去る1月末「オルセー美術館で、ある家族が他の来館者の鑑賞に支障をきたすような「異臭」を放っていたため監視員によって館外に連れ出された」という事件がおこり、オレリー・フィリペティ(Aurélie Filippetti)文化大臣が遺憾の意を示した、というニュースがフランスの社会紙面を賑わせましたが、「異臭」つながりで(でももっと「ライトな」香り)面白かった展覧会を昨年末に開催していた現代美術施設があります。
パリのベルヴィル地区は移民が多く治安が良くない事で有名でしたが、ホットなアートスポットとして近年注目を集めてきたことは、ご存知の方も多いと思います。その核の一つとなっているのがフランスの地方現代芸術基金(Fonds Régional d’Art Contemporain:FRAC)のイル=ド=フランス地方部局にあたる現代美術施設「ル・プラトー(Le Plateau)」です。
この基金はエマージングなコンテンポラリーアート(将来的に重要な作品になる「かも」しれない作品)を積極的に受け入れ、またそのコレクションをフランス国内で自由に動かしていくこと(収蔵庫に入れっぱなしにしない)を目的としており、美術史上重要な作品群を収集・保存・展示していく美術館よりも幾分フレキシブルなオーガニゼーションであると言えます。
以前ブログでも紹介したメッスの例をとれば、市の美術館/博物館ではその地域にゆかりのある美術を中心に時系列で収集・展示が行われています。そのすぐ近くにロレーヌ地方のFRACの施設があり、コンテンポラリーアートを紹介しています。尚、市の美術館にも現代美術の展示室がありますが、そちらの展示物の中にはFRACのコレクションが多く入っている、というわけです。
ル・プラトーには2ヶ月の間に3回お邪魔し、2つの展覧会を見ました。
1つ目の展覧会は、ミシェル・ブラジー(Michel Blazy:1966年モナコ生まれのフランス人アーティスト)の個展。
ブラジーは環境や時間・偶然等コントロール不能な要素を創作活動の中心に据え、植物や食べ物・動物を用いたインスタレーションを展開しています。
従って、展示期間中にも作品は刻々と変化し腐敗していくわけで、施設のドアを開けると何とも言えない生暖かい匂いが充満しており、ハエが飛んでいるのが目に付きます。展示室の一角に張られた黒い布の上を無数のカタツムリが縦横無尽に移動していたり(移動した後がペインティングみたいに見える)、鑑賞者が自由にオレンジ(会場内に設置)を絞ってジュースを飲み、その皮を壁に設置された棚に積み上げていくといった作品がありました。丁度、子供のグループが観覧に来ていて賑わっていました。
展覧会は「大きなレストラン(Le Grand Restaurant)」と題されている通り、会場を有機生命体のための大きなレストランに見立てて、アリメンテーションの在り方に関する問題提起がなされていました。
以前、NYのギャラリーでカビのはえた食パンを使った別の作家の作品を見たのですが、それはしっかりとアクリルボックスに密封されていたのを思い出し、対照的でした。
この作家さんは2007年にパレ・ド・トーキョーでも個展を開催しており、その時の会期は約3ヶ月間。展覧会の後処理(絶対臭いし虫とかうじゃうじゃ)や監視員(そんな中ずっと居ないといけない)は大変だっただろうなあと思ってしまいました。
そのすぐ後に始まった2つ目は、あの臭いとハエは何処へやら、アメリカを舞台に展開した20世紀近代美術史の展覧会「レ・フルール・アメリケーヌ(Les fleurs américaines)」で、モダンアート史というメモリーを表現する3つのパートから構成されていました。
20世紀モダンアートの黎明期は、1903-1913年の間にパリのフリュールス通り27番地を拠点に展開しました。アメリカ人作家であり美術コレクターのガートルード・スタイン(Gertrude Stein)の著作から「アリス・B・トクラスの自伝(Autobiographie d’Alice B. Toklas:トクラスはスタインのパートナー)」と名付けられた展示室は、多くの画家や詩人を集めたスタインのサロンの様子を再現しています。この展示室は、近代美術史がこれらの芸術家や作家の親密な交流の中から生まれたことを描写しており、このコレクションこそがその後NY近代美術館(MoMA)のディレクターとなるアルフレッド・バー(Alfred Barr, Jr)に大きな影響を与えました。
「近代美術館(Musée d’Art Moderne)」と題された第2のパートは、バーの「キュビスムと抽象芸術」及び「ダダとシュールレアリスム」展(1936、MoMA)の展示プランに沿って象徴的な作品群が展示されています。まず、かの有名なバーの樹形図が大きく示され、小部屋にはMoMAの当時の展示の様子を示した模型が展示されています。
とは言え、展示室に入った瞬間違和感が襲います。
何故なら、展示されている作品は全て現代の美大生が製作した「コピー」だからです。全ての作品はやたらと拡張されたカンヴァスに描かれ、またそれは額装される事無く今の現代美術の様にカンヴァスのまま壁にひっかけられています。しかも、その日付は2034年などありえない数字ばかり。
これらの「記憶の展示」は、展覧会が作品そのものではなくモダンアートのディスクールを対象にしていること、またそのディスクールが新旧芸術首都の間で展開して来たことを示しています。
バーの樹形図はその後アメリカのアートシーンにも大きな影響を与え、第二次大戦後MoMAコレクションにアメリカ人作家の作品が入っていく事になります。
ふむふむと鑑賞していた所、その日の雨で雨漏りしたらしく、ビニールが展示室の一角に適当に張られ、床に置かれたバケツにぽちゃぽちゃと水が滴り落ちて来ているという、文化施設にあるまじき光景を目の当たりにし、思わず「ベルヴィル凄いなー」と思いました。勿論、そこに掛かっていた絵画は避難していましたが。
1955年にパリの国立近代美術館で開かれた展覧会にならい「アメリカの美術の50年(50 ans d’art aux Etats-Unis)」 と題された最後のパートでは、当時の展覧会のアーカイヴやビデオなどを見る事が出来ます。
オリジナルとコピー、歴史と神話、サインと匿名、絵画とコンセプチュアルアート。本展覧会はこれらを巧みに取り込みながら、単にモダンアートの展覧会というよりはむしろ、「20世紀の近代美術史と今日の芸術規範の定義へと繋がっていく方法を構築するため」の展示を志向した意欲的な内容でした。
施設として印象的だったのは、「スタッフに気軽に作品について質問して下さいね」と毎回入り口で言われる事(不自然な程言ってくるので「そう言え」というマニュアルがあるのではとも思っていますが、他のパリの施設ではそもそもそんな事を言ってくれることはほとんどない)と、大きいとは言えないこの施設で、作品解説などをしてくれるスタッフさん(だいたいが学生さんと思われる)が各展示室に必ず1人ついている事です。
ちなみに、ブラジーの展覧会の前には「富士山は存在しない」というタイトルの展覧会がありました。何処からでも心象・表象として人々に「見えている」イメージの在り方の例としての富士山という観点は、フランスらしいと言えるかもしれません。
ル・プラトーは2012年で10周年、FRAC自体は今年で30周年だそうです。
この機会に、それぞれの地域の基金がアーティストを一人選び、FRACコレクションの展覧会をディレクションしてもらう大型展覧会が企画され、イル=ド=フランス地方では以前このブログでも紹介したグザヴィエ・ヴェイヤン(Xavier Veilhan)が招聘されました。
色々と他にも書きたい事はあるのですが、フランス便りはいつ終わるのか・・・ご容赦下さい。
(M.O)