2014年3月29日土曜日

学問の持つ負の力

 先日、こんな記事がネット上に掲載された。
 
◆ハンセン病患者標本:熊本大「医学倫理上、問題」最終報告(毎日新聞 20140324日 2205分)
 熊本大医学部の前身の熊本医科大が九州療養所(現・国立ハンセン病療養所菊池恵楓(けいふう)園、熊本県合志(こうし)市)の入所者の遺体から骨格標本を作製していた問題で、熊本大の調査委員会(委員長=竹屋元裕医学部長)が24日、最終報告を発表した。骨格標本は患者や遺族の承諾を得ずに作製されたとして「医学倫理上、問題がある」とした。
 熊本大医学部によると、同大に残るハンセン病患者の解剖名簿には1927〜29年に43体を解剖し、うち20体で骨格標本を作製したとの記録があった。遺体はすべて九州療養所の入所者で、解剖については入所者の承諾書を得ていたが、標本作製の承諾書は今回の調査では見つからなかった。同大は「承諾を得ず、九州療養所との密接な共同研究体制の下で作製されたと考えられる」と結論づけた。
標本の目的については、中心的に関わった熊本医科大病理学教室で助教授、教授を務めた鈴江懐(きたす)氏(故人)が「ハンセン病患者にはやせた人が多い」と主張していたことから、罹患(りかん)者の体質的傾向を証明するためとした。
 記者会見した竹屋委員長は「標本を大学訪問者に誇示するなど故人への配慮を欠いていた。現代の元ハンセン病患者などに精神的苦痛を与えたことに深い反省と遺憾の意を表する」と陳謝した。
 国のハンセン病問題検証会議元副座長の内田博文・神戸学院大法科大学院教授(刑法)は「ハンセン病罹患と体質の関係を調べていた背景には優生思想がある。医学界はこの反省を糧に、患者の権利の法制化に取り組んでほしい」と話した。
(ここまで引用)
 
 この記事を見て問題だと思ったのは、これが重大な人権問題であると同時に、このような行為を生みだしたものは一体何だったのかということである。大掛かりな作業を伴っていることからも、単にこの骨格標本作成に直接関わった個人の問題だけに帰するには、無理がある。研究者個人の倫理観という枠組みだけでなく、研究者にこのような研究態度をとらせた力学について考えてみたいと思う。
 この問題を理解する上での補助線として、例えば坂野徹(2005)による日本における人類学史研究がある。その目的は「帝国日本の植民地や太平洋戦争中における人類学者の調査研究の全体的特徴」(P8)を明らかにすることにあった。この研究の中で明らかになったことのひとつは、アイヌ民族に対する近代日本の人類学のあり方である。
 例えば、小金井良精は、「1888(明治21)年夏に実施した北海道での調査旅行中、アイヌの骨を集めるため、墓荒らしを何度か行っている。小金井は、アイヌが付近にいない場所を探して、墓場から骨を掘り出し、みつかったときには嘘をついたりしながら、骨の蒐集を」(P182)続けていた。当時の人類学において、アイヌ民族は研究対象でしかなかったことがわかる。
このような発掘という名の「墓暴き」を通じて進められてきた人類学研究は結果的に、アイヌ民族の地理的な近接性から、「日本人種において最も重要な民族」(P501)として強力に同化政策を推し進めることに寄与していくが、一方で、アイヌ民族に未開、野蛮といったレッテルを貼ることは、集団としての日本人の自己同一性を不安定に陥れることにもなった。このように、人類学研究が結果的には、大東亜共栄圏という幻想の共同体の中の矛盾を顕在化させてしまうという危うさが存在したのである。しかし、こうした矛盾を顕在化させないよう、この問題には言及せずに人類学研究が進められることになった。
 たしかに、坂野が指摘するように、近代日本における帝国主義や植民地主義に適合した人類学研究が、他者の人権を傷つけたり、民族差別を生みだしてきたりしたことは、事実である。しかしながら、戦前・戦中の思想的背景だけに、この問題の所在を求めることもまた危険である。植木哲也(2008)が、近代以降行われてきたアイヌ墓地発掘について、「総動員体制から解放されたはずの戦後の教育研究環境で、再びアイヌ墓地は発掘された。発掘を行わせたのは、帝国主義や軍国主義ではなく、研究そのものだった」(P112)と指摘するように、帝国主義や植民地主義とは別に、学術研究が本質的に内包する暴力性もまた問題となる。
 ここで冒頭の「ハンセン病患者標本」問題に立ち戻るならば、優生思想を含めた学問が持つ暴力性を、標本の対象となったご本人や御遺族の感情を無視してまでも標本を研究者に作らしめた要因として、私たちは理解することができる。したがって、過去の特異な思想的背景、あるいは戦前・戦中の学術研究の未熟さとして、この問題を片付けることはできない。近代から連綿と蓄積されてきた、学術研究がもつ危うさについて、そこに関わる誰もが常に意識すべきであろう。
 ただし、これは学術研究という場に限定される問題なのかという疑問が、一方でわいてくる。フーコーが指摘するように、暴力性は近代社会制度の中に広範に認められる。植木がアイヌ墓地の発掘を可能にしたものとして、帝国大学という制度や和人たちの協力を挙げているように、発掘調査や学術研究を直接的・間接的に関わる近代に形成された諸制度にも私たちは着目すべきではないだろうか。
 それは、たとえば文化行政や文化財保護行政についても同様の構造が存在するのではないかと筆者は考えている。文化財保護行政に限ってみても、埋蔵文化財の発掘調査や自治体史編纂の民俗調査の中に権力性は存在しないと、果たして言いきれるのか。アカデミズムと行政という主体の違いはあっても、調査という行為に潜む問題点は無いと言えるだろうか。この問いについては、別稿で改めて考えてみたい。
(ま)
 
