法事の時にお坊さんが上げるお経って何言ってるかわかんないですよね。法事の場に参加している者としてお経が何言ってるかわかんない状態でもいいんですか?ってお坊さんに聞いたところ「お経が何を言ってるかはわからなくていいんです。大事なのはお経の声が聞こえている範囲の空間に当人のために親族や血族が集まっているということなんです。」という答えを頂いた、というアネクドートは原田宗典さんのエッセイだったと思います。
声や音っていうのは根源的には空気の振動ですからね。その声や音が聞こえている範囲の空間にいる人々にはそのサウンドが鼓膜や体を震わせて物理的なレベルで一種の共有体験になるわけです。
昨年フォーラムに向けた会議の時にディズニーランドのBGMのことをちらっと話したら「誰と行ったの?」的な方向に持って行かれそうになったのですが僕が言いたかったのはそういうことじゃなくてですね(「祭」の話してる時だったのかな?)、ディズニーランド、ここでは東京ディズニーランドのことですが、あそこって舞浜の駅降りてから帰途に就くまで園内にいる間ずーっと途切れることなく楽しげでどこか幻想的なBGMが流れ続けているんですよね。もちろんディズニーの凄まじいまでの演出力っていうことではあるんですが、あの無際限なBGMを「音の空間性」という視点から考えるとですね、その音楽が響いている空間に居続けている間は夢と魔法の国にいるんだよという意味になるんだと思うんですよね。音は空間を支配しますが、その空間にいる人々には同じ意味が与えられるんだよということです、お経と一緒で。
「音の空間性」は日常生活を送る中で随所で体験することができます。たとえば救急車やパトカー
(「パトカー」という略語もすごい昭和な匂いがしますが)などの緊急車両がサイレン鳴らして走っている姿。運転免許持っている方は学科で習ったはずですがあれは要するに緊急車両が通りますから道を開けてくださいっていうサインなわけですよね。それを文字や表示(だけ)でなくサイレンという音を使って警告しているわけです。その対象はサイレンが聞こえている範囲の空間にいる車両の運転手なわけです。見たことはありませんが救急車を上空からヘリコプターで追い続けたら救急車の周りだけ一瞬ほぼすべての車両がストップするという現象が起こっているはずです。その円はつまりサイレンが聞こえている範囲であり、それがつまり「音の空間性」を利用したサインというわけですよね。
それから「音の空間性」を逆手にとったのが暴走族のけたたましいエンジン音ですよね。あれは周囲の人々をうるさがらせるのが目的の爆音なわけですから、誰かに聞いてもらわないと意味をなさないんです。オバケと一緒です。だから彼らはわざわざ住宅街や観光地など人が多い場所でバリバリパラパラ鳴らすわけです。「音の空間性」の理論を本能的・野性的に感じ取って逆の方向に利用している例だと思います。あの爆音は砂漠の真ん中とか誰もいない山道とかでやったって意味がないんですよね。うるさがらせる対象の人々がいないわけですから。そう思えばかわいいもんだと思いませんか。
暴走族の爆音は実は乳幼児の奇声にもつながるものだと思っています。幼児くらいのこどもって突然大声で叫んだりしますよね。あれがいやだからって子供が嫌いな人も多いみたいですが。なんで子供って大声出すんだろうなって考えたことがあるんですが、ぼくなりにたどりついた答えがこの「音の空間性」だったりします。子供が奇声を上げると、声の主である子供がその声が響いている空間を一瞬支配することができると思うんです。そうするとその空間にいる子供も大人も一瞬声の主に注意が向くでしょう。そうすれば、「お腹すいた」だったり「遊んで欲しい」だったり「さみしい」だったり「つまんない」だったり、あるいは「楽しくてしかたない」みたいな意思や感情までもその周囲の人間に伝えることに成功する可能性が一気に高まるわけです。特に子供の間は誰かに保護されないと生きていけない生き物なわけですから、その場における自分の保護者(もちろん親に限らない)に自分の存在や意思、危険などを伝える必要があるんです。そのために最も手軽で有効な手段・道具が自分の声・奇声という音なのだと思うのです。
音を発生させることでその音の主に注目をさせることが目的にあるという意味で僕は暴走族のエンジン音と乳幼児の奇声は同じものだと思っています。ただここにはおそらく生存のための音と承認欲求のための音という相違はあると思います。
それから音が騒音になる瞬間も面白い現象ですよね。その音が騒音であるかどうかは聞く人の立場や価値観によって変わったりしますから。掃除機やエンジンなどの機械が発する音には耳障りなものが多いですが多くは機械を動かすために必要な騒音なわけですし、むしろその機械音が大好きだという価値観もあるわけです。それから電車内でヘッドホンから漏れ聞こえるシャカシャカ音が音楽なのか騒音なのかという価値判断はまったくもって個人的かつ即時的かつ気分的なものですよね。ゴミと宝物の境界はそれぞれの人・立場・瞬間・場合・気分などの諸要素によって変化する価値観によって変わるわけです。
なんとか修論を書き終えたということで今まで手が回っておりませんでしたゼミブログの方を少しづつ書いていこうと思います。ネタはすでにいくつも用意できているのですが忙しさとかを理由に後手にしてしまっておりましたすみません。
特に今まで書けていなかった音楽の話をいくつかしてみたいと思います。前座として「音の空間性」の話を、今日のS先生の原点でのお話をきっかけにして書いてみました。
普段僕が頭の中で考えているのはこんなようなことだったりします。
(志)
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