実は昨年1本だけ投稿していますので初めての記事ではないのですが、正式にゼミに所属して最初の記事からグランドピアノに放火する話だったり俺はTOKYO生まれHIPHOP育ちな話だったりするとさすがにトバしすぎなので、おとなしく文化資源学にまつわる話題から始めてみようと思います。フォーラムの授業もいよいよ始まったようですし。
昨年度の文化資源学フォーラムでは地図をテーマにシンポジウムを開催しました。趣味程度に好きだった地図についてみんなと1年間うんうん考え抜き、最終的にこんなに盛大なイベントにまで昇華されることになるなんて夢にも思っていませんでしたが。
そんなこんなで昨年度1年間地図について色々と調べ考えていたわけですが、結局最後までどこにも書かなかったし誰にも言わなかったけどずっと考えていたことをこの機会に発言してみたいと思います。
「地図ってスーパーフラットだよな。」
っていう話です。
スーパーフラットっていうのは現代日本を代表するアーティストの村上隆が打ち出した概念であり、日本社会の文化や芸術のあり方に見出される「うすっぺらさ」を、現代日本における現象のひとつであるオタク的表現方法さらには日本画に良く見られる「超二次元性」なる特徴を用い表出しあぶり出すという、現代日本社会のありかたを冷静に捉えつつ日本人芸術家としてのアイデンティティを凝縮させた非常に強力な概念であり活動である、と考えられると思います。哲学者東浩紀は20世紀の精神分析家ジャック・ラカンが『精神分析の四つの基本概念』の中でドイツ・ルネサンス期の画家ハンス・ホルバインの『大使たち』に描かれた歪んだ骸骨について、遠近法という「確立された制度」から逸脱し、画面における視点を複数にすることにより象徴界=遠近法(西洋社会で作られた「制度」)に図と地が未分化な状態≒想像界が侵入してきた、つまり社会を作り上げている約束事の世界に風穴を開けるという挑戦的な表現をとっていると指摘していることを取り上げてスーパーフラットの概念的な説明をしています。とかいう難しい話は別にわかんなくてもいいんですけど。
要するに、遠近法と呼ばれる一点透視図法で描かれた近世(中世?ルネサンス?)以降の西洋社会で生まれた絵画の描き方と地図の描かれ方って違うものだよな、っていうことです。洛中洛外図屏風なんかを思い起こしてみてください。ああいう画面って、画面の前のどこか1点に立って全体を眺めてうーん綺麗な絵だ、と感心する類のものではないですよね。画面の一部分に顔をグッと近づけ、ここには大名行列が歩いているな、ここにはお城みたいなものがそびえているな、このあたりは商人や町人で賑わってて楽しそうな界隈だな、とか、部分部分の描写を楽しむ方法を採ることが多いのではないでしょうか。そしてその時に、数メートルある大きな画面のどこに顔を近づけても同じような視点で描かれているということがポイントになるんですね。パースの取り方というんでしょうか、右上の端に顔を近づけたら全体が見えないからよくわからない、真ん中だけ見ても全体が見えないから意味がない、といった描かれ方をされていないということです。
地下鉄の三越前という駅で乗り換えるときの長いコンコースの壁に10mはあろうかという横長の絵が展示されていることをご存知でしょうか。『熈代勝覧』という、江戸時代の日本橋の賑わいを上空からの視点で描いた絵巻です。オリジナルはベルリンの図書館かどこかにあるらしいので三越前にあるのはレプリカなんですけど、日本橋から銀座の端までの賑わいの様子が描かれていて、その視点が数メートルにわたってずーっと同じなんですね。唯一日本橋付近が一点透視図法になってる以外は。
これらの例は、画面の正面であればどこから見ても目線と垂直にパースが取られているというものです。いわば現実には存在し得ない“ありえない”視点なんですよね。人間は同時に一点からしか世界を見ることはできませんから。一点透視図法で書かれた絵画には、観客がこの場所に立って見ることで画面を正しく見ることができる一点が存在しています。地図の場合は、その“正しい一点”が画面全体に普遍しているということです。これが一般に地図として認識されているものに共通する描かれ方なんじゃないかと思うんです。鳥瞰図とかいろいろ例外はありますけどね。
そういった画面における複数ないし無数の視点を描き出している画家としては、古くはエドゥアール・マネがおりました。ミシェル・フーコーがカイロでの講演で指摘したのは『フォリー・ベルジェールのバー』における絵画に対峙する時の視点設置のあり方が変形されているということでした。画面の描かれ方が厳密な一点透視図法から逸脱し奇妙な画面が構成されているために、画面の前で観客が位置を変えて鑑賞せざるを得ないという動きを生み出したのです。これが近代ないし近代性の表出である、という理論です。またこれは絵画における身体性の問題であると同時に、絵画が時間芸術になる瞬間であるとも言えると思います。
20世紀に入るとそういった“画面における視点の複数性”は非常に意識されますから、絵画あるいは写真の分野でその問題点を意識化した作品を作るアーティストがたくさん生まれます。そういった芸術家の中でも知名度が圧倒的に高くまたその問題系自体を明確に意識化しているのが村上隆という芸術家であり、その戦略的概念として打ち出されたのがスーパーフラットであるということです。
僕が昨年度フォーラムに向けて地図について考えていく中ではこのように、地図を絵画として考えるというよりも、地図と絵画に共通して見られる視点の普遍性についても考えていたのでした。
しかもその記事を某市美術館で(peaceful_hill)さんと(竹)さんが仏像について大いに語ったこの日に投稿するわけです。
してやったり。
(志)
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