2015年3月22日日曜日

M2から見た風景 大町プロジェクトを振り返って

 M2Mubeです。今年度最後の大町市訪問、315日~17日におじゃまして、市庁舎ロビーでの展示設営、大町市文化資源活用ビジョン策定委員会、市民文化会議特別編に参加させていただきました。今回の滞在でも大町市役所生涯学習課のみなさまには大変お世話になりました。ありがとうございました。

 ゼミメンバーは年度ごとに変わるので、それぞれの学年がそれぞれのアプローチをし、それぞれの感慨を大町市に抱いていることになります。M2はこれまで大町市には2年間関わってきましたが、1年目は同じ長野県の高山村のプロジェクト活動も同時進行だったため、大町市のことばかりに取り組んできたわけではありませんでした。しかし、なんといっても20143月の大町市へのプレゼンを前にした時の緊迫感が一番印象に残っています。

 私の日記によると20131224日に小林ゼミでクリスマス会を開催、楽しい会の最後に、大町で過去に模索されていた「野外博物館」構想の100号以上にわたる冊子の記録を読み解くという大きな課題が出ました。せっかく冬休みなのに、みんな「がーん!!」といった感じでしたが、小林先生は「私、大町のこと本気だから。ここが変わらないと日本は変わらないくらいに思っている」と言い、この時期から急速に大町プロジェクトが加速していきました。

 その時期、地域創造の地域文化コーディネーターとして小林先生が派遣されていた大町市での事業が、大町市とゼミがかみ合わないうちに2年目が終わろうとし、3年目は継続されるか、されないかという瀬戸際に立っていました。20141月以降は「もし終わるのであれば、大町市に言いたいことをしっかり言おう」ということで、プレゼン準備が進み、小林先生、博士課程のダブルN先輩たちとの最長は8時間にわたるミーティングなど、熱烈な議論とプレゼン準備が行われました。

 正直、うちの学年は最初小林先生に反発していましたし、私自身もゼミが何をやっているのかわからないまま1年が過ぎようとしていましたが、この時期の大町ミーティングでおぼろげながら「文化政策」について理解できるようになった気がします。現場を経験していたことで、本を読むだけではスルーしてしまうようなことが身に染みて感じられました。頭でっかちではわからない小林ゼミの「知」の在り方を偉大な先輩たちから学んだ機会でした。

 20143月のプレゼン内容については、「大町市ではこんなドラスティックな変化は起こらないだろうな…」と思いつつも、もう嫌われてもいいやといった心意気で、たくさんの提案を思いっきり行いました。そして1年経った20153月、ありえないと思われた文化振興係の首長部局での設置ということが実現するなど、1年前のあの決死のプレゼンからは考えられないようなことが起こりました。

 今回、私は大町プロジェクトの事業報告書の編集を担当しましたが、その作業を通じて改めて1つ上の先輩たちがまだ見ぬ大町市に対し、精緻なリサーチを行い導き出した分析結果と大町市の状況との合致に驚きましたし、1つ下の学年がいきなり「大町冬期芸術大学」開催や「大町市文化資源活用ビジョン」策定の実働に突入した劇的なこの1年の変化に応じてきた姿にも感動しました。そして編集作業を通じて、この難航ともいえる事業の統轄を行ってきた小林先生の全体構想についても(自分では充分理解できていないかもしれませんが)初めて知ることができました。それぞれの学年が見た大町市のプロジェクトの風景は違いますが、ひとつのまとめが報告書作成によって行われたと思います。

 しかし、大町市の変革はまだ始まったばかりで、この3年の変化は行政と小林ゼミとの間におこった局所的なものに過ぎません。成果発表パフォーマンス参加者の感想とは正反対だった現地マスコミの反応など、まだまだたくさんの課題があります。「大町市が文化振興をする」のではなく「文化で地域を振興する」という発想の転換の実感と共有までにはまだまだ時間がかかるのでしょう。つい私たちゼミ生は拙速に成果を求めてしまいがちですが、「創造的な環境を整えるのには時間がかかる」と去年のプレゼンで小林ゼミから提示した命題を忘れてはいけないのでしょう。効率や数値では語り切れない難しさに向かっているからこそ、文化政策の研究は奥深いのだなあと、月並みな感想をいだいて2年目を終えます。
 
 大町市のみなさま、ご一緒したゼミ生のみなさま、同期、そして小林先生、本当にありがとうございました。   

ワルシャワから片道600円、2時間で行ける街です


先日、12月に一度訪れたウッチに再び行ってきました。一番の目的は世界的に知られるスコリモフスキ監督の絵画展を見るためでしたが、前回の訪問ではあまり良くなったこの街の印象も、もっと暖かく明るい季節に行けば変わるのではと思っていました。12月には不自然なほどにガラガラだったPiotrkowska通りも、今回は春の陽気に誘われて多くの歩行者がいました。
 
