2015年6月25日木曜日

東京オリンピックの文化プログラムの行方

2020年の東京オリンピックにおいて全国的に開催する文化プログラムについて、今後どうなっていくのか。文化政策の研究者としては気になるところです。ただのソフトの公共事業に終わらないことを願っています。今、この問題であちらこちらで議論が行われています。そのうちの一つ、来週、文化経済学会<日本>の年次大会が開催されます。シンポジウムの方は、会員でなくても参加できます。申し込み制ですので、締め切り等ご注意を。(小林真理)

以下情報。

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文化経済学会〈日本〉では、この度、、アーツカウンシル東京、ブリティッシュ・カウンシルとの共催で、2015年度研究大会シンポジウム「五輪文化プログラムの社会的な意義と役割――ロンドン2012の実績と東京2020への展望」を開催いたします。皆様の
ご参加をお待ちしています。

シンポジウム:五輪文化プログラムの社会的な意義と役割――ロンドン2012の実績と東京2020への展望
日時:201574日(土) 15:1517:30
会場:駒澤大学 駒沢キャンパス 1号館 1301教室(受付は1号館2階)

2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を5年後に控え、文化プログラムへの期待が高まっています。
しかし、一過性の文化イベントを開催するだけでは意味がありません。文化プログラムを通じて何を達成し、どのような成果を残すのかを明確にすることが求められています。2012 年ロンドン大会の文化プログラムは、かつてないスケールと内容を伴うものでした。それは、英国社会にどのようなインパクトをもたらしたのでしょうか。 
シンポジウムでは、ロンドン、キングズカレッジの文化部門ディレクター、デボラ・ブル氏をお迎えし、ロンドン大会の文化プログラムの社会的インパクトやレガシーに関する基調講演を頂いた後、五輪文化プログラムの社会的な意義と役割について、文化政策やアーティストの創造活動への影響、地域活性化、社会包摂、教育、観光、産業、経済等への波及効果など、幅広い視点から検証し、2020 年東京大会における文化プログラムの目指すべき方向や課題を展望する予定です。

基調講演:2012年ロンドン五輪 文化プログラムの社会的インパクトとレガシー[仮題]
デボラ・ブル ロンドン・キングズカレッジ 文化部門ディレクター

パネル・ ディスカッション:2020年東京五輪文化プログラムへの期待と展望
パネリスト
真田久 筑波大学体育専門学群学群長/東京のオリパラ教育を考える有識者会議委員長
日比野克彦 アーティスト/東京芸術文化評議会評議員
毛利嘉孝 東京藝術大学准教授
デボラ・ブル
モデレーター
吉本光宏 ニッセイ基礎研究所研究理事/東京芸術文化評議会評議員

日英同時通訳/参加無料・要申込み/定員400
申込み締切:629日(月)

お申し込みは http://www.jace.gr.jp/taikai/2015JACE_sympo_flyer.pdf から「シンポジウム案内・申込用紙」をダウンロードして必要事項を記入の上、ファックスでお送りいただくか、下記アドレスに、件名「シンポジウム参加申込み」と記載いただき、お名前(ふりがな)、ご所属、日中連絡の取れる電話番号、メールアドレスをメール本文でお送りください。

*文化経済学会<日本>会員の方は学会HPより大会参加登録を行ってください。
*シンポジウムとは別に研究大会では特別セッション、分科会、エクスカーションも開催されます。そちらも申し込まれる方は学会HPでご確認の上、申込みをお願いします。分科会、エクスカーションへの参加は有料となっています。
*参加確認のご連絡・登録証の発送等はしておりません。ご了承ください。
*頂いたお名前、ご連絡先等個人情報は、本大会の申込に係る連絡以外の目的には使用せず、大会終了後、当学会事務局の責任において直ちに抹消させていただきます。

お問い合わせ先:
文化経済学会〈日本〉事務局
(株)ガリレオ学会業務情報化センター内
TEL03-5981-9824
*事務局は7/4より現場作業に入っているため、参加申込に関する直前のご連絡等、確認することができませんので、予めご了承ください。

ここにはドラキュラ以外に何があるか?

