今週の火曜日に自転車で退勤中、自動車にはねられて、救急搬送されました。若い時は受身をとっさにとれるのですが、衝撃になすがままでした。ヘルメットは壊れましたが、頭は大丈夫でした。自転車を乗るときはヘルメットが大事です。
どうも今週は疲れました。しかも事故は今年2回目。
それはともかく。
先日の文化政策学会では、最後にある先生から、『社会教育の終焉』は古典では?との指摘を受けました。たしかに、昔からその議論はあるし、誰もが気が付いているのかもしれません。今更持ち出すなという批判もあるかもしれません。
でも、どうしても古さを感じてばかりいられない自分もいたりします。
なぜだろうと思索を巡らすと、社会教育から出発している生涯学習は自己変革をしてきたように思います。しかし、そこから派生してきた(少なくとも基礎自治体レベルでは)文化財保護行政は、いまだに市民を“オシエソダテル”という形式から離れなれないように感じられます。
これは単に、担当者個人の資質の問題だけでなく、文化財保護に欠かせない調査の方法に含まれる権力構造にあると考えています。
すでに民族学(あるいは民俗学)では、方法の中に含まれる政治性についての批判がなされてきました。しかし、例えば考古学はその反省に立ってきたかといえば、必ずしもそうではない。ましてや、行政という主体が行う発掘調査という方法の中に、政治性が含まれるなんてことは誰も考えていない。いや、考えようともしなかった。
ある会議で、私が行政発掘によって得られた成果をきちんと市民に対して示すべき(この態度も今となっては反省しべきかもしれない)ことを主張したのに対して、ある人が「難しいことを言っても判らないのだから、市民には判るものを判るとおりに示すべき」との回答をもらったことがありました。このこと自体、社会「教育」どころか、教育ですらないのだと悟った記憶があります。私は判らない(判りにくい)ことを判りやすくするのが、教育行政だと考えていましたので、結構衝撃的でした。
この時点では、パーソナリティの問題だと失笑していたのですが、よくよく考えてみると、実は発掘調査という手法自体が抱える問題と不可分の関係にあることが何となく見えてきています。発掘調査というと、既にわかりきったものを掘り出す感覚にとらわれがちですが、実際には、出土遺物の年代や土層の堆積状況などを総合して、遺構や遺物、さらにはその総体である遺跡の意味付けを行っていく作業が発掘調査という作法です。それゆえに、遺跡を遺跡として認定し、遺跡の年代や社会的な価値を付与していくのは、果たして誰であるべきかという根本的な問いがなされないまま、何となく専門家的な人が行なうべきで、素人である市民はその結果を享受する(本当は享受もしていないのかも)のを小鳥が親鳥からえさを与えられるがごとく、受け身にならざるを得ないのが暗黙のルールとなっているのではないかと私は思っています。
この手法ゆえに、無知蒙昧な市民をオシエソダテルという社会教育システムは、文化財保護行政では根強く残ってしまっているのではないかと考えています。この背景には、文化財を聖域とみなす風潮が行政組織内外に存在してきたことと深い関係があるのかも知れません。「聖域だから素人である市民は直接発掘調査に関わることはできない。専門性を持った一部の人々が、発掘調査という方法によって地域を知ることができる」という暗黙のルールが、やがて独り歩きして、発掘調査という手法と市民は縁遠い関係にあると私たちは思い込まされてしまっていのではないかと感じています。
このように解釈すると、文化財保護行政という枠組みではまだまだ社会教育には、松下啓一の議論は有効なのではないかと勝手に想像していました。
(ま)
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