2015年6月17日水曜日

アートによる前進!被災地「千人仏プロジェクト」ついに都美での展示へ

相変わらずの不眠症risaiaです。
さらに肩も凝ってしまっていけません。

昨年夏、私も同行させていただいた「千人仏プロジェクト」。
6月21日(日)から27日(土)まで都美での展示が行われます。

このプロジェクトは、東日本大震災の被災地のサポートセンターなどをめぐり
近隣に住む方々に集まっていただいて仏の木炭画を描いてもらうというもの。
1000枚の絵をつなげて1つの作品にすることを目指し、現在730枚。
今回の展示では、途中経過ということでうち311枚をお披露目します。

プロジェクトの中心になっているのは、東京で絵画教室を開く画家三杉レンジさん。
大手コンサルの復興支援室とタッグを組み、3年前から被災地に何度も足を運んでいます。
震災の記憶を後世に伝える「ドキュメンタリー絵画」を作り上げることだけでなく、
仏の木炭画を描くことにより安らぎを感じてもらうというセラピー効果や、
近所の人が集まる場をつくることによる孤立の防止も意図されています。

先日のツアーにはNHKの取材が入るなど、徐々に注目されているように思います。
関わらせていただいている者としてとても嬉しいことです。

ただ懸念していることもあって、1000枚集まったらどうなってしまうのだろうということです。
全作品をつないで巨大絵画を完成させ、東京や被災地で展示していくということなのですが、
「心の復興」のお役に立つという側面が一気にフェードアウトしてしまうように思います。

数の目標を設けてしまったこのプロジェクトが今後どこへ向かうのか。
震災という重い記憶を抱えながら、そのことすらアーティストの「作品」であるということ。
アートが社会と関わる難しさをこのプロジェクトも例にもれず背負っています。

素人が行くと逆に足手まといかもしれませんが、展示準備のお手伝いをすることになりました。
ツアーでお世話になったアーティストの方々とは久しぶりにお会いすることになります。
ボランティアは実質ツアー参加でしか関われないという現状は少し残念です。
ともかく、久しぶりの再会を楽しみにしています。

(risaia)

2015年6月10日水曜日

上野動物園のリアルな展示

最近若干生気を取り戻したrisaiaです。

本日突然の用事で、上野動物園に行ってきました。
そこでプチ衝撃に出遭いました。

※ややグロテスク、ショッキングな表現がありますのでご注意ください。

まず、可愛いペンギンたちの足元の水槽に、かなりの量の魚が沈んでいました。
それはまだいいとして、フクロウに始まるひと並びの展示では、皮のはげた鶏ふうの頭部だけが、直立したり、複数転がっていたり、それを雀が啄んでいたり。

上野動物園の意図はわかりませんが、「生」の真摯な展示はこうなるのだろうかと思いつつ。

こんな動物園展示はこれまで見たことがありません。
子供の時に見ていたら、かなりトラウマになったろうと思います。
園内の子供たちを見ながら、勝手に心配してみたり。
子供たちの目にも、花形の展示動物の足元は映るのでしょうか。

ホルバインの「大使たち」が、なんとなく脳裏に浮かびます。
「生」の展示が、本来すれすれの問題をはらんでいるということを、改めて思い起こさせられました。

(risaia)

2015年6月8日月曜日

歴史の街から思い出の街へ-韓国九龍浦(クリョンポ)

もう、東京は梅雨に入ったのでしょうか。
天気が不安定になっているようですね。

皆さん、こんにちは。久しぶりに投稿するbanulです。
今日はこの間NHKでも紹介(http://www6.nhk.or.jp/kokusaihoudou/lounge/index.html?i=150501)されていた、韓国南部のポハン市にある、九龍浦(クリョンポ)地区について紹介したいと思います。

ポハン市は釜山から、車で2時間程度北東側に向かった走れば出てくるところで、東海(日本海)と接しています。ここには韓国の大手企業POSCOの本社と工場があることから、経済的に豊かな地方都市でもあります。

