制作の現場だという答えはひとつの正解だと思います。作家やアーティストが作品を生み出す場と瞬間、それこそが美術の現場のひとつであることは疑いないと思います。
それでは美術館はどうでしょうか。制作された作品を収集し展示し人々に公開する美術館を美術の現場と呼ぶことができるのでしょうか。これは美術館批判ではなく、僕が長年持ち続けいまだ解決できていない疑問です。「美術に関する仕事がしたい」と考える人が思い浮かべやすい仕事場は美術館であると思います。しかし美術館(のほとんどの機能)は美術を生み出す場であるとは言い難いと思います。美術批評と制作の関係性にも似て、すでに生み出された作品の存在を起点にして美術館としての機能が発生することが多いわけです(美術館の展示が美術史を形成していったという話は他に譲ります)。美術館が制作の現場ではない場合、美術館は「美術の現場」と呼ぶことはできるでしょうか。「美術の場」ではあるかと思いますが。
この疑問は「文化政策の現場」という言い回しでも適用できると思います。芸術文化を生み出すクリエイターを支援・育成・活用することは得意だしそれこそが文化政策の目的であり主たる機能なのかなとも思いますが(文化芸術の有価値を無批判に前提とする一種の思考停止も如何なものかと思いますが)、制作者としてではない形で文化政策に携わっている人の話を聞いたり本を読んだりしていく中で、文化政策に携わるあなたの立場は文化芸術の「現場」にあるのですかと問いたくなる瞬間が多々あることも事実です。
学芸員という職業に対する疑問は山ほどあるのですが、そのひとつは「結局学芸員はアーティストに勝てないんじゃないか」ということです。
学芸員について話題にされる言説の中に、ひとつのストーリーやテーマに合わせて作品を選択し配置し発表する展覧会というものは学芸員にとっての「作品」といえる、という言い方をするものがたまに見受けられます。学芸員が作り出した展覧会は本当に作品と呼べるでしょうか。少々乱暴な言い方をすればその言説はレトリックに過ぎないのではないかと思います。すでにあるもの、他の誰かが作ったものをストーリーやテーマに合わせて選択し配置することは、一種の「編集」行為だと思います。作家やエッセイストが書いた文章、マンガ家が書いたマンガを集め体裁を正し雑誌という形でひとつにまとめ発表する編集者をクリエイターと呼ぶことができるでしょうか。編集者という機能に重きが置かれる以上、展覧会を組む学芸員をクリエイターと呼び、展覧会を「作品」と呼ぶことには無理があるのではないでしょうか。作家、アーティスト、芸術家をクリエイターと呼ぶことができるならば、学芸員や編集者の仕事はクリエイターの作品を編集することです。そうであれば、「美術」にしろ「アート」にしろ「文化政策」にしろその大きな渦のコアであり中心であるのはクリエイターであることを認めないわけにはいきません。クリエイターが生み出す作品や文化がなければ学芸員も編集者も職業として成立しえないと思います。その時、「現場」とは制作の現場のことであり、その周りにいる立場の人々の機能は制作の現場を設えること、制作の現場を快適にすることでしかないと言えてしまうのではないでしょうか。
そのことは、音楽の世界における作曲家と演奏者・指揮者の関係、映画における原作者と脚本家・映画監督の関係、舞台芸術における原作者と演者・演出家・舞台監督の関係などにもあてはまると思います。
僕個人に関して言えば、美術館や学芸員の根源的なあり方そのものに疑問を持っていることや、まっすぐに学芸員になりたいと言い難い心理的な原因はこのあたりにあります。苦労して学芸員になったところで、結局はクリエイターに勝てないんじゃないか。そう思うからこそ、音楽をやってみたり写真を撮ってみたりいろいろとやっているわけでもあります(もちろんそれだけが理由ではありませんが)。ただそこにも問題はあり、たとえば楽器を演奏するにしても人の書いた曲を演奏しているだけでは演奏者の枠から抜け出すことはできませんし、だからと言ってオリジナルで作曲をしたところで音楽理論なる定型化された大きな枠組みを抜け出すことは非常に困難です。突き抜けてジョン・ケージの真似ごとやフリージャズをやっても一時的に変な音楽をやった面白い人という評価を超えることは難しいでしょう。根源的に音楽理論なる20世紀に体系づけられた[仮の]体系そのものを疑問視し脱構築する必要がある時代に来ているようにすら考えています。写真にしたって、すでにあるこの世界の一部を切り取ることがその方法である以上インデックスを繰り返し再生産しているにすぎず、「その対象に目をつけてその角度でそういうライティングで撮影したそのアイデアが素晴らしい!」というふたひねり半くらいした奇妙な評価になりがちです。見たものそのままを写す写真にはできない空想の世界や偶然キャンバス上にできた模様を目に見える形に描き出せるのは絵画だけだといって写真や写実絵画に対する優位を説いた19世紀抽象画家や象徴主義の作家たちの主張はこの点において正当性を持つものだと思います。フォトショップとかの画像加工ツールを使えば写真だって見たものそのままを写したものじゃなくなるじゃないか!という意見もありますが、それは現実の描写を思うように「修正」しているにすぎず、素材は現実の光景を用いていることには変わりありません。そもそも音楽にせよ絵画にせよ写真にせよそのようにジャンルを区切って話題にしていること自体が前世紀までに美術史学の発展の中で区分されたジャンル分けを無意識に踏襲してしまっているからであり、「クリエイターになろう!」といって「絵画にしようかな、写真がいいかな、音楽家になろうかな」と選択すること自体がすでに確立された(ように見える)ジャンルの枠に最初から無意識に囚われてしまっているわけです。この壁を超えることは容易なことではありません。この壁を乗り越えようと試行錯誤を試みる勇者にはたいがい「変な人」という不名誉な評価を与えられてしまうことが多く、成功し名声を得ることは並大抵のことではありません。ジャンルの壁を乗り越えることに成功したところで、それは「新たなジャンルをもうひとつ生み出した」ことに結実し、結局は新たなジャンルの壁を創出したに過ぎなくなる可能性だって大いにあるのです。コンピュータの発明以降人類の発明は新しく何かを生み出すことは不可能になり、すでにあるものの組み合わせを生み出し続けることしかできなくなったという話もあります。そこまで考えると真のクリエイターになることがどれほど困難なことであるか途方に暮れてしまうことも確かです。
ずっと持ち続けている疑問でまだ解決できておらず結論は出せていないのですが、自らクリエイターにならずクリエイターを生かすことを主業とすると決意するのであれば、それだけの理由と意味を自らの中に構築しておく必要があるのかなとも考えています。
(志)
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