<参考文献>
植木哲也(2008)『学問の暴力-アイヌ墓地はなぜあばかれたか』春風社
坂野徹(2005)『帝国日本と人類学者 : 1884-1952年』勁草書房

 

2014年3月25日火曜日

戦争の記憶を語り継ぐには―おりづるプロジェクトとシンガポールの取り組み

 今年度で大学院を修了されるみなさま、おめでとうございます。肌寒さの残る三月は別れの季節でもあり、新たな門出でもあり、節目となる季節ですね。相変わらず暑い毎日の続くシンガポールで、そんな日本の春を懐かしく思っている今日この頃です。

 さて、今回は戦争の記憶を語り継ぐ試みについて考えてみたいと思います。まちづくりや地域おこしの文脈で語られるようになって久しい日本の文化政策ですが、かつては日本というふるさとやその文化を愛する気持ちを戦争へと向かわせるためのプロパガンダとして存在していたことは、小林ゼミでしっかりと叩きこまれました。先日、そのような文化政策の歴史を思い起こさせるような出来事がありました。ピースボートのおりづるプロジェクトがシンガポール国立図書館で開催した催しです。

 内容は、船に乗ってシンガポールを訪れた八名の被爆者が被爆体験の証言を行い、ピースボート共同代表の川崎哲氏と二人のユース特使(二十代の日本人)が核のない平和な世界の実現を訴えるというものです。一般公開の催しの前には、被爆者のみなさん、ユース特使のお二人、ピースボートスタッフのみなさんが”戦争の記憶をいかにして次の世代に語り継いでいくか”を非公開で議論する機会が設けられていたのですが、昨年シンガポールで出会った事務局の畠山澄子さんの計らいで、今回は私もこのディスカッションの場に参加する機会を頂きました。私からはシンガポールにおける記憶を語り継ぐ取り組みとして、当ブログでもご紹介してきた日星共同制作演劇作品『モバイル2フラット・シティーズ』と戦争史跡ツアー(ブキット・ブラウン墓地パシール・パンジャン、アダム・パーク(後日紹介予定))にまつわる体験談をお話ししました。

 話の最後にこれらの事例を通して感じたこととして、記憶を語り継ぐ際には次の三点が重要なのではないかとまとめました。①過去としてではなく、現代につながる問題として提起する②知識を頭に入れるだけでなく体感する③異なる複数の立場の声に耳を傾け、受け入れる。しかしおりづるプロジェクトのみなさんと議論し、さらにシンガポールの聴衆の反応を見た後では、現実にはこんなにきれいにまとまる訳はなく、葛藤や障害が存在すると感じました。核を含む兵器については、誰もが自分が被爆したり、他人を撃ち殺すのは嫌だと思う一方で、国と産業を守るために兵器を手放せない現状がある。記憶や遺産の継承に関しては、古いものを残すために未来の世代のためのスペースを犠牲にするのかといった葛藤がある。そして語り手に関しては、体験した世代は実体験として語れるが、それを伝え聞いた世代はそれを第三者に語ることをおこがましいと感じてしまうことがある(ユース大使・福岡さん談)、といった具合です。