このポハン市の一角に九龍浦という町があります。
最近、この町に観光客が次から次へと足を運んでいるようです。
そもそもポハンのホミコッというところは、お正月(その以外の時期でも)に日の出を見に来る場所として韓国全国の中でも最も有名な場所でありますが、九龍浦とうい地域はさほど外部の人には知られていない地域でした。
この町がホミコッと合わせて観光の町になったきっかけは、ポハン市が「近代文化歴史街復元事業」の一つとして「九龍浦近代文化歴史路助成事業」をおこないいます。その中で、「九龍浦近代歴史館」を開館(2012年7月31日)することによって、その周辺の街も整備されました。(復元のため、ポハン市は2010年~2013年、事業費85億ウォン投入)

(九龍浦近代歴史館(ポハン市ホームページより)

九龍浦がどのような近代文化歴史を持っている町なのか。

今から100余年前、誰も住んでいなかったここに日本人の手によって町が形成されます。
1906年、日本香川県出身の橋本善吉と、岡山県の出身の十河弥三郎が代表となって、多くの日本の漁師たちと800余隻の船を率いて、東海(日本海)の豊かな魚資源を探しに、黄金の地エルドラドを夢見ながら定着したのが、ここ九龍浦であります。
彼らは、この九龍浦を基点として本格的に事業(鮮魚運搬業等)を行い、大成功となります。
1930年初からは、ここ九龍浦は最高の全盛期となります。その盛り上がりは、犬までが札を口で噛み付いているほどであったと言われています。そのぐらいにここ九龍浦の漁獲高は凄かったでしょうね。当時、ここに住所を持っていた日本人が1,000人を超えていたと言われています。
植民地時代に日本人により漁業、船舶業、缶詰加工工場等を通じた経済活動を行ないながら、日本人集団居住地を形成したのが、ここ九龍浦であります。
九龍浦は、1930年代劇場、病院、デパート等、近代式機能をもつ都市として発展して、とても賑やかなところでした。

以上のような歴史を持っている九龍浦は、ポハン市により再び賑やかな町へと変わっていく。
ポハン市は九龍浦近代歴史館を中心に、九龍浦近代文化歴史路助成事業を通じて、九龍浦の新しい活力を探し、国内・外の新しい観光名所として変態するきっかけとなることを期待していると言っています。
九龍浦漁業組合長であった橋本善吉の家だった建物を、2010年ポハン市が買い入れ、復元作業を通し、九龍浦近代歴史館として開館するなど、日本の家屋を30棟復元して、九龍浦近代文化歴史路を作り上げ、日本人街を再び誕生させました。

九龍浦近代文化歴史路は歴史の場所から、思い出の場所へと変化していくところです。
昔の人には(その時代を経験した人や記憶している人)この場所が苦しみであり、歴史の場所でありますが、現在の人には思い出の場所であり、観光地であります。
このように、九龍浦の近代文化歴史路助成事業によって、この場所はまた別の場所性を持つこととなります。

九龍浦を訪問して何を学んで何を校訓にするかは、ずるいかもしれませんが人それぞれに任せることにします。

(bangulより)



 


 
 

 





 




2015年5月28日木曜日

姫路で見つけたもったいない文化施設

先週末ふらっと姫路に家族旅行してきたrisaiaです。

姫路城はこのほど6年にわたった改修工事を終えました。
そういうわけで今ちょっぴりホットな観光地となっています。

勉強してから行こうと、姫路市埋蔵文化財センターも訪れました。
名前の通り、埋蔵文化財を調査研究、展示する施設です。
「姫路城ー保存修理の歩みー」という展示が行われていたのです。

姫路市埋蔵文化財センター外観(姫路市HPより)

そしてこれが、タイトルの文化施設です。

中心地である姫路駅とお隣りの御着駅の間に位置します。
車で訪れましたが、カーナビも若干戸惑い気味の立地。
畑とわずかの住宅のなかに、立派な建物が突如現れました。
地元の人にどう思われているのか、なんとなく考えてしまいます。

そして第2の戸惑いは、がら空きの駐車場。
休館日でもないし、日曜日なのに、まさかのrisaia家貸切状態。
直前に姫路城を通りすがったとき、原宿並みにごった返していました。
その姫路城について展示しているのだからこちらも…と予想していたのです。

