちづくりの達人を招いて講義をして頂き、またそれを受けて実践にうつしていく)や概要を発表頂き、その後SWOT分析を通じて分類された「大町の魅力とチャンスを生かし、弱みの解消を目指す」4つのプロジェクトが発表されました。
1)自然を生かした活動としてサバイバル防災キャンプ
2)シビックプライド醸成活動
3)若い世代の大町ファンを増やす「恋するおおまち♡」プロジェクト
4)既にある大町のブランドを活かす連携プロジェクト
ここから、市若手職員の方が今回行った様な勉強会や取組が市民レベルでは既に行われており、またその内容もより具体的でレベルが高いという事が明らかになりました。
そして、市民の文化を通じたまちづくりの実践報告と題し、4つの市民活動が紹介されました。
1)NPOぐるったネットワーク大町
2)麻倉プロジェクト
3)わちがい/塩の道博物館
4)原始感覚美術祭
ぐるったは、大町温泉郷で2007年に誕生、2010年NPO法人化し大町全域を活動エリアとして展開、大町の市民活動における「連携」をいち早く考えて来た団体と言え、活躍する人達の場作りを目指しているとの事でした。
麻倉プロジェクトは、廃倉の再活用を人・倉・まちの中でうまく根付かせるために、文化プロジェクトの経験豊富な小田さんを中心として計画的な順序を踏み現在に至っている大町に有益なケース事例と言えるでしょう。「今は縦糸をはった所なので、これから横糸でそれらをつなぎ、大町の文化を織りなしていきたい」というお言葉は印象的でした。
わちがいの発表では、自分のまちを愛し継続的な取組を行うことで、その思いが周りに伝播していく可能性を感じる事が出来ました。
最後に原始感覚美術祭の発表からは、地域の良さを再発見する過程におけるアートやアーティストの媒介としての力を感じました。今年度からは公募制になるとの事で、今後の展開が注目されます。
パネルディスカッションは、上記の市民団体の方々・行政職員3名に加え小林先生がモデレータとして参加されました。
「市民活動の充実ぶりを見てどう思ったか」「自分たちの発表を企画する中で、市民と行政の役割分担や行政職員として出来る事は考えたか」といった質問が先生から行政の職員の方々へ矢継ぎ早に飛び、パネルディスカッションというよりは、職員の方々はさながら公開尋問を受けているかのような様子でしたが、「行政の役割としての環境づくり」を意識する機会になったのではと思います。
時間が押していたことや登壇された皆さんがこうした場におそらく慣れていないであろうということもあり、パネリスト内の議論やフロアからの声をひろったりするところまでは発展しませんでした。
とは言え、初回としては全体を通じて熱気に満ちたフォーラムであったと言えます。
長くなりましたので、その後の懇親会並びに翌日の活動については別記したいと思います。
(M.O)
2013年3月11日月曜日
オープン・フォーラム「日本におけるアーツカウンシルの役割を考える」
先日、アーツカウンシル東京(ACT)/ブリティッシュ・カウンシル/国際交流基金主催のオープン・フォーラム「日本におけるアーツカウンシルの役割を考える」に参加しました。ちょうど大学院の授業で韓国のアーツカウンシルの制度的課題に関する論稿を読んだところだったので、昨年設置されたACTはどうかという関心がありました。
フォーラムの構成は以下の通りです。
<基調講演(30分×2)>
・近藤誠一 文化庁長官
・リチャード・ラッセル アーツカウンシル・イングランド(ACE)戦略部門ディレクター
<パネルディスカッション「アーツカウンシルと芸術文化団体のパートナーシップ」>
パネリスト
・リチャード・ラッセル アーツカウンシル・イングランド戦略部門ディレクター
・片山正夫 公益財団法人セゾン文化財団常務理事(カウンシルボードメンバー)
・塩見有子 NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウディレクター
・中村政人 アーツ千代田3331統括ディレクター
・船曳建夫 東京大学名誉教授(カウンシルボードメンバー)
モデレーター
・菅野幸子 国際交流基金情報センタープログラム・コーディネーター
この構成から分かる通り、フォーラムの観点はACTの組織や制度ではなく、芸術文化振興(promotionではなくdevelopmentであり、現状維持ではなく発展を目指す)の日本での活性化に向け、英国の知恵や経験、あるいは現場からの意見を聞き、ひろく考える事にありました。
まだ出来たばかりの組織に対して評価をする事は困難なので当たり前かもしれません。
そもそも、ACTはどのような機関なのでしょうか。ウェブサイトには以下の様に記載されています。
経緯:世界的な文化都市東京の実現を目指し、平成23年11月の東京芸術文化評議会からの提言も踏まえ、芸術文化を推進するグローバルスタンダードな仕組みである「アーツカウンシル」を日本で初めて本格的に設置致しました。
設立趣旨:1)東京における芸術文化創造のさらなる促進や東京の魅力向上を図ることを目的とします。2)国際都市東京にふさわしい個性豊かな文化創造や、創造性に満ちた潤いのある地域社会の構築に貢献していきます。3)芸術文化の自主性と創造性を尊重しつつ、専門的かつ長期的な視点にたち、新たな芸術文化創造の仕組みを整えます。