 被爆者の高齢化が進む中、30年後、50年後に原爆の悲惨さを伝えていくにはどうしたらいいか。そこでユース大使で女優の浜田さん注目したのが演劇でした。シンガポールの公開イベントでは限られた時間でしたが、被爆者の証言だけでなく浜田さんがもんぺ姿で被爆当時の様子を演じる一幕がありました。当時の日本の風俗や被爆の衝撃を一部ではあっても瞬間的に伝えることのできる演技は、証言とは違った効果があるのではないかと思ったですが、実際に演じた浜田さんは「被爆者の肉声には敵わないのではないか」と葛藤があるようでした。

 「自身が演じること、また生身の人間の演技をライブで観ることで、文章や映像から読み取ることとは違った体験が可能になるのではないか。」東京で浜田さんやピースボートのみなさんにそう語ったのは、『モバイル2』に出演した橋本昭博さん(俳優・演出家‎)。確かに、被爆者証言を忠実に再現することは演劇的な要素を用いる目的ではないはずです。『モバイル2』も戦争をテーマにしており、戦時中を再現するシーンがあるのですが、それは物語を構成する一部分に過ぎず、複雑すぎるほどの要素がちりばめられることで作品のメッセージは現代の課題として観客に迫ってきました。

 戦争の記憶を語り継ぐことと、演劇を結び付けることについては、まだ考え続けている最中です。思うに、演劇に限らず、他の芸術分野でも、また戦争の記憶を語り継ぐ場合に限らず、まちづくりの場合でも、芸術文化が手段として存在するのではなく、作品としてあることが先なのではないでしょうか。人々の思考を停止させ、コントロール出来てしまう力があることを認識したうえで、人々の思考のスイッチを入れるような方向で芸術文化と社会の問題を考えていくことが大切なのではないか、と。これは展示や舞台だけでなく、ワークショップやアートプロジェクトといった形式でも言えることではないでしょうか。話が大きくなってしまいましたが、実践は身の丈の、身近な一歩から。諸々の葛藤を抱えつつ、引続きシンガポールでの活動をこちらでご報告していきたいと思います。(齋)

2014年3月24日月曜日

市民参加の発掘

昨日までの3日間、長野県の野尻湖底で発掘調査に参加してきました。
今回の発掘は、1975年の第5次発掘とほぼ同じ位置のグリットで調査です。

【一日目】
 
 
初日は午後に到着したのですが、猛吹雪でさ寒いのなんの。
身体を動かしても暖まらず、写真を撮る余裕もなくて、この1枚だけ。


【二日目】
昨日の様子からは、信じられないほどの快晴。
しかし、30㎝積った雪の片付けからはじまり、過去の発掘で埋め戻した土を除去し、本来の発掘面に到達したのは、この日の終わり間際でした。
他のグリッドでは、ナウマンゾウ化石の一部が出土してました。



【三日目】
地層の観察会からスタート。
単に作業だけでなく、地質班のかたから適宜地質の解説を受けつつ、現在の調査状況をメンバー全員で共有します。
なお、最前列は、小学生組の面々。
様々な調査班の人々が議論をして、その場で生まれる見解をリアルタイムで共有できる環境が、この調査の醍醐味の一つ。


貝の化石が出土し、記録を取ってます。すでに同種の貝は野尻湖に生息していません。
小学生組(特に低学年)は飽きちゃうので、こうした作業の合間に雪合戦など、変化をつけていました。


考古学的な発掘調査に慣れてしまっているせいか、貝の化石や這った跡(生痕といいます)を見つけるため、薄皮を一枚ずつ剥ぐように丁寧に砂を掘り上げるのは、とても新鮮でした。人類の痕跡以外を見つけようとすると、遺跡とは何か?という根本的なテーマとも関わってきます。

(ま)



2014年3月17日月曜日

ラストスパートもすごかった…            小林ゼミ2013年度終了!

