この月の輪古墳の発掘には、様々な分野の人びとが評価を残している。そのうちの一人が、赤松啓介である。赤松の専門は、考古学と民俗学である。特に民俗学では、柳田國男が扱わなかった性とやくざ、天皇について、柳田の存命中から赤松は、岡山県を中心に関西地方で研究活動を行った。
たとえば、夜這いの研究では、赤松によると、それぞれの村に掟があって、村人だけに許されている場合や村外からの者も受け入れる場合があった。夜這いは家族公認であったから、表の戸は鍵がかけられておらず、夜に自由な出入りができた。場合によっては、夜這いに来た若者に食べさせる飯を米びつに残しておくこともあった。
「昔は、貞操観念がしっかりしていて、婚前交渉はなかった」なんていうのは、少なくとも赤松が調査した地域では、実態とはかけ離れた言説のようだ。赤松が言うには、自由な性習俗のおかげで、「結婚が失敗した」なんてことも少なかったし、夜這いの結果でできた子供の父親が分からなくても、村で大事にその子を育てたらしい。性にまつわる習俗は、村落共同体の機能を理解する上で、重要な位置を占めている。
こうした自由な性習俗は、戦後の高度経済成長期まで継続したとされる。急激な都市化とともに、女性は会社の事務員や販売店の店員として、都市部へ移り住むようになると、村落共同体における性にまつわる行動様式も変化し、やがて消滅していったというのが赤松の結論である。
赤松は、戦後も研究を継続させ、2000年に死去している。彼自身が評価されるのは、最晩年の1990年代に入ってからである。これはジェンダー論の興隆と密接に関連し、その象徴的な出来事が上野千鶴子との対談である。この現象の背景には、上野が指摘するように、赤松が変化したのではなく、彼の仕事を評価する枠組みが変化したことがある。
赤松の研究が特定の地域に限定されるため、そのまま普遍化できないなどの問題はある。しかし、こうした問題とは別に、各学問の「学史」の一部として語られてきた、あるいは評価の中心に据えられてこなかったものを、全く別の視点で改めて評価することで、それまで見えてこなかった価値を見出すことが可能であることを赤松の事例は物語っているように思う。だからフィールドワーク史は、おもしろいのだ。
(ま)
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