今年度で大学院を修了されるみなさま、おめでとうございます。肌寒さの残る三月は別れの季節でもあり、新たな門出でもあり、節目となる季節ですね。相変わらず暑い毎日の続くシンガポールで、そんな日本の春を懐かしく思っている今日この頃です。
さて、今回は戦争の記憶を語り継ぐ試みについて考えてみたいと思います。まちづくりや地域おこしの文脈で語られるようになって久しい日本の文化政策ですが、かつては日本というふるさとやその文化を愛する気持ちを戦争へと向かわせるためのプロパガンダとして存在していたことは、小林ゼミでしっかりと叩きこまれました。先日、そのような文化政策の歴史を思い起こさせるような出来事がありました。ピースボートのおりづるプロジェクトがシンガポール国立図書館で開催した催しです。
内容は、船に乗ってシンガポールを訪れた八名の被爆者が被爆体験の証言を行い、ピースボート共同代表の川崎哲氏と二人のユース特使(二十代の日本人)が核のない平和な世界の実現を訴えるというものです。一般公開の催しの前には、被爆者のみなさん、ユース特使のお二人、ピースボートスタッフのみなさんが”戦争の記憶をいかにして次の世代に語り継いでいくか”を非公開で議論する機会が設けられていたのですが、昨年シンガポールで出会った事務局の畠山澄子さんの計らいで、今回は私もこのディスカッションの場に参加する機会を頂きました。私からはシンガポールにおける記憶を語り継ぐ取り組みとして、当ブログでもご紹介してきた日星共同制作演劇作品『モバイル2フラット・シティーズ』と戦争史跡ツアー(ブキット・ブラウン墓地、パシール・パンジャン、アダム・パーク(後日紹介予定))にまつわる体験談をお話ししました。
話の最後にこれらの事例を通して感じたこととして、記憶を語り継ぐ際には次の三点が重要なのではないかとまとめました。①過去としてではなく、現代につながる問題として提起する②知識を頭に入れるだけでなく体感する③異なる複数の立場の声に耳を傾け、受け入れる。しかしおりづるプロジェクトのみなさんと議論し、さらにシンガポールの聴衆の反応を見た後では、現実にはこんなにきれいにまとまる訳はなく、葛藤や障害が存在すると感じました。核を含む兵器については、誰もが自分が被爆したり、他人を撃ち殺すのは嫌だと思う一方で、国と産業を守るために兵器を手放せない現状がある。記憶や遺産の継承に関しては、古いものを残すために未来の世代のためのスペースを犠牲にするのかといった葛藤がある。そして語り手に関しては、体験した世代は実体験として語れるが、それを伝え聞いた世代はそれを第三者に語ることをおこがましいと感じてしまうことがある(ユース大使・福岡さん談)、といった具合です。
被爆者の高齢化が進む中、30年後、50年後に原爆の悲惨さを伝えていくにはどうしたらいいか。そこでユース大使で女優の浜田さん注目したのが演劇でした。シンガポールの公開イベントでは限られた時間でしたが、被爆者の証言だけでなく浜田さんがもんぺ姿で被爆当時の様子を演じる一幕がありました。当時の日本の風俗や被爆の衝撃を一部ではあっても瞬間的に伝えることのできる演技は、証言とは違った効果があるのではないかと思ったですが、実際に演じた浜田さんは「被爆者の肉声には敵わないのではないか」と葛藤があるようでした。
「自身が演じること、また生身の人間の演技をライブで観ることで、文章や映像から読み取ることとは違った体験が可能になるのではないか。」東京で浜田さんやピースボートのみなさんにそう語ったのは、『モバイル2』に出演した橋本昭博さん(俳優・演出家)。確かに、被爆者証言を忠実に再現することは演劇的な要素を用いる目的ではないはずです。『モバイル2』も戦争をテーマにしており、戦時中を再現するシーンがあるのですが、それは物語を構成する一部分に過ぎず、複雑すぎるほどの要素がちりばめられることで作品のメッセージは現代の課題として観客に迫ってきました。
戦争の記憶を語り継ぐことと、演劇を結び付けることについては、まだ考え続けている最中です。思うに、演劇に限らず、他の芸術分野でも、また戦争の記憶を語り継ぐ場合に限らず、まちづくりの場合でも、芸術文化が手段として存在するのではなく、作品としてあることが先なのではないでしょうか。人々の思考を停止させ、コントロール出来てしまう力があることを認識したうえで、人々の思考のスイッチを入れるような方向で芸術文化と社会の問題を考えていくことが大切なのではないか、と。これは展示や舞台だけでなく、ワークショップやアートプロジェクトといった形式でも言えることではないでしょうか。話が大きくなってしまいましたが、実践は身の丈の、身近な一歩から。諸々の葛藤を抱えつつ、引続きシンガポールでの活動をこちらでご報告していきたいと思います。(齋)
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