大学では授業も終わり、いわゆる春休み期間でしたが、小林ゼミでは312日の長野県高山村へのプレゼンとともに3月11~12日の長野県大町市へのプレゼンを行うという、超過密スケジュールが年度末にドンとやってきました。大町市訪問が先日終わり、ゼミの1年も終わりました。
大町市での発表内容についてはPugrinさんから報告がありましたが、このブログでは年度末の作業から考えたことを書いてみました。 

試されるチームワーク
この1年ゼミで培ってきたチームワークこそが過密スケジュールを乗り越える力だったと、終わった今実感しています。修士1年目だった私は、最初よくわかっていなかったのですが、小林ゼミの場合、発表準備は日々「進化」していきます。はじめの構想が保たれていることはまれで、今回の大町プレゼンでは話し合いが回を重ねるごとに4時間、6時間…と延長し、すごい速度の議論が交わされ、発表のバージョンはどんどん更新されていきました。そして次々と出される新提案に対して、皆が作業を分担し、順次スケジュールを切りながら次回までに新しいかたちにしていくことが可能だったのは、「あの人だったらここまでできる」という「お互いの技量」がわかり合っているチームワークがあればこそで、この年度のゼミメンバーの総力戦と言った感がありました。後半は特にすごい連携プレーだったと思います…。
 
100パーセントは伝わらない
「プレゼンも研究発表も、100パーセント伝わるなんて思ってはいけない」と小林先生は言っていましたが、当然独りよがりであってはいけないわけで、「伝えるため」に最善を尽くした上での、その覚悟ということでしょう。このゼミが共同作業を頻繁に行うのも、たくさんの目で見て考えて、何度も議論を重ねてひとつのものを作り上げていく過程を通じて、伝える技術を学んでいくためなのでしょう。自分は宣教師の研究をしているので、この「伝える」という行為には非常に関心があります。全く宗旨の違う人間に自分の考えを伝えるのは非常にむずかしいことです。「文化政策」や「行政の文化化」といった概念のないところに、新たな概念をもたらすにはどうしたらいいのか?小林ゼミのプレゼンはいつもそんな課題を抱えながら考え出されていきます。小林ゼミって、フロンティアにいるなあ、こんなゼミめずらしいなあと、この1年ずっと思っていました。100パーセント伝わることはないけれども、なにか痕跡を刻んでいく。その積み重ねの先にだけ「文化政策」の土着化があるのかと。

 河原で「アエイウエオアオ」?  

今回の大町プレゼンで、発表直前に行われた小林先生の「演技指導」ともいえる指摘にわりと皆、目からウロコが落ちた感じでした。通常の「原点」授業での研究発表などは特に声の抑揚もつけずに淡々と発表してもなんの支障もないですが(面白くないかもしれないけれども)、学外の方々を対象としたプレゼンでは実は「役者」張りの発声、見せ方が大事なのだ!と改めて実感したのです。ゼミ生には女優さんや歌姫がいることもあり、彼女たちの変化自在な発声や発表姿勢に「自分たちも河原で発声練習するか」という案も出ました。これもまた人に伝えるためにはおろそかにしてはいけないことなのだと学びました。7時間フリーで話せる小林先生の門下としては、実に大事なポイントなのでした。 

世代交代はゼミの常なれど
大学院生のゼミではメンバー交代は頻繁でありますが、小林ゼミの場合は継続的なプロジェクトを抱えています。修士課程2年だけ在籍するとなると論文執筆が2年目には控えているので、自分が関わったプロジェクトをすぐに次の世代に伝えていかねばなりません。そして今年度は修士2年生に加え、長年ゼミを支えてくださった博士の先輩2人もゼミから旅立ちます。ゼミ全体の運営をどう継承していくのか、単発的に個人発表をするだけではないこのゼミの課題です。この課題を先輩たちも繰り返し乗り越えてきてゼミの現在があるのだなと、1年めぐってようやく思い至りました。
 
ゼミのラストスパート、すごかったです…。一年間ずっと走ってきたかんじですが、ラストスパートが来た~~!でした。見事に風邪をひき、己の体力不足を痛感しておりますが、本当に1年間、小林先生、ゼミのみなさま、ありがとうございました。来年度はまた違う「走り」を味わえることでしょう!
                                                     (Mube

 
追記:大町の帰りに松本市に寄りました。「行政組織図的にも文化振興課が首長部局にあるまちね!」などとプレゼンのおさらいをしつつ歩いていると、やたらと女性が歩いています。「もしや?」と思うとやはり、「まつもと市民芸術館」ではこんな公演が…。

伊東豊雄のフェミニンな建物と相俟って、会館は華やぎと熱気で満ちていました。開館10周年の足跡をたどるパネル展示もあり、芸術監督の串田和美のインタビューも掲載されている館の冊子『幕があがる』も読み応えがあります。名作『もっと泣いてよフラッパー』『まつもと大歌舞伎 三人吉三』公演も予定され、市民オペラ活動もあります。ほんの短い滞在でしたが、「文化のまち松本」を実感したひとときでした。

2014年3月16日日曜日

どうして大町のお肉はおいしいの?