展示の内容はというと、足を延ばした価値はありました。
特別展示は小さい1室で行われているのみでしたが、
昭和の大修理(1956~1964年)の写真や工具など面白く見ました。

常設展示は、施設に隣接する宮山古墳などの出土品。
ほかに、講座が開かれる研修室や、広めの研究スペースと思しきものがありました。

しかしとにもかくにも、それなりに面白い展示をやっているのに
滞在中にほかの来館者がひとりも現れなかったことはショックでした。

ツアー旅行のルートに入ってこないのはなんとなく分かります。
しかしさらに、個人旅行者の目にも留まりにくい施設なのだと思います。

というのは、普通に姫路での訪問先を調べているぶんにはなかなかヒットしないのです。
私は姫路市観光情報HPから51件の訪問先を洗い出し、逐一検討していました。
このやり方でなければ、姫路市文化財センターに行き当たらなかったように思います。
さらに、姫路城にちなんだ展示を開催していることも掲載されていませんでした。
施設の存在を知り、個別に検索してみて初めて分かったのです。
若干のアクセスしづらさはありますが、広報の問題が大きく思いました。

貸切状態は快適でしたが、もったいないなと感じた施設でした。

(risaia)

2015年5月26日火曜日

神田祭 附け祭 むかしむかし浦島は

今回の付け祭 初の試み 「魚のつくりもの」

 なんだか怒涛の春でした…ブログも書けずにおりました。そのなかrisaiaさんのブログにありましたように、神田祭附け祭に私も参加いたしました。
 今回は3Dプリンターで魚の鋳型をつくり、幾度かのワークショップを経て各人が魚のつくりものを完成させ、お祭りに着用して参加!という新たな「浦島太郎班」の試みがありました。私は地元というご縁もあって、昨年夏より準備に少しずつ参加してきましたが、江戸時代の町人気分の手作業の時間は、頭を空にできるよい時間でありました…。
 
 

 
祭は変わる 伝統とともに死ぬか?変わるか?

 文化資源に所属していてよかったなーと思うのは「伝統を疑え」みたいな発想です。日本三大祭を標榜する神田祭にそんな疑いの余地をはさむ隙もなさそうなのですが、祭は世につれ…というわけで、祭というものも有機体であり、時代との摩擦に常にさらされているものであることを忘れてはいけないなと思うのです。

 江戸時代、山車の祭だった神田祭が明治期以降、お神輿の祭へと変化していった過程を木下直之先生が再三レクチャーしてくださっていますが、祭を支えるまちのコミュニティーの変遷も大きいです。かつて神田は商業がさかんで、「旦那衆」と言われるような富裕層が多大な寄付をおこなうことで祭は成り立っていました。しかしもはや昔の商売が立ち行かなくなっていく時代のなかで、町会の寄付集めは年々きつくなり、担ぎ手も地元の人では足りない、複雑な神輿の運行を仕切る人材の不足、町会役員の高齢化など、運営が厳しい現状があります。一度、我が家で青年部員同士が「どんなにきつくても伝統を守る派」と、もっと「現実に即して祭は変わるべき派」と熱く口論していました。「いつかお神輿が上がらない日が来る」という危機感が二人に共通だったかと思います。

 
附け祭(文化資源の出し物は脱力系であるが…)何ものかではある

そこで、附け祭の存在が浮上してくるのかなと思います。お神輿の運行を町会メンバーで固めている、ある種の排他性とは対極の「ゆるい参加形態」、「低予算」(お神輿は製作もメンテナンスも高い)、「老若男女が制作・練り歩きに参加できる」(お神輿は体力ないと担げません…)など、もしもお神輿が上がらなくなった時にはこれだなーと思いつつ参加していました。神田神社が附け祭に関心が高いのも、次世代の祭への模索が少しあるのではないかなと思っています。

 お神輿の雄姿はやはり美しいものです。お神輿は明治期以降に主流になったとはいえ、すでに100年ほどの時を経て、それは立派に「伝統」になっています。しかしその「伝統」にとらわれるのか、「伝統」自体を見つめなおすのか、文化のさまざまな局面で繰り返されてきた普遍的な問いが問われているなあと思う神田祭の日々でした。                     
                                    (Mube