機構の位置付け:ACTは、東京芸術文化評議会での政策提言やこれを踏まえた東京都の方針の下、事業を実施していきます。また、事業評価およびカウンシルボードでの議論等を踏まえ、東京都への事業提案等も行っていきます。
これらについては片山さんの発表から補足を抜粋したいと思います。
<日本のAC議論のひろまりのきっかけ>
・より有益な公的資金の使い方に関する説明責任が増えた事
・文化自体の再評価がなされてきた事
・どのような施策を講じれば有効なのかについて専門家が関与しておらず、またその目的自体も不明確である事
・アーツコミュニティ全般に対する一般大衆の不信感がある事
から、芸術文化振興の専門機関の必要性(ハードへの投資からマネジメントへ)が増えた。
<東京都とACTの役割分担>
東京都が芸術文化にコミットして行く理由、また芸術文化の中でどこ重点的に投資して行くのかを決め、それに対しACTが具体的な施策を採る。そのためには、民間の芸術文化活動の動向と想像活動の現場を観察する必要がある。
ACTは、プロジェクト実施だけでなく助成のスキルを高め、またその中でパイロット的役割、および情報の提供者として振る舞い、ネットワーキングを行うべきである。加えて、都民に対するわかりやすい広報をしなくてはならない。
基調講演は文化庁/ACEの取組を概観するに留まったため内容は割愛しますが、これらの発表を踏まえ、船曳先生は今回のフォーラムにおけるキーワードを「財務規律、自己検証、社会の中での関係を築き発展していく」の3点にまとめられました。
パネルディスカッションに入る前に、それぞれのパネラーからの簡単な発表がありました。(その中で片山さんが上記の言及をなされました)
塩見さんは、とりわけ初期段階における小額でも柔軟性のある助成や人材を見つけ育てる環境づくりの必要性、及びラッセルさんの発表でも言及されたリスクテイキングの必要性を強調されていました。
そして、中村さんはより実際的な観点から、アーティストの活動場所不足の問題を挙げられていました。(例えば地価の問題を考えると、制作場所を安い賃料で確保出来る様なシステムが求められていますが、アーティストの活動によりその地域が活性化されれば、それまで安かった賃料が高騰し、地域の発展を支えてくれたアーティストが移転を余儀なくされるという場合もある、という話題が出ました)
このパネルディスカッションを通じて、営利・非営利あるいは団体・個人といった、今までの日本の文化政策が文化を捉える時に用いて来た旧来型の枠組みだけでは現在の文化シーンを語ることはできず、今、地域間・アクター間などの柔軟な協力や、明確な目的とメカニズムの形成が求められていることが分かりました。
文化の発展を支えるリスクテイキングの概念に関しては、目的に対してどのように評価を解釈して行くのか、(失敗しないものを選び多くを透視する事だけ良い助成なのかどうかという点について)その自己検証システムの再考が重要である事も確認されました。
「行政はすぐ枠組みの話をしたがるが、そういうところにとらわれないACのあり方になってほしい。アートをリスペクトしてくれる人たちを増やしてほしい」という塩見さんの御意見が印象に残っています。
また、そのためには「アートの重要性について語るより経験させる方が何倍も有効」とおっしゃったラッセルさんの言葉に妙な説得感を覚えたのは、イギリスが長年にわたり文化振興という課題に取り組んで来た歴史に裏付けられたものだからだと感じました。
(M.O)
2013年3月9日土曜日
シンガポール演劇界のパイオニアKuo Pao Kun回顧展
シンガポールの芸術文化の礎を築いた劇作家・Kuo Pao Kun(郭宝崑、1939-2002)の没後10周年にあわせて、昨年から今年2月にかけて彼の名を冠したフェスティバルが開催されました。Kuoが設立した劇団・The Theatre Practice(実践劇場)が主催するこのフェスティバルでは、国内外の劇団がKuoの戯曲を再演したほか、国際会議や学校と連携した教育プログラムなどが実施され、Kuoの戯曲をまとめた全集も出版されました。今回はそのひとつ、シンガポール国立博物館で開催された回顧展”A Life of Practice Kuo Pao Kun”と、会期中に上演されたドキュメンタリー演劇をご紹介します。
Kuo Pao Kunは今やシンガポールのパフォーミング・アーツを特徴付ける要素となった多文化の融合や、バイリンガルもしくはそれ以上の数の言語によるパフォーマンスを最初に試みた劇作家です。回顧展ではKuoの生涯とシンガポールの舞台芸術の歴史を併記した年表、Kuoの手記、公演のパンフレットや記録映像などが展示され、一人の人間の一生、劇作家としての業績、そしてシンガポールの演劇界の発展を同時に辿ることができました。多くの観客が関係者のインタビュー映像に長時間見入ったり、学生が上演記録を見ながら声を上げて笑うなど、来場者が展示に引き込まれている様子も見て取れました。