小林ゼミ3月長野巡業を終えて投稿いたします、pugrinです。

3月11日、12日は長野県大町市を訪問してまいりました。

文化で地域を豊かにしていくため、
大町市では行政の方々へ向けたプレゼンを行いました。

要旨は以下の通りです。

・21世紀、重厚長大産業ではない何かで地域を活性化していくためには文化の力が必要
・大町市には、北アルプスの山々が生み出した自然や人々の暮らしがあり、
 それらはすべて文化であるとともに、これからの大町市を輝かせる可能性を持っている
・その実現のために行政は市民とともにあるべき姿を設定し、
 タテ割りで業務を行うのでなく、総合的にデザインする役割を果たしていかなくてはならない
・事例:フランス・ナント市の取り組み
    いわき市アリオスにおける官民協働の仕組みと市民を巻き込んだ活動
    京都芸術センターという廃校活用の例

市長はじめ幹部職員の皆様が真剣に聞いてくださいましたが、
みなさまに、個人の娯楽や教育・教養だけでない文化の力と
そのための行政の在り方について前向きに考えていただけたなら幸いです。

----------------------------------
さて、今回いただいたお食事はこちら


「麻倉」にて市民のみなさまと宴会でした。
写真中央の緑のものは肉巻アスパラなのですがこれが絶品!
味噌ダレが何とも言えない良い味で、肉もアスパラもジューシーに仕上がっていて、
小林先生も感動の一品でした。


そして翌日のランチは焼肉をいただきました。

これ!このカルビ!!
ふつう2500円くらいだと思うんです!
それが980円…

このごっつい丼ぶりは焼肉丼、なんと680円です。
いただきます。















前回訪問時に「大町は焼肉が多いしうまい」、というウワサを聞きつけ楽しみにしていたのですが、
まさに期待を裏切らない味とボリュームでした!
出張や旅行に行く際は必ず何を食べるかチェックするのですが、
大町が焼肉がさかんだなんてどこにも見つからなかったですし、
外向きにプッシュされているわけではないよう?
焼肉という切り口で大町が語られることは少なかったのではないでしょうか。

だってタイトルのとおり質問をしたのですが、みなさん首をかしげて
「これが普通だと思ってたけどね?」と答えていらしたんです。


なんだかもったいないし気になる。

来年度の課題も目標ややる気も一度東京に持ち帰り、
小林ゼミは新入生を迎えてまた4月から動き始めます。

次にこのブログを投稿するときは私もM2になっていると思います。
まずは1年間無事終了してよかったです!
お付き合いいただきありがとうございました、来年度もよろしくお願いいたします(^^)   

2014年3月13日木曜日

ブキット・ブラウンにある日本ゆかりの墓石たち

ご無沙汰しております、齋藤@シンガポールです。これまで文化遺産保存活動として、また宗教儀式歴史教育の実践の場としてご紹介してきたブキット・ブラウン華人墓地ですが、今回は墓地保存をめぐる最新の情報と、日本との関連という切り口のお話をしたいと思います。

墓地保存活動の今
2011年に道路建設計画が公になると、墓地保存を求めて市民ボランティアによる活動が始まった華人墓地ブキット・ブラウン(1922年開設)。ボランティアによる継続的なガイドツアーや調査研究の努力も空しく、2013年12月から政府による墓石の撤去作業が始まりました。墓地には最大で2万基余りの墓石が現存すると言われていますが、道路建設予定地に立地する墓石のうち、親族から申請のあったものから順に合計3442基が、今夏までに撤去されるということです(家族主導で既に304基が撤去された。2013年12月までに親族から申請があったのは1263件。撤去作業の状況はボランティア公式ブログ参照。)