この一日で訪問したギャラリーは四つ、それに街中に点在するウォールアートを見て回りました。どの展覧会も規模は小さいながら質が高く、特に20世紀初頭に建てられたアールヌーヴォー式建築を利用したギャラリーと、ウッチ美術館一号館のNEOPLASTIC ROOMは必見です。また前回の記事で「今度は行きたい」と書いた、元々古い工場跡地だったOff Piotrkowskaにも行ってきました。レンガ造りの建物はカフェバーにポーランドデザインの衣料・日用品が揃った店、料理教室にギャラリーと様々に利用されていました。一回目には気付かなかった街の一面が見られて良かったです。

ただ、この街は徒歩で回るには向いていないと感じました。実は今回の訪問でも街の根本的な印象が変わったわけではありません。むしろ前回感じた「中心部がない」ことの問題点がより具体的に見えてきた気がします。Piotrkowska通りは全長4キロですが、当然ながら店や人々で賑わうところもありますが、距離の面でいえば工事中であったり、周辺に崩れかかった建物以外何もない場所の方が多いです。メインストリートであることは間違いないけれど、長すぎて「中心という場所」にはなっていない。人はいつもどこかへ向かう途中で、道の脇なり広場なりに留まって何かをするということがない。意外なことにそれはOff Piotrkowskaであっても同じで、建物内部に店舗はあってもバザールで購入したランチを食べるようなオープンスペースはありませんでした。むしろその役目を果たしそうな場所は駐車場(洗車場すらありました)になっていました。「店で何かを買ったり食べたりする予定はないけれど、ふらっとやって来たい人」が想定されていないのではないかと。北国なのでそのような場所を室外に作ることはしないのかもしれませんが、室内でその役目を果たすような場所もこれといってありませんでした。

車社会であるこの街には必要とする人が少ないのか歩道に案内図がなく、ギャラリーを巡っていて少し迷いました。とあるギャラリーでウッチの全体地図を見た際”Nowe Centrum Łodzi (w budowie)” (New Center of Łódź, now in construction)と書かれた比較的大きなスペースがあり、中心とパブリックスペースに欠けたこの街を端的に表していました。

 
(N.N.)

2015年3月21日土曜日

大町市と小林ゼミと、修士の毎日と。

先日、大町市役所での展示オープンと市民文化会議特別版を見守ってまいりました。
Pugrinです。

『県庁おもてなし課』(有川浩、2011、角川書店)てご存知でしょうか。
高知県庁に出来た観光部「おもてなし課」の四苦八苦が描かれた物語です。
小説はあんまり、という方には映画化もされてDVDがレンタルできます。
映画では関ジャニ8の錦戸くんと、掘北真紀ちゃんがメーンです。
超、遅ればせながら、わたくし先ほどこれを読み終わりました。

そこには、まったく大町市でやってきたこととおんなじ葛藤があり、そして達成感がありました。
つまり、そのくらいドラマティックなことが起きた3年間のゼミの関わりだった、ということです。
そのくらいというのは、物語になり映画として商業的に成功するくらい、という意味です。

よく指摘されるのですが、文化政策と観光は同じではありません。
ただ、根を同じくするところは多くあるし、大切な部分でもあります。
だからこの小説では、今まで従来のあり方で動けなくなっていた自治体行政が、
政策のために一皮向けようとする過程において、
共通する苦労や喜びが、そしてそこに関わる人のドラマが、よく書かれていたなあと思います。
是非そのドラマと同時に、実際の自治体行政の現状と理想がうまく咀嚼されて描かれていたのを
読んでいただきたいので強くお勧めしたいなと思います。

一方、大町市と小林ゼミの物語では少し状況が異なり、
「文化」に関して、「市民」や「ゼミ」とどうか関わっていくかが中心になっていきました。
(だから錦戸くんと掘北ちゃんの恋愛ではなく例えば片桐はいりがスパイをしたりします)

外の人が来るようにするためにおもてなしをするだけではなく、
中の人も住み続けたくなるように行政側も市民側も一緒に、必要なサポート体制を考え直す。
表面を取り繕うに留まらない難しい理想の壁がそこには立ちはだかっていたと思います。

2013年にわたしたち(今のM2)が初めて訪問したとき、
大町市は(何度も書くけど)「へえだめせ」と言われていました。
2014年はそれはあまり聞きませんでした。(聞かないような場にだけいたかも知れませんが)
しかし、2015年には「こうしていきたい」という具体的な言葉になって返ってくるようになりました。
特にここ数回のの訪問で、大小の「夢」やあてどもない「希望」を語るようになった市長・教育長・教育次長の姿は目からウロコでした。