先日九日間のルーマニア旅行より帰ってきました。主な目的はヨーロッパ三大演劇祭の一つであるシビウ国際演劇祭で、こちらでは七日間に16公演というお祭り騒ぎを満喫したのでいいのですが、今日は首都ブカレストについて書きます。
元々この街はシビウ(首都よりバスで四時間半)に行くための中継地としてしか考えておらず、特に見学したい場所もありませんでした。というより、知り合いの東欧研究者が「私にとってもルーマニアとブルガリアは東欧の秘境」と言っていたのと似て、この地に関して何も知らなかったからだと思います。
唯一『世界の美しい書店』という本で紹介されていた本屋が旧市街にあるらしいので行ってみようとそこへ足を運んだ際、本屋近くのギャラリーでこの街が2021年度の欧州文化首都選定を目指していることを知りました。ギャラリーには昔の都市生活を伝える白黒写真や部屋いっぱいに広げられた航空写真があり、色とりどりのシールを張り付けてありました。シールは色別に学校や教会、公園の位置を示し、さらには”best buildings” “worst buildings” “buildings with unused potential”の項目もありました。住民自らが街の長所短所を掘り起こす作業といえます。
そのギャラリーにて、明日から関連イベントが開催されると聞いたのでシビウへの移動前に行ってみたところ、朝10時だったためにブース(ルーマニアのデザイナーによるTシャツ販売や地球温暖化対策の紹介)のほとんどは開店前の状態でした。その代わり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した建築家であるIon Mncuの邸宅の内部紹介をやっているから来てみませんかとボランティアらしき人に誘われ中へ。長らく放置されていた建物を2003-12年の間に修復し、一般公開を始めたとのこと。今でこそ壁画と対になった天井画や当時の重厚感ある家具が印象的な落ち着いた空間でしたが、修復前の荒れ果てた様子も写真で紹介され、天井の一部をあえて塗装し直さずに、修復前後の状態を見比べられるようにしている箇所もありました。ボランティアの方は英語で説明してくださったものの、展示説明やチラシは全てルーマニア語のみだったので、これはかつてブカレストにはこんなに美しい場所があった、と地元の方にまず知ってもらうための活動だと判断しました。
 
演劇祭を後にして、再びブカレストにやってきた旅行最終日。この街で一番の観光名所はチャウシェスク政権時代に着工が開始した国民の館(現国会議事堂)、ペンタゴンに次ぐ世界第二の大きさを誇る巨大建築物です。社会主義国にこのような権威主義むき出しの建築物が建つこと自体はさほど珍しくもありませんが、着工時期は1980年代だと知ってびっくり。他の国では社会主義というシステム自体がぐらつき始めていたというのに、ルーマニア政府にはこれだけの物を建てる力があった、というよりそれだけ強い権力者がいたということ。

とにかくその大きさを体感してみようと敷地周辺をひたすら歩き始めたところ、国立現代美術館のポスターを発見。こうした建物には部屋が何千とあるでしょうから、その一部を政治以外の目的に使っているようです。ルーマニアの芸術と聞いて何一つ思いつかなかったこともあり、10時の開館を待って入ってみることにしました。門から約500m進んで見えてきた美術館は、広大な建物の中でそこだけかなり印象が違いました(右写真)
 
5階建ての施設では各階に別々の展覧会があり、国立芸術大学創立150周年記念展や、国外に移住したアーティストの作品展など色々興味深く拝見しましたが、ここでは一番印象に残ったLet's Play Architecture展について書きます。学校と連動して、建築家たちが子供たちに街について考えてもらう授業を行い、その成果が展示されていました。レゴブロックや色紙などで作られたカラフルな街の模型がいくつも並べられていたほか、他の都市について調べた班もいたようで、ニューヨークやベルリンに混じって東京も紹介されていました。ここで中世都市として“調査対象”に選ばれるあたりはさすがシビウ。言ってみれば小学校の図画工作を展示しているだけなのですが、それがこの街では大きな意味を持ちます。子供たちに「どんな街になったら楽しい?」という問いを考える機会を設けることが重要になるほどに、ブカレストは暮らしていくのがとてもしんどい街に思えたのです。
多くの国が比較的穏健に体制転換を成し遂げた東欧革命の中にあって、ルーマニアは唯一、反体制側にも多大な犠牲を出しつつ、最終的には元大統領夫妻の公開処刑という暴力的手段をもって民主主義化しました。そんな歴史を持つ国がわずか20数年程度で上手く軌道に乗ることは難しいだろう、と旅行前から漠然と思っていたことではありました。実際にブカレスト中心部を歩いて、ここは都市計画からして何かが上手く行かなかった印象を持ちました。歩きたい(あるいは私の場合、走りたい)という気持ちが起きにくいのです。公園でも木が密集していて広場らしきものはなく、開けた空間というものが見当たりません。唯一の例外が皮肉にも国民の館付近で、ここだけはその巨大な建物が遠くからでも見えるように、周囲の視界を遮るものがありませんでした。どの旅行案内書にもある通り、道を平然と野良犬がうろついていることも街に繰り出したくなくなる一因(ただし犬はシビウにもいて、両都市ともに彼らは犬というよりは野良猫のように「可愛がられて」いました)。
 
