先日、ある社会人大学院生の方の発表を聞いて、あらためて自分の考えを整理する機会にめぐまれました。
文化資源学専攻の社会人大学院生の多くが、職場や地域において涌きあがってきた問題意識をベースにして、大学院に進学されるケースが多いようです。私もその一人ですが、私の場合、いざ研究論文で、自分の職場の事例を分析対象とするにはあまりにも小さい物語で、論文にするには耐えませんでした。
その点で行くと、上記の社会人大学院生の方は、業務で大きなプロジェクトに関わられ、文化資源学の研究対象としてとても重要な問題を含んでいる事例の当事者なので、小さな物語にしか接した事のない私にとって、うらやましい!の一言につきます。
ただ一方で、発表の際にある先生が指摘されていたのですが、それゆえに対象との距離が近く、研究対象として扱う際の危険性を常に孕んでいるのもまた事実だということです。
社会学等のフィールドワークを用いる学問領域では、調査者と被調査者の間の信頼関係(ラポール)を形成しながら研究が展開されていきます。しかし、研究対象に近づきすぎ、調査者がそこに同化してしまうと、オーバーラポールとなってしまい、客観的な記述ができなくなります。
文化資源学の領域においても、多かれ少なかれ、このオーバーラポールの状態に陥り、文字としていざ表現する段階になると、研究対象の礼賛になり、論文にならない結果になりかねない危険性が常に存在するのではないかと思っています。
特に私を含めて、現場で培われてきた問題意識を研究の出発点にしている社会人大学院生の場合、この陥穽にはまり込んでしまう可能性が高いように思います。そこでは、研究対象に対する問題意識が自分と近しい人々(例えば同じ職場の人)と日々接しているがゆえに、そこで見えることが真実であり、問題に対する解が身近に存在するかのような錯覚を覚えてしまいがちです。
ですが、実際には一つの問題に関わる多様な視点や考え方が存在し、どんな問題でもそのすそ野は幅広いと私は考えています。そして、そのすそ野は、対象と近ければ、近いほど見えづらい。そこで問題の多面的な広がりを捉えるために、時間軸をさかのぼり(その事業の出発点から現在までの歩みなど)、空間軸を広げて(事業に直接的・間接的に関わる自分が所属するコミュニティ以外のコミュニティの動きなど)、調査をすることになるのだろうと思います。
自戒を込めて。
(ま)
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