展示会場で私たちが目にするKuoの生涯は実に波乱に富んでいます。幼い頃に中国からシンガポールへ移り住み英語と華語のバイリンガルとして育ったKuoは、60年代から70年代にかけて急速な工業化と経済発展を目指すシンガポール社会の弊害を批判する華語演劇を次々と発表。文化大革命やマラヤ独立運動などの影響を受けたこれら左翼的な作品は共産主義の広がりを警戒する政府の弾圧を受け上演が禁止され、1976年には妻のGohとともに治安維持法によって身柄を拘束されてしまいます。一度は拘禁され、公民権を剥奪されたKuoでしたが、80年代に入るとシンガポール初のバイリンガル演劇を上演、その功績が認められ1989年には政府から文化勲章を授与されました。90年代にはシンガポールを代表する劇作家として海外のアーティストや伝統芸能とコラボレーションしながら画期的な作品を制作、後進の育成にも力を注いでいます(詳しい経歴は下記参照)。
今回の回顧展は一人の芸術家の評価を巡る歴史としても大変興味深いものでした。そして、資料として客観的に展示されたKuoの生涯に、命を吹き込んだのがTheatreWorksによるドキュメンタリー演劇です。展示だけでなく最も近くにいた人物の目を通してKuoの生涯を見つめてみたい、という回顧展キュレーターの言葉が示すとおり、この作品は妻・Goh Lay Kuan(呉麗娟、1939-)とKuoの対話を描いたものです。展示会場の中心部に円形に組まれた客席の中心で二人が向かい合うような形で上演が進行しますが、直接言葉が交わされることはありません。Gohの台詞がオーディオ・アーカイブに基づく語りであるのに対し、同等の記録が残っていないKuoの台詞は手紙や戯曲によって構成されていて、一方の発した台詞に対し他方が応えるような場面は起こり得ないのです。Gohの臨場感あふれる言葉を通して観客は戯曲の背景にあった社会状況や当時の生活をうかがい知ることができましたが、何よりも見るものに訴えかけたのは彼女の怒りのエネルギーでしょう。当時は上流家庭しか触れることのできなかったバレエの世界に魅せられた彼女が感じた貧富の差による不平等、教育制度に対する批判、そして自らの表現が政府の一存で日の目を見ることなく消されてしまうことに対する怒り・・・展示品だけでは読み取りきれない激しい感情を生身の俳優を通じて再現する試みは、演劇という芸術の持つ力を存分に見せ付ける、劇作家の回顧展に相応しい企画でした。
60年代に端を発するKuoやGohの鋭い批判精神は現在のシンガポール社会でも色褪せることなく、むしろますます力強く我々に訴えかけるように思われました。これまでもご紹介してきたとおり、シンガポールでは政府が進める開発によって有形・無形を問わず様々な文化遺産が消失の危機にあり、草の根でそれを守ろうとしている人々が居ます。今年2月には政府の発表した人口政策と移民受け入れに対し、過去に例を見ない規模の抗議集会が開かれました。90年代から注目が集まったシンガポールの市民社会運動は、政府が先取りして理想の市民社会像に国民を誘導するのではないかと予測されました。Kuo Pao Kunの生涯は回顧展を通して先取りされた市民社会像の一つとして描かれたのでしょうか。TheatreWorksの舞台や熱心な来場者の反応を見る限りでは、シンガポールの社会にはそれとは違う方向に向かおうとしている力があるように感じられました。(齋)
Kuo Pao Kun(郭宝崑、1939-2002)
中国河北省出身。10歳のとき父親が会社を経営するシンガポール(当時は英国植民地)へ移住。華語劇団で俳優として活動した後オーストラリアで演劇を学び、1965年にシンガポールへ戻るとダンサーで振付家でもある妻のGoh Lay Kuan(呉麗娟、1939-)とともに当地初の舞台芸術の学校・Singapore Performing Arts School(後にPractice Performing Arts Schoolに改名)を開校。演技やダンスの指導にとどまらず、在校生が貧しい村落に滞在し、そこでの生活を作品に反映させていくような教育を行った。1976年からの4年間、治安維持法によって拘禁生活強いられる。演劇界に戻ったKuoの作風は、直接的に政治問題にコミットするものから複合社会や多文化主義の中でゆれるシンガポール人のアイデンティティを描くものへと変化。86年には初のバイリンガル劇団・The Theatre Practice(実践劇場)を設立、彼の代表作となる多言語の戯曲を上演。90年代には伝統芸能とコラボレーションしながら歴史や記憶のあり方に焦点を当てた作品を制作、日本で取材した太平洋戦争の記憶をもとにした"The Spirits Play(霊戯)"などを発表。1990年にはシンガポール初のインディペンデント・アートスペースThe Substationの初代芸術監督に就任し、実験演劇から伝統芸能、パンクのコンサートに至るまで様々なプログラムを実施。Kuoの学校やSubstation、そしてアジア各国の文化から学ぶTheatre Training & Research Programmeは、今日国内外の芸術文化の最前線で活躍する数多くのシンガポール人アーティストを育てた。
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