たとえ街に見るべき場所があるにしても圧倒的に紹介が足りない。あんなに充実した美術館も偶然発見したのであって、どの案内にも書いてありませんでした。普通の観光客なら国民の館ツアーに参加しただけで帰ってしまうでしょう。
 
姉妹都市であるルクセンブルクとともに2007年の時点で欧州文化首都に選定された実績を持つシビウと、これから選定を目指しているブカレストとでは大きな差を感じました。かたや中世からの建築物が残る小都市、かたや近代的で国内で最も多くの人口を抱える首都なので単純な比較は難しいですが、どちらの都市にいた方が楽しいかと聞かれれば多くの人が前者を選ぶでしょう。もはやシビウは文化首都に頼らずとも、毎年各国から人が集まる演劇祭で盛り上がるだけの力があり、その期間外であってもスポーツや文化事業が充実している。むしろ文化首都選定が大きな意味を持つことをシビウの例から知っているからこそ、ブカレストも本腰を入れ始めたのでしょう。ただ、現状からして選定への道のりはかなり厳しいと思われます。
 
わずか数日の滞在で一都市の良し悪しを判断するのは不可能です。日本人の間ではショパンのイメージが強い(というかそれしかない)ワルシャワが、それこそ多くのpotentialを秘めた場所であると気付くのに私自身一年かかりました。
どの都市でもそれぞれの状況下で模索を続ける人がいる。そしてそれはブカレストでも同じだった。月並みですが、これを一応の結論として報告を終わります。
(N.N.)

2015年6月24日水曜日

当たり前のことですが、資料整理は一日にしてならず

この春より元職場だったところの某私学の史料室でお手伝いをしているMubeです。

元職場といっても史料室にいたわけではないので、こんなにどっぷりと原資料たちに取り囲まれるのは初めてです。戦災を受けなかったその資料群は「宝の山」ですが、多くの私学の史・資料室同様、そこには目録もなく、日々各部からやってくる事務資料、さまざまな寄贈資料が山積していく状況は、山を崩せども崩せども積みあがっていく、なかなかな状況です。

「百年史」事業後が肝心…
おおよその私学の史・資料室の成り立ちは「百周年」あたりで、「記念史を作らねば!」ということで、いそいで資料が集められ、編纂委員会が組織され「百年史」が刊行され、その記念事業後に残った資料群をもとに「なんとなく」史・資料室ができる…といったパターンが多そうです。私のいるところもそんな感じです。そしてご存知のようにアーキビストの国家資格制度も整っていない我が国ですので、その史料室の資料整理の歴史は図書室旧教諭による図書館的整理方法の時代、デジタル化以前のアナログな整理方法の時代、史料室を同窓生情報交換室と見立て整理カードを破棄しようとした形成がある謎の時代…など振れ幅も大きく、非常に興味深い様相を呈しています。
 
ザ・「窓際部署」
そして多くの私学同様、そこは「窓際部署」とされているので、学校事務にとって「存在価値がわからない」ものとされがちです。私の勤務先でもはっきりと元上司に「あんな部署は若いもんの行くところではない」と言われました。その発言に思うところがあり、私は文化資源を目指したのですが…。

意外な外部での認知度アップ 
ところが、そんな史料室にやってきたのが「朝ドラ大騒動」でした。卒業生の執筆した作品をもとにしたNHKの朝ドラが大ヒットして、史料室は超多忙の部署となりました。私はその時期に勤務していなかったので伝え聞きですが、連日問い合わせと取材依頼がやまず、数年前から地道に整備されていた所蔵写真データベースが大活躍し史料室は迅速な資料提供を行い、入試志願者も倍増、学校は大いに恩恵を受けたようです。資料整理は一日にしてならず、で、先人たちの見えない地道な努力があってこそ、資料提供が可能だったわけです。
 