2015年5月15日金曜日

神田祭附け祭に侍女

M2に進級しました不眠症のrisaiaです。
5月9日(土)神田祭附け祭に侍女役で初参加させていただきました。
準備などまったくお手伝いできなかったのに綺麗な衣裳を着せてもらい恐縮です。

今年神田神社の遷座400年を祝った神田祭。
文化資源学研究室は2007年「神田祭附祭復元プロジェクト」を発足。
附け祭というのはお祭りのパレードのようなもの。
カラフルで張りぼてで賑やかでした。

文化資源学研究室に入って早1年が経ちました。
私の中でひとつ大きく変わったなと思うことがあります。
張りぼての「つくりもの」が容認できるようになったことです。

つくりものは悪いもの、ほんものが良いもの。
ほんものなんて分からないのに、そう囚われていたと思います。
文化はいつもつくっていくもの。書いてみれば当たり前のようです。
しかし、それを本当に受け入れられたのはここに来てからに思われます。

本当に、面白くて変な研究室です。
これまでの1年を振り返って、改めて、好きですね。
これからの1年もどうぞ宜しくお願いします。

早朝から「囚」という漢字にときめくrisaiaでした。

(risaia)

2015年5月6日水曜日

初夏到来。20時くらいにならないとネオンは夜に映えません

先日ネオン博物館に行ってきました。
第二次世界大戦で壊滅したワルシャワでは、戦後に復興と称して多くの社会主義的な建築が建てられました。一般的に高官向け施設は豪華絢爛で権威主義的、労働者向けの団地はひたすら真四角で素っ気ないです。今でも厳めしい労働者の石像やレリーフなどを見つけることができます。現在ではそれがお洒落なミニシアターやカフェバーに改装されていたり、レリーフの真下にケンタッキーフライドチキンがあったり、団地を地域コミュニティーとして見直したりとそれはそれで興味深いのですが、今日は別の話です。 
 


1956年のスターリン批判以降、ポーランドでも当局の締め付けが若干緩み、労働を讃美する怖い石像の代わりに資本主義に繋がる広告を設置してもいいだろうと判断されました。その結果、196070年代には社会主義国ながら広告の黄金時代が到来するというやや矛盾した現象が起こります。ネオンはその流れで重要な役割を担い、右の化粧品広告のように今も現役というものも結構あります。
問題は時代の変化に伴い、時代遅れや不要と判断されたネオンをどうするかです。かつては公共建築ではなかったからこそ栄えたネオンが、今度は公共建築ではないからこそ広告としての価値を失えばそのまま撤去や処分の道を辿ることになりました。そこにIlona Karwińskaという写真家が登場します。彼女は2005年よりポーランド中の面白いネオンを写真に収めるプロジェクトを始め、その多くが存続の危機にあることを知ります。そこで彼女はDavid Hill とともに2012年に本施設を開館しました。 
 

 
博物館はまさしく倉庫といった感じで、入館者が来る度に係員が主電源を入れる省エネ運営。ブーンという音を聞きながらネオンに添えられた説明を読むと、その多くが2000年代に元の場所から撤去されて本施設に寄贈されていました。閉店や経営難によりここにやってきた“作品”が多かったのですが、面白いところでは2012年に行われたワルシャワ中央駅の大規模改装に伴っていらなくなった古い電光掲示板などもありました。それでも寄贈品の全てに電気を通して壁に掛けるだけの場所はなく、床にもネオンの山。それでもデザイン性の高さを見るには十分で、運営側がこれを後世に残すべきだと判断した気持ちはよく分かります。元々の役割を失った物を一種の美術品として保存・活用しようという意味でも、ここは正統派の博物館といえるでしょう。
その設立経緯もあり、本施設はあくまで私営博物館として機能しています。それでも本館が街に残るネオンの整備を担当したり、新たにパブリックアート(≠広告)としてのネオンが登場したりと古い時代の物を見直す動きはネオンにおいても広まっている模様です。
(N.N.)