話が変わりますが、正直ワルシャワは暮らしてみると面白い街であっても、観光向けの街とは言い難いです。日本の旅行会社が中欧の旅と称してウィーン、プラハ、ブタペストのツアーを組むことはあっても、その中にワルシャワは入りません(クラコフは入ってもいいのでは?と思います)。ここは戦後建て直され、観光ガイドに載るような見どころがそれこそショパンしか思いつかない街です。もちろん細かく見ていけば唯一無二の面白さはいくらでも見つかりますが。
そして“観光ガイドに載るような歴史”に乏しい原因の一つに、大戦前後でこの国が多文化から「ポーランド人、ポーランド語、カトリック」の単一文化へと劇的に変化したこと、その際1000年にわたり蓄積されてきたユダヤ文化が根こそぎ失われたことが挙げられるのではと考えます。特別展でも、この博物館は過去を振り返るためだけにあるのではない、あくまで現在・未来のための施設であり、ユダヤ人のみならずむしろワルシャワ市民にとって重要な意味を持つ施設だと強調されていました。ここはホロコーストだけに焦点を当てる施設ではない、「ユダヤ人がいかに死んでいったか」だけではなく「ユダヤ人がいかに生きていた、生きているか」を探るということです(現在国内には約2万人が暮らしているとされています)。
現在のワルシャワでユダヤ文化の痕跡を探そうと思っても、記念碑以外のそれはほとんどないのが現状です(だからこそ前回紹介したヤシの木が意味を持ちます)。この状況は逆説的に常設展示の特徴へと繋がります。歴史的に価値のある物があまり残っていないからこそ、五感に訴えるような新しい展示法が採用されました。複雑な装飾が豪華なシナゴーグは展示の目玉ですが、それを館内に再建することで建築技術の継承も目指したわけです。全館開業前から、この施設は市民に向けて音楽やシンポジウムといった多くの事業を行い、より広い理解を得るために努めてきたようです。
この博物館が本当にワルシャワ市民の我が街に対する理解を深める助けになるのかは現時点では分かりませんが、大きな目的意識を持って建てられたことは確かです。
最後に博物館の後に行った場所の写真を。戦災を逃れ110年以上の歴史を持つHala
Mirowskaは市民の台所といった野外市場ですが、そこにはかつてゲットーの壁があったことを示す表示が残っています。そして意外だったのが中心部に位置するPróżna通り。かつてはユダヤ人居住区として賑わっていたこの通りは、戦後すっかり寂れてしまっていると紹介されていました。今回行ってみたところ、確かに崩れ落ちそうな建物の壁が見える一方で、その建物上層階には真新しい工事用シートがかけられていました。その向かい側には洒落たレストランがあり、名前の通り「空っぽ」だった通りも趣を変えつつありました。ただしそれは本来この場所が中心部という一等地であることを活かした再開発であり、過去の復元といった方向には向かわない模様です。
(N.N.)
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