文化資源の金言、「資源ごみ」のたとえのごとく
しかしこんなブームがあっても、画期的に史料室の学内認知度が上がるわけではありません。資料が資料として存在するには、価値の体系化、効率的な配架、利用のための媒体変換、物理的な資料保存管理などの行程が必要ですが、どうもそういうものが見えづらいらしく、ただ資料は資料として置いてあるだけ、と思われがちなようです。価値を付加しなければ資料は資料たりえず、ただのごみなのですが…先日は、文化資源の大先輩が来室してくださり、資料目録構築にあたってたくさんのアドバイスをくださいました。手探りの私学の史・資料室の整備には他機関や他校の情報が欠かせません。

賢い私学の学校経営戦略
しかしながら、賢い私学はもう気づいているらしく、入試広報の上手な学校は一方で史・資料室の整備を進めており、自分の学校の「伝統化」を意図的に進め、自校史教育などを推進しています。史・資料室を「昔が好きな好事家の部署」ではなくて、「現在の学校経営につなげていく部署」として位置付けているわけで、文化経営的にも注目していきたい動向です。

このような環境下で、今週もいくつ山が崩せるか…と思いつつ、面白い資料をついつい読んでしまい、「整頓に集中しましょう」とにこやかに注意されるこの頃であります。                 
                                   (Mube

2015年6月22日月曜日

社会と芸術フォーラムに参加して


去る21日(日)、社会と芸術フォーラムの第1回に参加しました、risaiaです。
テーマは 「公共性(Public Sphere):『社会的なもの』と公共性の微妙な関係」 。

アートだからこそできること、アートにしかできないことは、ない。

参加者から口々にそうした言葉が出ました。
「アートの力」を盲目的に期待するのではない。
アートはあくまで数ある機能的に等価な代替案の1つ。
経験や事象の観察から見えるアートの立ち位置を冷静に捉え、
その認識を共有してスタートラインに立ったことは意義深いと感じました。

フォーラムでは「アート」という言葉そのものにも疑問が呈示されたので、
あまりアートアートと書くのもどうかと思いつつ、やはり便利ではあります。

今日は何となく、これくらいに。お粗末でした。

(risaia)

2015年6月17日水曜日

アートによる前進!被災地「千人仏プロジェクト」ついに都美での展示へ

相変わらずの不眠症risaiaです。
さらに肩も凝ってしまっていけません。

昨年夏、私も同行させていただいた「千人仏プロジェクト」。
6月21日(日)から27日(土)まで都美での展示が行われます。

このプロジェクトは、東日本大震災の被災地のサポートセンターなどをめぐり
近隣に住む方々に集まっていただいて仏の木炭画を描いてもらうというもの。
1000枚の絵をつなげて1つの作品にすることを目指し、現在730枚。
今回の展示では、途中経過ということでうち311枚をお披露目します。

プロジェクトの中心になっているのは、東京で絵画教室を開く画家三杉レンジさん。
大手コンサルの復興支援室とタッグを組み、3年前から被災地に何度も足を運んでいます。
震災の記憶を後世に伝える「ドキュメンタリー絵画」を作り上げることだけでなく、
仏の木炭画を描くことにより安らぎを感じてもらうというセラピー効果や、
近所の人が集まる場をつくることによる孤立の防止も意図されています。

先日のツアーにはNHKの取材が入るなど、徐々に注目されているように思います。
関わらせていただいている者としてとても嬉しいことです。

ただ懸念していることもあって、1000枚集まったらどうなってしまうのだろうということです。
全作品をつないで巨大絵画を完成させ、東京や被災地で展示していくということなのですが、
「心の復興」のお役に立つという側面が一気にフェードアウトしてしまうように思います。

数の目標を設けてしまったこのプロジェクトが今後どこへ向かうのか。
震災という重い記憶を抱えながら、そのことすらアーティストの「作品」であるということ。
アートが社会と関わる難しさをこのプロジェクトも例にもれず背負っています。

素人が行くと逆に足手まといかもしれませんが、展示準備のお手伝いをすることになりました。
ツアーでお世話になったアーティストの方々とは久しぶりにお会いすることになります。
ボランティアは実質ツアー参加でしか関われないという現状は少し残念です。
ともかく、久しぶりの再会を楽しみにしています。

(risaia)

2015年6月10日水曜日

上野動物園のリアルな展示

最近若干生気を取り戻したrisaiaです。

本日突然の用事で、上野動物園に行ってきました。
そこでプチ衝撃に出遭いました。

※ややグロテスク、ショッキングな表現がありますのでご注意ください。

まず、可愛いペンギンたちの足元の水槽に、かなりの量の魚が沈んでいました。
それはまだいいとして、フクロウに始まるひと並びの展示では、皮のはげた鶏ふうの頭部だけが、直立したり、複数転がっていたり、それを雀が啄んでいたり。