個人的には、大町が好きになった、という修辞句よりも
そこにいる人の顔や声やしぐさが具体的に思い浮かべられるようになった、
というほうが嘘くさくなく伝わるような気がします。
小説にあるようなことが「ありもしない作り事」ではなく
「生きている人間が作った現実」として起こったのだと思うと、
高速バスで旅ガラスだった日々もすわりが良くなってきたようにも思えてきました。

軸足は文化政策の追求に置きながらこれからも生きていきつつ
現役ゼミ生としてのブログはこれで最後になります。
本当にありがとうございました。

長くなりますが最後に。
ゼミの中でブログを書くという課題は、なかなか大変なことかもしれません。
でももし少しでも文章を書くことがある人生を選ぶならば、
小林ゼミではないがしろにして欲しくないことの一つです。
習慣のように、また思うことがあれば気軽にここで書き散らしたいなー、と思っています。
2番煎じで大町の小説でも書こうかな?
とにかく、現役生のほうがたくさん更新してくれますよう!(笑)

2015年3月20日金曜日

お日様がぽかぽかで散歩に最適な季節となりました。

以前紹介した「ポーランド・ユダヤ人歴史博物館」の常設展にようやく行ってきました。


知り合いから「展示技術はほとんど外国からの輸入で、ポーランドが関わっている面は見た目より少ない」といった指摘を聞き、ポーランド研究者による本館とホロコースト表象の関係については事前に読んでいました(リンク。多少読みづらいので注意!)

解説ツアーに参加すると二時間はかかる規模、その展示のほとんどはマルチメディア形式による文字資料です(オーディオガイドもあります)。中世に関する紹介は古文書からの引用、20世紀に関する紹介は物質としての資料が戦災で失われているので、自然とこういう形になります。展示のほかにも児童・学生・一般向けワークショップや、無料レクチャー(波・英語。今月の話題はヘイトスピーチや民族主義)も開催されています。

本館の目的を端的に言えば、ポーランド‐ユダヤ関係史と聞くと世界中が「ホロコースト」や「アウシュビッツ」を思い浮かべる現状を変えるための施設といえるでしょう。結果的に展示は中世から現代までを扱う長いものになり、ホロコーストはその中の重要な、それでも全体の中の一部として扱われています。その展示も収容所よりはワルシャワゲットー内の生活や蜂起の内容に焦点が当てられています。(国内には収容所跡という“実物”があるため)。

本館全体の感想ですが、それはこの博物館の外、つまり現代ワルシャワの街並みと合わせて考えなければなりません。先ほどゲットーに触れましたが、今実際にそれがあった場所に行って何かがあるかといえば何もありません。戦後の社会主義時代は基本的にユダヤ人にまつわる公的発言はタブーとされ、建て直された首都に移り住んだ人々は体制転換までそこにゲットーがあったことすら知らなかったというのが実情のようです。もちろん西ドイツのブラント首相がその前に跪いたことで有名な「ワルシャワゲットーの英雄碑」は1948年からありましたが、むしろそれしかない。博物館から歩いて数分の場所にはUmschiagplatzがありますが、そこには「この場所より約30万人のユダヤ人がナチスのガス室に送られた」とあり、ゲットー内で亡くなった人々の記述はありません。そこからまた数分歩けば大量の十字架が乗せられた荷車の碑、これは東方(ソ連)に送還されたポーランド人を偲ぶものです。さらには現在、戦時中にユダヤ人を救ったポーランド人を顕彰する碑をこの地域に建てる計画が進行中です(記事)。要するにポーランドの20世紀史とは「どの国籍」「どの宗教」「どの言語」の視点で語るかによって様相を変え、しかもその多くが戦後約半世紀もの間、語ること自体禁じられていた、混沌としてグロテスクなものです。この時代の芸術は一般的にグロテスクな作品が多いのですが、はっきり言ってしまえば現実のそれとは比べ物になりません。むしろ現実に対するカタルシスとして機能している気さえします。

それはさておき、これが博物館の外で起こっている現状だとすれば、本館内部はポーランド‐ユダヤ関係のあらゆる面に何とかして焦点を当てようとしている印象があります。古今の反ユダヤ主義に両者の政治・経済・文化的協力関係、各時代の生活風習…。情報過剰ともいえる展示は、本館ができる前に社会が目を向けてこなかったものがあまりに多すぎることへの裏返しです。それでもすべてを網羅できているわけではなく、一般的に現代ポーランド社会のユダヤに対する関心は(確実に広がりつつも)まだまだ低いと言わざるを得ないでしょう。その点からしても、この博物館はどこまでも「現在進行形」であることを宿命づけられていると思います。

最後に現代クレズマー音楽から一曲。



(N.N.)