海外からの視線
ボランティアの努力は海外からの注目という形で実りました。近年シンガポールでは初の世界遺産登録に向けて植物園を国際的にアピールする動きが活発化しています。そんな中ブキット・ブラウン墓地は、ニューヨークを拠点に破壊の危機迫る世界中の遺産の保護を訴える非営利組織・World Monuments Fundの「World Monuments Watch 2014」のひとつとして選ばれました(他には東日本大震災の被害を受けた東北の遺産や、シリアの遺跡などが選出されている)。ボランティアの持続的な活動は、政府の道路建設と、その後の住宅地開発計画を覆すには至っていませんが、世界的な遺産の仲間入りをしたことは地元メディアも大きく報道し、その名は広く国民に知れ渡るようになったと思われます。また、ガイドツアーの参加者は1万人を突破。外国人観光客の他、地元の中高生や大学生も授業の一環として墓地を訪れることが増えました。

日本ゆかりの墓石たち
陈馬士野の墓
ボランティアたちはブキット・ブラウンの文化的価値を、華人の文化遺産としてだけでなく、多文化が混在するシンガポール独自の文化遺産としてアピールしています。彼らにとっては、偉大な華人系パイオニアの墓石と同じくらい、シーク教徒のインド人護衛を象った彫像や西洋風天使をあしらった墓石、オランダ語で書かれたインドネシア系プラナカンの墓石などを重要視しているようです。日本に関連した墓石もそんな多文化混在の要素を表すもののひとつ。先日、日本関連の墓を中心に調査を続けるボランティアたちに連れられて、その一つ一つを訪問する機会を得たのでこちらでご紹介します。ボランティアたちが「日本関連」とする墓石には大きく2種類あります。日本人を埋葬した墓石と、日本の影響が見られる墓石の二つです。
山田おふにの墓

二人の日本人の墓石
日本人の墓石は、現時点で2基発見されています。ひとつは政府の埋葬記録に「華人に国籍を変更した日本人」という記述の残る陈馬士野(1853-1934)。シンガポール在住の華人・陈(Tan)氏と結婚し、81歳で亡くなった彼女には娘と孫娘がいたようです。ボランティアは、シンガポールに在住した初期の日本人である馬士野はからゆきさんだったかもしれないと話しています。

もう一つは、政府の埋葬記録に日本人として記されている山田おふに(1869-1941)。植民地時代ラブアン島(現マレーシア)の治安判事を務めた许云发(Koh Eng Watt)と結婚、72歳で没しました。華人の有力者に嫁ぎ、英語話者のための仏教団体でも活動していた彼女については、ボランティアたちはからゆきさんではなく、あった可能性は低いとみています。

これらの墓石は発見当時、木々に埋もれて荒れ果てていましたが、ボランティアたちの清掃により今では墓石の記述や美しい装飾がはっきり見える状態になっています。

ドーリー・タンの墓
日本の影響が見られる墓石
ボランティアたちは埋葬者に日本との関係がみてとれるものと、墓石のデザインに日本の影響を感じさせるものも日本ゆかりの墓石として調査しています。

日本と関係のある埋葬者の墓の一つは、二人の日本人男性(本村克己(施主)、濱野宏行(友人))によって建てられた華人女性ドーリー・タン(陈金雀/1914-1943)の墓です。ドーリーの名はカタカナで墓石に刻まれ、墓を建てた日本人の名のほか、皇紀と民国の年号、英語の表記も見られます。

二つ目は冯日本娘(Fong Jipoon)という名を持つ女性の墓。26歳で亡くなった彼女の墓石には広東出身である旨が記されていますが、なぜ日本娘という名を持つにいたったかは謎に包まれています。

日本娘の墓
デザインに日本の影響を感じさせるものは現時点で4基発見されています。他の華人系の墓石とは明らかに異なる形状をしており、ボランティアたちの目には日本の墓石を彷彿とさせる様式に映るようです。一見、日本的な要素を見出すのは難しいのですが、日本の石屋関係者によれば、この墓石の化工に、セメントの上から砂利をかけて表面に天然石のような表情を出す「洗い出し仕上げ」という技法が使われているとのことでした。洗い出し仕上げはかつて日本家屋の壁や玄関に用いられた技法らしく、これらの墓石と日本の影響も完全には無視できないものとなっています。ボランティアたちは墓石の背後に花の彫刻を施した柱を建てる様式が、シンガポールで広まっていた日本式仏教などの宗教的な影響を受けているのではないかと推測しています。