上野動物園の意図はわかりませんが、「生」の真摯な展示はこうなるのだろうかと思いつつ。

こんな動物園展示はこれまで見たことがありません。
子供の時に見ていたら、かなりトラウマになったろうと思います。
園内の子供たちを見ながら、勝手に心配してみたり。
子供たちの目にも、花形の展示動物の足元は映るのでしょうか。

ホルバインの「大使たち」が、なんとなく脳裏に浮かびます。
「生」の展示が、本来すれすれの問題をはらんでいるということを、改めて思い起こさせられました。

(risaia)

2015年6月8日月曜日

歴史の街から思い出の街へ-韓国九龍浦(クリョンポ)

もう、東京は梅雨に入ったのでしょうか。
天気が不安定になっているようですね。

皆さん、こんにちは。久しぶりに投稿するbanulです。
今日はこの間NHKでも紹介(http://www6.nhk.or.jp/kokusaihoudou/lounge/index.html?i=150501)されていた、韓国南部のポハン市にある、九龍浦(クリョンポ)地区について紹介したいと思います。

ポハン市は釜山から、車で2時間程度北東側に向かった走れば出てくるところで、東海(日本海)と接しています。ここには韓国の大手企業POSCOの本社と工場があることから、経済的に豊かな地方都市でもあります。

このポハン市の一角に九龍浦という町があります。
最近、この町に観光客が次から次へと足を運んでいるようです。
そもそもポハンのホミコッというところは、お正月(その以外の時期でも)に日の出を見に来る場所として韓国全国の中でも最も有名な場所でありますが、九龍浦とうい地域はさほど外部の人には知られていない地域でした。
この町がホミコッと合わせて観光の町になったきっかけは、ポハン市が「近代文化歴史街復元事業」の一つとして「九龍浦近代文化歴史路助成事業」をおこないいます。その中で、「九龍浦近代歴史館」を開館(2012年7月31日)することによって、その周辺の街も整備されました。(復元のため、ポハン市は2010年~2013年、事業費85億ウォン投入)

(九龍浦近代歴史館(ポハン市ホームページより)

九龍浦がどのような近代文化歴史を持っている町なのか。

今から100余年前、誰も住んでいなかったここに日本人の手によって町が形成されます。
1906年、日本香川県出身の橋本善吉と、岡山県の出身の十河弥三郎が代表となって、多くの日本の漁師たちと800余隻の船を率いて、東海(日本海)の豊かな魚資源を探しに、黄金の地エルドラドを夢見ながら定着したのが、ここ九龍浦であります。
彼らは、この九龍浦を基点として本格的に事業(鮮魚運搬業等)を行い、大成功となります。
1930年初からは、ここ九龍浦は最高の全盛期となります。その盛り上がりは、犬までが札を口で噛み付いているほどであったと言われています。そのぐらいにここ九龍浦の漁獲高は凄かったでしょうね。当時、ここに住所を持っていた日本人が1,000人を超えていたと言われています。
植民地時代に日本人により漁業、船舶業、缶詰加工工場等を通じた経済活動を行ないながら、日本人集団居住地を形成したのが、ここ九龍浦であります。
九龍浦は、1930年代劇場、病院、デパート等、近代式機能をもつ都市として発展して、とても賑やかなところでした。

以上のような歴史を持っている九龍浦は、ポハン市により再び賑やかな町へと変わっていく。
ポハン市は九龍浦近代歴史館を中心に、九龍浦近代文化歴史路助成事業を通じて、九龍浦の新しい活力を探し、国内・外の新しい観光名所として変態するきっかけとなることを期待していると言っています。
九龍浦漁業組合長であった橋本善吉の家だった建物を、2010年ポハン市が買い入れ、復元作業を通し、九龍浦近代歴史館として開館するなど、日本の家屋を30棟復元して、九龍浦近代文化歴史路を作り上げ、日本人街を再び誕生させました。

九龍浦近代文化歴史路は歴史の場所から、思い出の場所へと変化していくところです。
昔の人には(その時代を経験した人や記憶している人)この場所が苦しみであり、歴史の場所でありますが、現在の人には思い出の場所であり、観光地であります。
このように、九龍浦の近代文化歴史路助成事業によって、この場所はまた別の場所性を持つこととなります。

九龍浦を訪問して何を学んで何を校訓にするかは、ずるいかもしれませんが人それぞれに任せることにします。

(bangulより)