海外からの視線と日本関連の墓石を物語るボランティア
ブキット・ブラウン墓地をシンガポールの国家的遺産に、延いては世界的な歴史・文化遺産としてアピールする市民ボランティアたちの活動からは、どんなことが読み取れるでしょうか。山下晋司は世界遺産となった中国少数民族の村を事例に「だれが、だれのために、何を、何のために、文化資源化するか」という問いを投げかけてます(山下『観光人類学の挑戦 「新しい地球」の生き方』,2009, p95.)。ブキット・ブラウンのボランティアによる価値ある墓石の取捨選択にも、シンガポール政府、非華人系国民、グローバルな文脈、といった異なる対象を意識した戦略が感じられます。
日本風?デザインの墓

橋本和也は観光体験における「真正性」とは別に、現地ガイド等との交流で感じる「真摯さ」、そして観光客が抱く観光体験の「真正性」といった要素が、「地域的な重要性を持つ価値の伝達」において重要な役割を果たすと述べています(橋本『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』, 2011, pp.238-239.)。ブキット・ブラウンのボランティアは個人差はあれ、華人の文化はそれとして、インド系やマレー系の文化はまた別のものとして個別に存在するのではなく、それぞれの要素が混ざり合い共存しているというシンガポールの文化的状況を体現しているこの墓地に、価値を見出し、伝達しようとしています。ガイドツアーの参加者たちは、整備されきった観光地では体験できない”本物のシンガポール"を期待して墓地を訪れ、日本ゆかりの墓石やインド人のシーク教徒像、西洋風の天使にまつわるガイドのものがたりに引きこまれていきます。ガイドの語りが政府や海外の言説ではどのように書き換えられ、伝えられていくのか、引続きこの墓地保存活動の行方を観察していきたいと思います。(齋)

2014年3月7日金曜日

二つとない高山村

3月前半も春休みではありません、pugrinです。

1日、2日と長野県高山村「第二回まり先生の一言セミナー」に行ってまいりました。


今回は、「文化施設での過ごし方の広がり」を大きなテーマとし、
事例発表と参加者・学生のワークショップを行いました。

発表した事例は以下の3つです。

・いわき芸術文化交流館アリオス
∟専門スタッフによる活発な事業を通して、
 市民全員が文化施設と関われるよう取り組みを行っている例

・北上市文化交流センターさくらホール
∟建設構想段階から市民を巻き込み、建物自体を
 市民が交流できるように設計している例

・ひと・まち・情報 創造館 武蔵野プレイス
∟生涯学習支援・市民活動支援・青少年活動支援・図書館の
 4つの機能を一つの施設に持たせることで、
 市民にとり自由な時間や空間、使い方を提供している例

そして、ワークショップのテーマは
「自分だったら文化施設で何をしたいか、
身近な他者には文化施設で何をさせ(てあげ)たいか」

前回(2013年8月)は参加者の皆さんのご意見をうかがう時間が少なかったことから、
50分間、KJ法(思いつくまま附箋に書き出したアイディアを
似た者同士近くに貼って分類していく方法)を用いて進めました。


発表で大事なポイントとしたかったことは、
「文化施設は自分が本を読み、公演を見聞きし、演奏する場所だけではない」
ということです。
その地域に住む人々の生活と密着しつつ、人々が関係性を築けるようにし、
人生が決まりきった毎日の繰り返しでないことを保証してくれるような場所であるよう、
懸命に努力をしている文化施設がたくさんあります。

また、ワークショップで考えていただきたかったポイントは、
「高山村の誰かと、高山村で一緒に楽しむには何が必要なのか?」ということでした。

そうした事柄を決めていくのは高山村の方々自身なので、
ワークショップの間、~でないとダメだ、よりも、~っていいな、
という言葉が段々出てきたのは、非常に良かったなと思います。

今回はセミナーの前に、本多さんのお宅(徳正寺)にてご住職から
高山村が江戸時代には山奥の秘境などではなく
交通の要地であったというお話を伺いました。


高山村に訪問すると、
扇状地ならではの、須坂とは異なる地形を体で感じるとともに、
そこに住まう人々の誇り高い暮らしが今も息づいていることを実感します。

セミナー後にいただいたおつけものと
「やしょうま」(写真のスイカ・レンコン・丸型の焼いた粉モン)は
もっちもちで、砂糖じょうゆのたれと絡んで最高でした!!


次回はさらに高山村の方々の本音を引き出せるような機会を作れたら嬉しいです。